残紅

 朝一番の博多行きの新幹線に飛び込んで、何とか座席を確保した。六時半発。冬至を過ぎたばかりで日も昇っていなかったが、五時過ぎより待っていただけあって、目は冴えていた。東京駅を発って、昼前には新山口駅に着く。
 鞄の中の文庫本に手を伸ばそうとしたものの、結局は背もたれに上体を預けた。倒さずに、ホームを忙しなく行く人を桂は眺める。目覚める直前の都市を、はっとするほどに濃い藍が覆っている。やがて緩慢と流れた景色を横目に、するりするりと意識だけが長く遠く、もどっていった。

 残紅

 そのやわらかく光を反射する髪を見たのは、やはり秋のことだった。
 夕方近く、塾の帰り道だったことを桂は覚えている。うつむき通りすぎた道を、金木犀の波が染めつくしていた。鼻腔をくすぐるそれは彼の匂いだった。誰よりも親密であった。誰よりも疎遠になった、未だ出会わぬ彼。
 ふわりといっそう甘い匂いを風が運んできたとき、過ったのが見知ったその輝きだった。白というには鋭く、銀というにはたおやかな髪は、いつか田んぼ道を背負われて来たあの日と同じ、夕焼けの色だった。
 本当は、そうと気付いた時、もう長く、永く声にすることはなかった名前が喉元まで来ていたのだ。欄干を越えて駆けて行きたかった。けれど、彼の繋いだ手の先の人を見た途端に伸ばしかけていた手はすくんでしまった。彼の手を引き、花の綻ぶように笑う人は、彼と同じうねった髪を持っていた。いや、彼が彼女と同じ髪を引き継いだのだろう。無邪気に笑い返す彼を見た時、もう彼の名前を、己の知る男に重ねて呼んではならないのだと桂は知った。
 もうぎんときと、きっと呼んではならなかった。
 桂の知る銀時があれほど焦がれ憧れ、怯え避け続けてきた家族を、彼はやっと持つことができたのだ。記憶にある男の養い親と同じ、穏やかで優しい目をもった女の人の本当の家族に。やっと、掴んだ幸せなのだ。ようやく訪れた平穏を、破ってはならなかった。
 でも、それと引き換えに、あるいはだからこそだろうか。彼もまた、覚えてくれてはいないのだろう。あのあたたかな地で遊び、競い、笑った日々のことも、怒りに悲しみに刀を振るった日々があったことも。自堕落に徹しながらも煌めいた目も、誰よりも優しいくせに天邪鬼で偽悪的なところも。彼を慕った人のことも、彼の慕った人のことも、どれも覚えてはいない。何の冗談か再び近所となり幼馴染となった高杉も、同じだった。
 生まれ育った町も一番昔の記憶にある、西の村ではなかった。地図で調べた村は、今は地方都市だった。手を繋ぎ笑う子供に訪れた幸福を祝福すると共に、桂の心は寂しさに冷えていく。それは途方もない孤独だった。知りすぎるがゆえの疎外感だった。取り残された記憶の枷に捕らわれとうてい身動きができない。この世にたった一人として、己のこの孤独はわかるまいと、幼い桂は思った。
 それから、まるで定められた路線を行くが如く、銀時は桂と高杉の通う小学校に転校してきた。彼の母親は優しくてきれいだと評判で、しかしこれも設えられていたかのように、中学校を卒業する間際に両親ともに交通事故で他界した。
 その知らせの届いた夜を、桂は今でも覚えている。用件のみを告げて切った電話先の声に、真っ先に芽生えた自責の念は何年過ぎようと蝕むことを止めない。師の件もあって十分に予測のできたことなのに、決して起こってくれるなと目を逸らし続けてきたのだ。どれだけ知っていようと、結局どこまでも無力なのだと悟るには、随分と時間が掛かった。
 代わりに、高校で一緒になった坂本は、桂にとっては幸いだった。とうてい誰も理解できないかと信じた孤独は、高知より来たもう一人との、二人のものとなった。そして二人で、もう追及はしないと決めたのだ。
 そのうち、記憶を持たぬはずの銀時が当たり前のように教師となり、銀八などというふざけたあだ名で慕われるようになった。初めの頃は似合わないと高杉坂本と三人してからかったものだが、考えてみれば至極自然なことだった。もし彼の人の記憶があったならば、それこそ彼はそれをたどることはなかっただろう。
 だから今度萩に行こうとその銀時が言い出した時、桂はこれが天啓なのだと思った。
 うつむいていた頭をおこし、目を遠くに放った。絵具を溶いたようにふかくかさなった山々と、崩れる海しぶきに指をのばすと、冷えたガラスにとんと当たる。
 冬の列車は、車窓の左右が墨絵のように続いた。
 暖かい車内からは、風も聞こえない

 一歩踏み入れば、城下町の名残だ。所々剥げた壁の上を蔦が這う。
 坂本が地図を睨み歩き、高杉は店頭の焼き物を見て回る。銀時が写真に収め、いつものような散歩を、いつものようにしている。
「おい、ヅラァ」
 こっち向けよと呼び掛けられいつもの台詞と共に振り向けばシャッターが鳴る。桂が顔をしかめると、してやったりといった風の銀時がカメラの後ろから現れた。
 残り葉も少ない枝と枝の間を縫って、何度も風景を切り取る。淡い白を被った下には、目をみはるほどに鮮やかなレモン色が見え隠れする。残った夏みかんが、冬を越す。ふわりと漂うのは忘れ去られた果実の香りだ。薄く新雪を敷いた石畳の、歩くたびに軽やかに割れる音に耳を傾けながら、寒空の空気をめいっぱい肺に詰め込もうとした。
 観光がてらに立ち寄る、たったそれだけのこと。もはや別人として訪れ、見知らぬはずの町には懐かしさも哀愁もないはずなのに、吸っているのは紛れもなく故郷の空気だった。ビルが建ち車も通るそこは、だけど、いつか桂と高杉と銀時とが学び競い遊び育った、その場所であることには違いない。
 あ、鳶。またカシャリと音のしたものの視線の先をたどると、鳥が数羽、硬質な輝きを放つ冬の太陽の下にいる。大きく羽根を広げ旋回する、その羽ばたきすら耳元に届きそうだった。深く優しく震える声があたり一帯を包む。
 桂たちが大半の時間を過ごしてきた学び舎は、社から少しばかり離れたところに、疎らに生える背の低い木々に囲まれるようにして建っていた。
 桂たちの知らない、もう一度繰り返された彼の人の人生の遍歴が目に入る。あずかり知れないところで確実に世界が変動している、これがその証だった。
 丘を登ると、北へ開けた海が見える。薄野原に完全に背丈が隠れた頃、鬼ごっこだかかくれんぼだかで芒を掻き分けて望んだ景色がこれだった。いつかの夜明け、牙を剥ぐ海原に背を向け四人で戻った、あの朝も海は銀粉をまぶしたかのように燦然と光っていた。この景色を、しきりに感嘆する彼ら二人は知らない。見渡し、目の合った坂本は嬉しさとも苦々しさとも取れぬ表情をしていた。たぶん桂も同じ表情なのだろう。もう口にはせぬと決めたのに、顔にぜんぶ描かれていてはおかしかった。
 一瞬ゆがんだ坂本の表情は、高杉と銀時に振り向く頃にはサングラスと笑顔の下にきれいに隠れる。
――「わしは二度も、あいとらの大切な人と会えずじまいになったが」
 高校で初めて会った時、相変わらずの濃い方言で坂本が呟いた言葉を、桂は思い出していた。馬鹿笑いで濁した当時の坂本の気持ちは、桂にはわかるようで、けれど決して完全には理解できないのだと知った。同じように、再び高知で生まれ育った坂本に、桂の今の想いはわかるまい。
 何十年ものあいだ、伝えたいことを抱いていた。ずっとぶらさげて生きてきたつもりでいたのに、いざ向き合うと、言えなかった。
 円空の鳥は、もの悲しい調べを運びながら山と海の境を飛び交う。
 暗い海の放つ燐光と、鳶だけは変わらない。
 いつでも帰れると思って出ていった。最後に一目と振り返りさえしなかった。そのいつかはついに来ることはなく、それからは誰も頑なに戻ること拒んだ。もうそろそろ時効でも良いだろう。
 開け放たれた八畳の部屋の、日に焼け色褪せた畳を見た時、ああ、自分は帰ってきたのだと、桂はいっぱいに目を見開いた。故郷はずっと、ここで待ってくれていた。
 そして彼らはようやっと、帰ってきたのだ。

 賽銭を投げ、閉じた瞼の裏では、燃え落ちてゆく聖域を見詰めていた。今はもう遠いものとなった記憶の内で、この一欠片だけはいつまでも褪せることなく、むしろ時が経つほどに鮮やかな焔を噴いている。轟々と紅くぬらす炎に照らされ、ぎらぎらと目に剣呑な光を灯した、あの日。この光景を忘れない。何かの儀式であるかのような、密やかで厳粛な誓約の言葉を交わした。赦さない、ゆるせるものか。この炎は憎しみの炎だ。全てを呑み込み焼き尽くすまで、止まらないと誓った。
 結局、果たされなかった誓いを桂だけが今日まで引きずってきた。
 普通に学校へ行き大学へ進み就職をした、今の俺を見たら貴方はあの日のように笑うのだろうか。平凡を幸せだと気付く人は少ないのですよと、貴方ならそう言っただろうか。
 最後に一礼をして、桂は染め抜かれた師の紋様を睨むようにして覗いた。なんだよ行かねーのかよ。既に背を向けている高杉と坂本を銀時に指差され、待て今行くと桂は最後に網膜に焼き付けるように目を細めると、そのまま翻す。年末の流れ続ける人波が滲んだ絵具のように、渾然と色も形もなく混ざり合っていた。
「ここ、いいとこだなぁ」
 風に髪を浚われながら、銀時が振り向いて告げた。
「当たり前だろうが」
 俺が選んだ所だ。横から返す高杉の声は穏やかで、桂は一瞬、息が詰まる思いだった。
 嗚呼、いつかの晩、あなたもそう言っていた。私の知るあなた、あなたの知らないあなたも、同じことを。
 いいところだね、ここは。ぽつりこぼしたこどもと、当たり前だろうが、先生のいるところだ。胸を張って応えたこども。もはや誰も覚えていなくても、桂だけは彼らを知っている。顔も声も性格さえ同じなのに別人の彼らを。
 所々に足跡を見つける。面影と重なる。彼の人を最も慕っていた二人が、彼を知らない。何故よりにもよって自分が。幾度となく問い詰めてきた時もあった。
 けど、だけど、知らなくても尚、この言葉この表情があるのなら、ひょっとしたらもういいのかもしれない。
 朱を溶かした金色が町並みを照らす。行き交う人々の顔も赤く染まっている。あの時の桂と銀時と高杉のように。けれど全く違う優しい色に。
 ただいま、いってきます。
 大遅刻の末に絞り出された一言に『いってらっしゃい』と囁く声が、確かに耳に響く。二度目の去り際も振り返ることはなかった。



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