三、三 愛し花 | ナノ



 夢うつつに聞いている。きんもくせいと、うめと、ももと。かわいらしい響きを持つ木々と池を隔てた隣家のこどものはしゃぎ声、母親の諌める声、笑い声。巡回帰りの隊士の食堂から伝わる騒ぎ、道場の一際大きい近藤の指示、竹刀のぶつかる、乾いていながら水に浸るような清らかな音。虫の囁き、風の呟き。音というのは不思議なものだ。ただの振動であるそれは両耳に潜り込み、鼓膜を揺らす、ただそれだけの仕掛け。けれど、逝く人が最期まで覚えているのは声らしい。残る人が最初に忘れるのも、また声。
 趣味の悪いアイマスク越しに、光が差し込む。仲秋も過ぎたこの頃の光は、酷くやさしい。それとも夕方も近いからだろうか。皮の青い早生みかんの匂いが縁側に寝転がる沖田の鼻腔をくすぐった。葉っぱのような柑橘系の皮の匂いは懐かしい感情を呼び覚ます。最後まで記憶に留まるのは、逝った人のにおいだという。誰が食べているのだろう。部屋の中の土方か。
 確か姉は、みかんの香りを纏っていたように思う。思わず泣きたくなるような、戻りたくなるようなかおりだ。
 応えるように庭では松虫鈴虫蟋蟀が鳴いていた。
――「いつのまに蝉の声も消えた、こういう夜が好きよ」
 いつかの晩、彼女はそう言っていた。
 こればかりは土方も知らない。彼が現れるよりずっとずっと前の話だ。そのことに沖田はわずかな優越感に浸る。月の輪郭がやわらかい、暖かい夜だった。彼女の膝に乗せた頭に染み込むような、心地よい声だった。まだそれを忘れてはいない。少しばかり、安堵する。声を忘れていなければ、その前に他の感触を忘れることなどありえないはずだった。忘れてたまるものか。
 彼女の命がこの手より滑り落ちていく時、脈絡もなくそれを思い出した気がする。その時はそれがでも、悲しくて、かなしくて泣いた。
 葬式では順番待ちだった。誰かが泣いたばかりのホールで、自分たちが弔う。棺が閉じられ、つられるように諦めるように瞼を重く閉ざし、それからしっかりとその姿を視界に焼き付け見送った矢先に入れ替わり、また別の人との別れを告げに大勢がなだれ込む。沖田にはただそれがあまりにも虚しかった。当事者としては一大事でも、葬儀社としては日常茶飯事だろう。一人生まれようと、一人死のうと、大衆にとっても、大局にとっても、何ら変わりはない。
 そこにいるか、いないかで、世界はいくらでも輝きいくらでも翳むというのに。
 がばりと起き上がり、沖田はアイマスクを剥ぎ取った。眩いばかりの光に目を細める。視界に飛び込むのは鮮やかすぎる色彩ばかりだ。秋のやさしい光も、その時ばかりは牙をむいた気がした。
 いつのまに虫の声が消え、代わりに蜻蛉が飛んでいた。振り返ると書類を捌く土方の文机にみかんなどない。今もかすかに匂う香りを運んだのは、もしやとんぼではないだろうか。

「土方ァ」
 思い詰め、眉間に深く皺を寄せた横顔に呼びかける。彼の左手には相変わらず煙草が挟んであった。難しそうな顔をして土方が睨みつけているものは確か今度の定例会議に出すものだ。その脇には、捌き終えた書類と、未だに残っている書類との山が二つ出来上がっている。検閲を待つ書類が先程見た時よりかなりしぼんでいるのを見ると、自分が昼寝をしている間、彼はすこぶるはかどっていたようだ。
「何だぁ総悟仕事しろ」
 舌打ちと共に、機嫌の悪そうな雰囲気にしては随分と間抜けた返事がかえってきた。
「断りまさぁ。土方のヤローの命を取るのが俺の仕事ですからねィ」
 日々励んでますぜぃ。ニヤリと口角を歪ませるといつも間髪入れずに咆えてくるはずが土方からの反応はなく、よほど集中しているのだろう、つまらねーやと沖田は空を仰いだ。
 薄い鱗雲が高い空を流れていた。束の間、上空でとんびがひゅるりと翻したように見えたが、すぐに視界から消える。はて、この近くに山などあっただろうか。ピーヒョロロロロとの尻すぼみの鳴き声を、沖田は気に入っていた。
 土方、ともう一度呼ぶ。今度は返事がなかった。
「もし、もし姉上が、あの時残ってって言ったら、どうしますかぃ?」
 没頭するあまり沖田の話になど耳を傾けていない期待と、耳を澄ましている期待との間で矛盾する思いを込めて見やれば、短くなった煙草を灰皿に押し付けているところだった。視線は相変わらず書類の細かい文字を追っている。
 あの時とはいつのあの時だろう。侍になれると希望が見えた時?武州を離れる前日?彼女が江戸に上がって、屯所で寝た際に彼が山崎を引きずりながら部屋を横切った時?それとも最後の、最後の時?
「応えてくだせェよ」
 自分にも彼にも姉にも問う。
 煙がのぼっていくように、音が消える。尺八に息を吹き込む直前の緊張感がいつまでも漂っている。
「言わねェよ」
 新しい煙草を咥える前に、土方が独り言のようにこぼした。沖田は目を瞬かせた。土方も、沖田が聞いていないことを期待しているのだろうか。
「そんなこと言わねェだろ、あいつは」
 わかったら今日の分の書類を速く出すんだな。火を付けた煙草の煙を深々と吸い込んで、土方は最後の大詰めとばかりに筆を握り直した。

 ほら、迷惑掛けないの。屯所の裏は確か、武家屋敷だ。いいんですよ、また遊びましょうね。絹のようになだらかな声が洩れる。
 雲はこがねを縁取って輝いていた。こどもに別れを告げた若い女は、これからどこへ行くのだろうと沖田は思索する。知りもしない人をあれこれ想像するうちに、うねりながら、雲の形はもう変わり果てていた。風が吹くごとに、雲が流れる。人は変わる、世は変わる、全ては変わる。まるでそう告げているように。
 少し前までも、その後も、土方は変わっていないように見える、何も。彼がぶれては駄目なのだ。彼が変わったように見せては駄目なのだ。彼が支えきれなくなれば、真選組の屋台骨は崩れる。けれど、野郎はぱったりと女遊びをやめた、そんなあからさまなことを何人が知っているだろう。
 慈悲の真似事?それにしても随分と苦しんでいたものだ。
 火葬に出して、手で抱えられるほどの箱に入ってかえってきた時、それを抱えて沖田は、絶対に忘れるなよ、絶対に、姉上のことを決して忘れるんじゃねェ。戯言のように何度も繰り返し、一生の願いのように胸元を掴んで詰め寄った。
 血が蒸発し、骨が灰になったことが信じられなかった。こんなに軽くなったことを受け入られなかった。ついさきほどまで、棺を閉じるその瞬間まで、微笑みすら浮かべて安らかに眠っていたのに。
 始終無言で、しかし抵抗の一つもしない土方に痺れを切らし、
――「姉上の最期を知らないから、あんたは!」
 その言葉に対し、静かに彼が返したのはどの言葉だったろう。凪いだ湖の静けさと穏やかさと危うさを携えて、こどもに言い聞かせるような優しい声で、彼は言ったのだ。
――「俺にあいつの最期を知る権利はないよ」
 と。その時の土方の目を、沖田は忘れない。
「土方さん、」
「何だ」
 あんたは姉上を想っていやしたか?言い掛けて、言葉を呑みこんだ。
 襟元を捻り上げた時に無言だった彼は、姉上の最期を知る権利がないと勝手に決めやがった彼は、けれど、あいしてた。きっと、誰よりも。気にくわないこいつは彼女を心より愛していた。さいごまで高嶺の花を敬うような不器用さをもってでも、それでもだ。だから姉は、決して引き留めはしなかったのだ。もしものことなどない。彼が彼で、彼女が彼女であった限り、もし、なんてことはありえなかったのだ。
「なんでもないでさぁ」
「んだよ、今日はなんか変じゃねェか?」
 煙草の先端を噛みつぶしながら墨をする姿を眺める。墨と硯とのゆっくりこすれる音が、夕方前の空に消えゆく。墨香と紫煙と半生みかん。混ざった匂いは、想像したものより随分と目に沁みる、心地悪くはない香りだった。
 今思えば、土方が姉を忘れられるはずなどない。口にするほど野暮なことはいらない。
 たとえ気に食わなくても、彼らには、天の涯、海の角まで、空が荒れ地の老いるまで一緒にいて欲しかったのだ。一緒になるのならば、そんな気の利いた祝いの一つでも言えたのに。
 蜻蛉が相変わらず飛び交っているので、戯れに沖田は指を出す。すぐに止まるのは、さすが姉弟としか言いようがなかった。
「どうせならそこで無粋に仕事してやがる土方の指にでも止まってやりゃあいいのに」
 ぼそりと零した呟きを敏感に拾い、土方はあからさまに眉を顰める。うるせー、との声は言葉の意味ほど角を持ってはいない。
 やはり、彼女がいなくなってからというものの、狭義的な世界は欠け砕け、でも広義的な世界には変化などもたらさなかった。ただ、帰る理由が一つ、なくなっただけだった。
「あー、入道雲が湧いてら。秋らしくもねーや」

 朝晩の涼しさや虫の声や雲の薄さや空の高さ。どこにでも息づくそれは、しかし何のこたえも教えてはくれない。
 唐突に一声、鴉が鳴いて、我に返った。鴉を聞くのは久しぶりだった。
 けど、案外単純なんだよ、人ってもんは。近藤が嘆息していたのを思い出す。それはあんたでしょうと応えたら拗ねたのも覚えている。
「幸せってぇのは、伝染するんだ。生きてる人が楽しけりゃ、死んでる人も楽しい」
 そんなことを言っていた。傍にいてくだせェよと思った。この光涯無き道を共に進んで欲しい。それだけで前に歩けるのだから。もう同じ空を見てはいないのだと、そう悟っただけで足がすくむのだ。
「総悟、」
 終わった書類を文机でトントンと整えながら、土方が呼びかける。
「もしあいつが残れっつったら、テメェは残るのかよ」
 その幸せってのは、三途の川まで越えちまうんですかぃ。それなら黄昏が懐かしく寂しいのは、きっとその幸せが彼岸へと伝染しているからなのだろう。ああ、越えちまうさ。笑って、頭を掻き混ぜられて、近藤はそう頷いたのだ。
「残りやせんよ」
 言いやせんよ。こたえた沖田に、土方は満足そうに口端を上げた。


 




2013・9/29


――――――
けれど、あいしてた。
ミツバさん。
さて、140字から始まった連作の最後です。
武州時代も村塾に負けず劣らず好きです。
あの輝いた日々へという青い感じがとても。
そしてミツバ、とは一回も使わなくて満足。






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