海〜面影〜
人を想うとは…一体、どういうこと何だろうか?
人を愛しいと想う事は…どういう事なんだろうか…
私は真の意味で真貴を愛していたのか…深く…想えていたのか…
判らなくなる…思い返せば思い返すほどに彼女を苦しめてばかりだったから…
その夜は,月が妖しく美しい夜だった…
翡翠は,あてども無い思考に絡み取られて…欄干に座りながら溜息をついた…
それでもハッキリとしているのは自分が真貴に逢いたいという事…側に居て欲しいという事…
それだけ判れば…そう判ってる…真貴が自分の中で『特別』だったという事だ…
本当の意味で『愛する』ことは判らないけれど…それさえ判っていれば良いと翡翠は想った…
そこで絡み捕われていた思考の縄は解けたが,翡翠は,その夜は眠る気にはなれなかった…
真貴が数日前まで側に居た褥で一人で眠るのは耐え難かったから…
だから彼は厩舎に向かうと艶やかな黒馬に朱の組紐で彩られた鞍を付けると,それに跨り海を目指したのである…
ザアアアアァァァアァアア・・・
ザアアアァァァンンン・・・
白い浜辺に打ち寄せる波に月光に照らされた翡翠は笑う…穏やかに…
彼の白絹の直衣は美しく月光に映えて…貴族然とした印象を与える…
そして翡翠の唇から吐息のように…さらりっと…言葉が漏れた…
「…海だったね…」
海で…最初に出あった…真貴に…
私の大切な人に…
馬上から目線を沖に送れば,深い藍が翡翠の瞳に映る…
今でも鮮やかに浮かぶ君の姿…
波間に漂っていた漆黒の髪に白磁の肌…
美しい人…
ザアァァァアアァァ…
潮風が翡翠の長い漆黒の髪を攫う…さらさらと髪が絹糸のように風に遊ばれる…
それを翡翠は懐から出した朱の組紐で縛り,おもむろに馬上から降りた…
そして馬をそのままにザブッサブッっと海の中に入ってゆく…
翡翠は,夜の…飲まれそうな程の漆黒の海で泳ぐ事が好きだった…
自分が存在しないような漆黒の海が好きだった…
海は『翡翠』を必要としていない…それが酷く翡翠を楽にさせた…
周りの声が煩わしいと思った時は…よく日の沈んだ波間に彼は漂った…
何も考えずに漆黒の波に自身の体を預けるのが楽しかった…
そして今,波間に漂う…翡翠の上には白銀の月が懸かる…
真貴が消えた時のような光…
それが翡翠を白く照らす…
波間に漂う漆黒の髪と,それを束ねた朱の組紐…白の直衣…
それが月光に照らされた波間に,ゆらりっ,ゆらりっと揺れて…優美で妖しい海神が漂う…
ちゃぷっ ちゃぷんっ
耳元で鳴る海音が綺麗だと翡翠は想った…
そして何より遙か真上に懸かる月が清華で美しいと想った…
私に何度,抱かれても清らかさを失わなかった真貴殿のように…
夜の漆黒にも飲まれない清らかさが美しいと想った…
そして思わず,翡翠は手を伸ばす…
届かないと判っているのに…
その白銀の光に手を…
その手の隙間から白銀の光が零れた…
瞳を細めて…
彼女の面影を,その光に探す…
叶うわけ無い願いと判っているのに…
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