海〜懐古〜
初めて…翡翠と出会った衝撃を今でも覚えている…
そう…それはまだ私も翡翠も幼かった時分…
晴れた…何処までも続く紺碧の空と海…停泊していた海賊船で…私はいつものように積荷の運搬をしていた…
伊予の者達は皆,停泊しているのが海賊船と判っていて…国衙の官僚に報せる者はいない…何故なら『海賊』こそ民の味方なのだから…
その時だった…翡翠がたった一人で海賊船に来たのだ…
「ここの首領は誰なのかな?」
今より僅かに高い声で尋ねた翡翠は貴族のような出で立ちで…すぐに私の仲間達に囲まれた…
「よぉ,貴族の坊ちゃんが,こんな所に何の用だよ」
翡翠はだが…そこで微笑んだのだ…
何故…微笑む事が出来るのだろう…私は思わず瞳を見開いていた…つい手も休めて動向に見入ってしまう…
不思議に惹き付けられる空気を『彼』は纏っていて…どんなことを考えているのか…どんな物が『彼』の瞳には鮮やかに映っているのか…
そんな感情を人に生まれさせる魅力に溢れていた…
翡翠のそんな態度に毒気を抜かれた,仲間の海賊は『お前,ただの貴族じゃあねぇな』と呟いたのが私にはやけに鮮明に聞こえた…
だが翡翠の口から紡がれた言葉に次の瞬間,私達は瞠目する…
「実は国衙の官僚が此処に君達が停泊していることを突き止めたようでね…早く出航した方が良いよ…」
「そういうことは早くに言え!!」
途端にワタワタと出航する為に私達は慌しく動き始めたが…
「おい!!追っ手が来たぜ!!」
海岸沿いの松林から大勢の武装した追っ手が見え…急速に体の体温が冷えた…正直もう無理だと思った…けれど…
「すまない…この弓を借りても良いだろうか…」
降りに降りられず,甲板に残っていた翡翠が立てかけられていた弓を手に取った…『この距離では無理だと』言う声が周囲から漏れるのを,そのままに…翡翠は矢をつがえる…ギリッと鳴った弓弦がいやに大きく私の耳に届いた後…
ヒュンッ!!
一線の黒線を引いて…矢は…乗騎している敵の武将と思われる人物の胸を打ち抜いたのである…
途端,仲間で湧き上がる歓声…
そして…指示系統の崩れた敵の統制は乱れ…私達は沖へと逃げおおせたのであった…
ザアアァァァァアア…ザアアァァァン…
揺れる波音に…私は微笑んだ…
危機を脱したことへの祝いの宴会も殆んど終わりを迎え…皆が揺れる船室で酔っている…だが私は清澄な夜風に当たりたくて甲板へ出た…
そして其処に先客を見つけて微笑む…昼間,私達の危機を救った張本人…『翡翠』が居たのだ…
「今晩は…良い夜ですね…」
ゆっくりと振り返る…緩やかに癖の無い髪が流れて…
「そうだね…」
返された言葉に私は,つい笑った。すると翡翠は不思議そうに私を見つめる…
「どうしたんだい?」
「いや…今日は,ありがとうございました…貴方が居なかったら危なかった…」
それに翡翠はフッと微笑した…
「いや…間に合って良かったよ…あとね…私は『貴方』と呼ばれるのは好きじゃないんだ…」
その言葉があまりに『らしくて』私は自然,微笑んだ…
「そうですね…私は九蘭磁と言うんです。」
私の言葉に『彼』も笑って…
「私は翡翠というんだ…」
手を差し出した…
それが…初めての出会い…
数年後…翡翠は死んだ首領の跡を継ぎ…この伊予の『海神』と成った…
だから…
伊予の民と…翡翠の仲間も…全員…全部…捨てて…翡翠の心が消えるなんて九蘭磁は許せなかった…
恋と愛が何だというのか…それだけが大切な筈は決して無い…
見捨てられていた伊予の民の手を翡翠が取ったのを覚えている…
凶作で死んでゆく民の為に琉球から無理をして米を買った時もあった…
それを全て捨てると…?そんなこと…許せなかった…翡翠は『海神』なのだ…他の何処でもない…此処…『伊予の海神」…
静かで強い怒りのまま九蘭磁は高欄にもたれている翡翠の胸倉を力任せに掴んでグイッと立たせた…
「翡翠!!貴方は何なんですか!!」
九蘭磁の罵声にも無表情に見上げる翡翠の瞳に九蘭磁の頭も急速に熱くなる…まるで翡翠に馬鹿にされているような気分に成った…
「返事ぐらいしたら,どうなんです!!」
九蘭磁は拳を振り上げ…
バキツッ
翡翠を殴った…初めて…翡翠がそのまま渡殿に叩き付けられる音が響いて…
その思いの他,大きい音で九蘭磁もハッと僅かに自分を取り戻して…
「ただの女が,そんなに大事ですか?」
わざと嘲るように言葉を紡ぐと…僅かに翡翠の肩が揺れた…
そして九蘭磁は,それを見逃さなかった…
「そんな女など何処にでも居ますよ…吐いて捨てる程にね…」
ゆっくりと渡殿から見上げる翡翠の瞳…それに九蘭磁はゾクリッと恐怖を感じた…
其処には確かに怒りの感情が見えたから…
けれど…その恐怖を無理矢理、押し込めて…九蘭磁は嘲笑した…
「何なら今日、変わりの女を貴方の元に行かせますよ」
次の瞬間だった…
ダアァン!!
渡殿の板に叩きつけられた痛みに九蘭磁は呻いた…
その間にガッと首元を掴まれ…
視線を向けると翡翠の燃えるような瞳が間近にあった,九蘭磁は息を飲む…『殺される』と思った…
それ程の感情を翡翠は見せていたから…
「真貴を謗る者は誰であろうと許さないよ…たとえ九蘭磁…お前でもだ…」
けれど翡翠の声音は静かだった…恐ろしい程に…それにゾクリッと悪寒を感じつつ九蘭磁は口を開く…
ここまで来れば…もう一押しだと思ったから…
「その女が、そんなに大事ですか?我々より大事ですか?貴方はその女だけが自分の宝のように言う…私は貴方のような愚か者を初めて見ましたよ…」
翡翠の瞳に徐々に理知の光が宿るのを九蘭磁は見逃さなかった…
「この見捨てられた伊予を…見捨てられた人々を…最初に手に取ったのは翡翠…貴方なのに…それを捨てて貴方が壊れる事は私が許さない!!」
少しずつ…翡翠の腕の力も緩んでゆく…
判るから…互いの気持ちが痛いほどに…
だから翡翠は九蘭磁の首を締め付けていた手を離した,その途端に九蘭磁は咽る…が視線だけは翡翠から外さなかった…翡翠の心情を逃さない為に…
そして翡翠はフッと欄干に、その身を預ける…
夕焼けに照らされるその姿だけでも…絵巻物のように優美で…
「…真貴はね…死んだ真貴の分身のような気がしたんだ…」
微かに潮騒と被った声は酷く穏やかだった…泣きたくなる程に…だから九蘭磁は黙って翡翠の言葉に耳を傾ける…
「きっと…一目見た瞬間から惹かれていた…深く判らないけれど…惹かれるモノが真貴からは滲み出てていてね…」
僅かに声が震えているのは気のせいだろうか…今、翡翠は己の中で必死に己を支えて言葉を紡ぐ…先に進むために…
そして…これだけ自分の内側を翡翠が他の仲間は勿論,九蘭磁にも語る事は、これまで無かった…
それだけに翡翠にとって『真貴』への想いが深かったのだろうと簡単に予想がつく…
「私は…きっと…真貴を…深く想っていたんだよ…」
その言葉と共に翡翠の頬を雫が伝う…それが…どれだけ奇蹟に近いことか…
伊予の海神…
その心を得る者など存在しないと…皆、想っていたのに…その奇蹟を真貴という者は知っているのだろうか…
知っていて欲しいと想う…
こんなに穏やかに話す翡翠を…見て欲しかったと想う…
涙を流した翡翠を抱き締めてあげて欲しかったと想う…
この想いに応える事が出来るのは…たった一人しかいない…
「…きっと…真貴という者にも翡翠のその想いは伝わっていると思いますよ…」
伝わっていれば良い、と想った…
今、初めて翡翠の想いが真貴という少女に伝わっていれば良いと九蘭磁は想った…
ザアアアァァァァアアァ
ザアァァァアアァァァ
流れる潮騒は一層、その音を高くし…夕闇が伊予に落ちようとしていた。
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