海〜片腕〜

ザアアアァァアアン…ザアアァァァァアア…

潮騒が轟く…だが…此処,伊予の海に浮かぶ干紀島の屋敷に轟いた衝撃は,それに及ぶべくもなかった…

干紀島の小高い丘の上に建てられた屋敷は絢爛な寝殿造りで,其処かしこに意趣を凝らしている…

また切り立った崖を背にし,複雑な石造りの道と,それに沿った壁によって堅牢な要塞にも,なっていた…


その屋敷に住まう海神…翡翠は,その屋敷の中心に位置する寝殿の渡殿で,ただただ怠惰に眼下に広がる伊予の光景を見つめていた…

明ける空…薄紫色の夜明け…

撫でる海風…揺れる雲…

そして…深く…遠い…海…

ずっと…ずっと…見つめていた…

それは穏やかに…

けれど…翡翠を頭領として頂く…海賊達は自分たち頭領の,そんな姿を深い悲哀と共に見つめる…

そう…此処に轟いた衝撃…彼等の『海神』…翡翠の『心』が壊れたという事…

そして彼等は…翡翠を『こんな風にした少女』を憎んだ…

翡翠の心に入り込んで…そしてズタズタに傷つけて消えた少女を…憎んだ…

故に…彼等の大切な海神が『そんな少女』によって傷付けられたままであることが…彼等を苛立たせ…

この状況を変える為に…彼等は対策を考え…香季と並ぶ『翡翠の片腕』…今は取引の為に琉球に出てる人物を…最も信頼に足る人物を琉球から呼び寄せることになった…


そして…琉球へ行く急ぎの連絡用の小船を港で彼等が用意してる時…

ザアアアァァァアン…ザアアァァァンと寄せる波に『今日は波が高いな』とフッと一人が海へ顔を向け…そして彼はそこで固まった…

「おいっ!!あれ見ろよ!!」

と周りに居た仲間達に声をかけ、彼に続いて顔を上げた者達も彼同様、そこで固まる。
そして一瞬の後に皆、慌てて、桟橋へと集まった…

朝日が照り返し輝く海面…その上を滑るように整然と進む数百もの船団が映る…

海風を纏って膨らむ帆…先頭の一際,造りの良い船で指揮を取る男が居た…

短めの髪がサラリッと流れる,柔らかで整った顔…その男がフッと桟橋に居る多くの仲間に気付いて軽く手を上げると『よっしゃあ!!』というような歓声が上がった…

「九蘭磁だ!!やった!!早めに帰って来たんだ!!」

そう…彼等が呼び寄せようとしていた『翡翠の片腕』…香季が『翡翠の右腕』なら…九蘭磁は『翡翠の左腕』と呼ばれ…翡翠に次ぐ実力者だった…

航海に数週間かかる事が普通である,この時代…
久しぶりに伊予へ帰った九蘭磁は,桟橋に着いた途端に周りを囲んだ仲間達に少し驚いた様子で微笑した…

「どうしたんですか,皆?盛大な出迎えですね」

しかし状況は彼のように穏やかでは無かった…

「九蘭磁!!頼む!!翡翠を助けてくれ!!」

彼に縋り付くように発せられた仲間の,その言葉に九蘭磁は微笑みを消し,すぐに冷静に『何があったんです?』と尋ねた…


かつて…此処…伊予に赴任してきた国司は…狸が化けたような醜さで民を虐げた…

米を作っても…その殆んどは税として持っていかれ…
翌年の種もみまで事欠く有様…

そんな生活を変えたくて海賊と成った者達が多く居たが…
『彼』が現われるまで烏合の衆のように統制が無く,次々と捕えられては首を刎ねられていった…
けれど次々と増える海賊を朝廷が殲滅出来る筈も無く…


永遠に…それが続くと想った…


終わらない悪夢のように…




ギシッギシッと九蘭磁は朝日の当たる渡殿を足早に歩いていた…

つい先程,九蘭磁は翡翠の身に降りかかった事を仲間から聞いたのである…


翡翠…


それは海神の名…


この伊予に平穏をもたらした海神の名…


『彼』と出会った時の衝撃を今でも覚えている…

ザアァァァアアアン…ザアアアァァァアア…

潮騒が轟く…この伊予の地に…

九蘭磁は…目的地の寝殿の渡殿まで出ている『海神』の姿に足を止め…

「ただ今,帰りました…」

数ヶ月ぶりに『海神』と再会を果たした…

だが九蘭磁は翡翠を一目見た瞬間…これは危険だと想った…

あの気配に敏感な翡翠が,渡殿を歩く九蘭磁に気付かぬ筈など無いのに…何の反応も示さない…

ただ海から吹きつけてくる海風に髪を遊ばせているだけだ…

ザアァァァアアン…ザアアアアアァァ…

海が啼く…まるで泣く事の無い…翡翠の悲哀の声のように…



心が此処に無い…この伊予に…翡翠は居ない…


そう想うと九蘭磁は思わずギリッと唇を噛み締めていた…

数ヶ月前…翡翠の初めての『想い人』が,この世を去った時…

翡翠は吹き荒れ,荒れ狂う想いを…ただただ…身の内で抑えていた…

それは…まるで嵐のように…翡翠自身,己の心の奔流に揉まれているようだった…

でも…それなら…待てた…皆で…待って…待って…また翡翠が歩き出すのを待てば良かった…

いずれ時が翡翠の抉られた傷を癒してくれると…

でも…これは違う…


翡翠ガ崩レテ逝コウトシテイルノガ判ル。

コノ伊予ノ海神ガ。

そんなことは絶対に許せなかった。




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