海〜夢幻〜
次第に酒臭い匂いと,明るい声が真貴に届いていた…
どうやら人の居ない方へと思い走って来たが,逆に人の居る方へ来てしまったらしい…
もしかしたら,すぐ其処に翡翠も居るかもしれない…
そう想うだけで真貴の心が悲鳴を上げた…臓腑の内から吐気が込み上げる…あんな形で自分の『初めて』を奪われたことが…心に亀裂を創って…もう眩暈がした…視界が暗く歪む…ガクガクと膝が震えて…もう立っていられなかった…
それは緩やかに…堕ちていく様な感覚…
ゆっくりと…真貴の体が崩れ落ちる…それは桜が散るような儚さで…
サラリッと真貴の漆黒の髪が流れる…
真貴は崩れいく中で『想い人』に語りかけた…
…景時さん…ねぇ…貴方は私が穢れていても…許してくれる?
心の内の『想い人』に尋ねる…優しい面影…穏やかな声…暖かい腕の中…安心出来る人…
答えは返らなかった…
けれど…きっと再び…会い…事を話した時に『想い人』が何と言うか…真貴には判っていた…
君は穢れてなんていないよ…俺は君が在るだけで良いんだ…守れなくてゴメンね…真貴ちゃん…
『大丈夫か?』
夢の中の筈の『想い人』が答えて…次の瞬間,真貴は力強い腕に支えられた…
真貴が霞がかかった瞳で見上げると…其処には『想い人』がいた…
ずっと…ずっと…逢いたかった…
ずっと…ずっと…言葉さえ出来ずに…貴方を想ってる…
死なないで…貴方が側にいないと…私の『想い』は粉々になって…その破片が私を切り裂く…
死なないで…貴方が側にいないと…私は息をすることも出来ない…
「景時さん!!」
真貴は思わず…その愛しい暖かさに縋った…だが『景時』はその瞬間に固まる…
「逢いたかった!!逢いたかった!!ずっと!!ずっと!!探してたの!!」
ずっと…ずっと…時を渡って…貴方を探してた…自分の,たった一人を…
心が震えて…どうしようもない…胸が熱くて…この『想い』で…胸が震えて…
止めどなく真貴の白い頬に涙が伝う…
「愛してる…愛してる…貴方しか要らない…貴方だけ…貴方が私の帰る場所なの…貴方の腕の中だけが…私の場所なの…」
その言葉に固まっていた『景時』は,ゆるゆると縋ってくる真貴の艶やかな漆黒の髪を撫でた…
それに真貴の胸に暖かい安堵が広がって…次々と涙が溢れた…
儚い桜のような人だと想った…
崩れ落ちる肢体を掻き抱けば…想った通り軽くて…今にも消えてしまいそうだった…美しい顔立ちの人…
『…貴方が私の帰る場所なの…』
と甘い声で囁かれた時には,どうしようかと想った…こういうことに慣れていなかったから…
それでも出来る限りの優しさで彼女の漆黒の髪を撫でると…少し安心したようだった…クッタリと安心したように私にその甘やかな肢体を預けてくる…それに堪らなくなって強く抱き締めると…彼女も答える…
眩暈がした…
「其処で何をしているんだい?」
けれどそれは背後からの冷厳な声に遮られて…私はビクッと体を震わせた…誰の声かなど振り向かなくても判る…何年もの間,傍らで支え続けた首領なのだから…
そしてその声音が…私が今まで聞いたことが無い程…怒りに染まっていることにも気付いていた…
女房達の一人一人に口付けを交わす…流石にウンザリして…早く私の寝殿で寝ている筈の真貴を抱いて…この体に移った他の女の香を消したかった…
そう例え,真貴が目を覚ましても起き上がることなど無理だろう…自分が二晩も無理をさせたのだから…そう考えたから見張りもつけずに真貴を一人にさせた…何より『男』が今は怖い筈だ…
そう考えると…今日,しかも今から真貴を抱くのは,あまりに可哀想だろう…
だから今日は添い寝だけにしようと想った…あの柔らかい白い体を抱き締めるだけで…きっと暖かくて気持ちが良いだろう…そんなことを想っていた…
私らしくもない…でも良い…気分良く酔っているのだから…
そして最後の女房からの口付けが終えると私は『ではこれで休ませてもらうよ…』と言って,その場を立ち上がった…
致命傷になる酒を飲んで『ウウゥ』とまるで京で見た怨霊のように呻き声を上げている部下を避けて歩く…本当に見苦しくて…その物体達を視界に収めたくは無かったが…行く先々に在るのだから仕方が無い…あの渡殿まで出れば大丈夫…そう思った…
この後の衝撃など…予想すらせずに…
ザアァァァァァ
潮音が此処まで響いていた…それに微笑んで…夜の冷たい風を受けて…寝殿に向かおうとした…だが…
「愛してる…愛してる…貴方しか要らない…貴方だけ…貴方が私の帰る場所なの…貴方の腕の中だけが…私の場所なの…」」
真貴の声がした…それにドクンッと心臓が嫌な速さで脈打つ…
真貴は一度も私に『愛してる』など…言ったことなど無かったのに…
そう…渡殿の薄暗がり…其処に男…あれは香季だ…そしてその影に居るのは…真貴だった…
香季の背に回された白い手…それが強く香季を抱き締めている…そして香季も…
冷たい風が心に吹き荒れるのが自分でも判った…
許さない…睦言を二人で囁きあっていたと?私の目を盗んで?フフッ…飼い犬に手を噛まれるとは,よく言ったものだ…
許さない…真貴は私の者だ…
けれど…反面,さざめく自分の心が判らなかった…何故,私は許せないと想うだろう…香季と真貴が恋仲でも…私に邪魔をする権利など無い…
そして何より…私が想っているのは『真貴』だけだ…真貴では…ない…
それなのに…その筈なのに…香季が真貴を更に抱き締めたのを視界の端に捕らえると…やはり焔が燃えた…
先刻まで私に縋り付いて,あられもなく乱れ,受け入れて,私の腕の中で鳴いた真貴…もう真貴は私の者に変わった筈だ…香季がいかに足掻こうと…真貴は私を受け入れた…私だけを…
そう…だからだ…真貴は私だけの…玩具だから…そう想って抱いたのだ…そう壊れたら捨てる…飽きたら捨てる玩具…だけどまだ駄目だ…まだ飽きていないから…まだ香季にあげられないだけだ…
そうそれだけ…私は深く息を吸って,気持ちを落ち着けると…香季達に声をかけた…
「其処で何をしてるんだい?」
明らかに香季の肩が揺れるのを見て…また私の胸を,どす黒い想いが包んでいった…
聞き間違える筈もない艶麗な声に真貴はゾクリッと心が震えたのが判った…
翡翠…
ずっと二日もの間,真貴を抱いて離さなかった彼が…『景時』の肩越しに見えた…
一歩…一歩…真貴達の所へ歩を進める翡翠…真貴は彼の周りから怒りの雰囲気を敏感に感じ取ることが出来て,思わず『景時』を縋るように見つめる…と…違った…
真貴のその漆黒の瞳が見開かれる…
『景時』は…景時では,なかった…その髪型と整った顔は似ていなくも無いと言えたが…本人では無かった…
『景時』の方が日に焼けていたし…顔は景時の方が整っていた…
何より真貴を映す瞳の暖かさが違う…真貴を想う深さと形が違った…何故,間違えたりしたのだろう…私の『たった一人』を…体調が悪く視界が暗かったなど言い訳にしかすぎない…
「つっ…貴方…誰?景時さんは何処にいるの?」
景時さん…景時さん…景時さん…
「…景時という男など此処には居ないよ…君の抱き付いている男はね…香季というんだ…」
翡翠の嘲笑の交じった声音が真貴の耳朶を打つ…自然と涙が零れた…
あぁ居ないんだ…
静かに自分の腕の中に居る真貴が涙を止めどなく流し…慌てたのは香季である…
「だ,大丈夫か!?お頭!!なんて事を言うんだ!!」
そして優しく真貴の頭を撫でつつ,視線だけは翡翠に鋭く向けると翡翠は肩を竦めた…
「やれやれ…二人が恋仲ではないか,と思って身を引こうと思ったのに考え違いのようだね…」
そんなことなど欠片も思っていない…それは確認の言葉…真貴が確かに自分の者だという確認の言葉…
「当たり前じゃないですか…だいたい彼女には初めて会ったんですから…」
その返答に翡翠がフッと笑ったことに香季は気付か無い…
翡翠はいかにも安心したように溜息をついた…
「そうか…なら何も問題ないんだね…」
香季が顔だけで何がと尋ねる…それにフッと翡翠は微笑した…
「私が真貴を抱くのに…何も問題ないということだよ…」
その言葉を聞いた途端に香季は怒りからか顔を紅に染める…
「何言ってるんですか!?この娘は倒れたんですよ!!」
『正気じゃない…』と続けられた言葉に翡翠は内心、苦笑した…香季の言葉は…まさに…今の自分を表す言葉だと…想った…
そう…私は正気じゃあない…『真貴』を喪ってから…
私の『心の在処』が消えてしまってから…
『翡翠…』
『真貴…』
想い浮かぶ面影…愛しいと…想える存在…守りたい存在…
もう二度と逢えない…この腕から擦り抜け…砕け散った愛しい宝玉…だから…ほんの少し彼女の身代わりを求めるのも…許される筈だ…
決して私の心は『身代わり』に動かされることは無いけれど…
その想いの刹那…その瞬きの時…真貴の心が絶望で塗られたことに翡翠は気付かなかった…
香季に頭を撫でなれながら…真貴は自分の心がツゥーッと冷えていくのが判った…
景時さん…
笑ってる貴方…大切な人…
『…景時という男など此処には居ないよ』
光の中で貴方が私を呼ぶ…
『真貴ちゃん!!ほら!!おいで!!』
いつも…いついつまでも…傍らにいたい…
貴方がいないなら…この世界に私が居る意味がないよ…
『…好きだよ』
この時空に貴方が居ないなら。
私は、時空を渡る。
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