ACT.翡翠




翡翠…


深く…遠い声…


遠く…愛しい声…


呼ばれた気がして…瞳を開く…と見慣れた天井で…翡翠はフゥと溜息をついた…

此処…伊予に帰って来て,どれ程の時間が経ったのだろう…泡沫のように短い気もするし…永遠のように長い気もした…

酷く時の流れが曖昧で…翡翠は,ただ生きているだけだった…呼吸して…食事して…女を抱いて…眠って…ただ…『こころ』が呼吸をするのを止めただけのこと…

そのまま翡翠は帳台から出ると、几帳に掛けてあった胸に獅子の刺繍が円形状に施された漆黒の狩衣と白の指貫に手早く着替え、自身の寝殿から出た…

月がまだ空に架かっている…それは酷く翡翠の心を掻き乱す…優しく穏やかな『光』…


翡翠…


声を想うだけで…頬を雫が伝いそうになる…それを耐えて…翡翠はバサッと衣を翻して高欄から優美に舞い降りた…






ザアアアァァァァ

一頭の黒馬が月明かりの中…有り得ない速度で疾走していた…

それには…この『伊予の海神』が乗っている…木の枝がパシッッパシッと当たるのにも翡翠は頓着しなかった…ただ常人の乗り手では追っていけない程の速さで黒馬を操る…


翡翠の揺れる瞳には流れる景色など映ってはいなかった…ただ…


自分の『たった一人』の姿が浮かぶ…忘れる事など出来ない鮮やかさで…


翡翠!!


嬉しそうに微笑んで…私に手を差し伸べた…


翡翠…


雨の中…泣きながら私を呼んで…縋りつく…微かに掴まれた着物の裾が…可愛らしくて…

愛してた…君を押し潰しそうな程の重さで…今まで感じたこと無い戸惑いと共に…愛してた…

君を犠牲にした…この世界を私自身の手で滅ぼしたい程に…

許せなかった…彼女の犠牲を知らずに生きる京人も…彼女を『応龍の牙』として選んだ応龍も…


そして何より…彼女を守りきれなかった『私』も…


その『想い』に…耐えていた雫が翡翠の瞳から流れた…


私は何故、生きてるのだろう…私の『たった一人』はもう居ないのに…


もうすぐで崖だった…だが翡翠の乗騎の速さは落ちない…


そう…いない…何処にも…いない…何処を探しても…この世界全てを探しても…『君』という存在は…『君』という人間はいない…


君は死んだから…


そして…ガガッと馬蹄の音が響いたかと思うと崖から漆黒の馬が空へ舞った…


何処にもいないんだ!!


月光を反射して輝く翡翠の漆黒の髪…流れる漆黒の狩衣…それは幻想的な情景で…


それを見たのは,ただ空に架かる月だけだった…








コポッコポッ

と海水が肌に心地良かった…翡翠は海面に漂いながら…これなら普通に涙も海が洗い流してくれる、とぼんやりと思った…

乗騎は共に海に水飛沫を上げて落ちると岸へ向かって泳いでいく…それに翡翠は笑った…

ザアアアァァァ

潮音が鳴っている…遠く…近く…

その中で…月光に照らされる優美なる海神…伊予に愛でられし海神…が波間を漂う…

だがその『こころ』が死んでることを…誰も知らない…

「愛してるよ…」

誰に聞かせるでもなく…翡翠はポツリッと空で白銀の光を放つ月に向かって囁いた…

其処に…『たった一人』がいると…想っているから…

そうしなければ…とても生きていくことも出来なくて…

「愛してる…」

ただたった独りな彼を月明かりだけが照らしていた…





海水を滴らせて…海から上がった翡翠は普段より一際、艶やかで…そして彼は其処で思わぬものを見つけ、その瞳を見開いた…

「…待っていたのか?」

翡翠の視線の先には漆黒の毛並みの愛馬が翡翠同様、海水に濡れた状態で浜辺で彼の帰りを待ってる姿があった…
そして馬は翡翠に返事をするように鳴く…

それに翡翠は泣き笑いのような表情を見せた…

「…帰ろうか…もう夜が明ける…付き合わせて悪かったね…」

伝わっているのか…いないのか…馬はこうべを下げる…けれど翡翠には、どちらでも良かった…鞍に手を掛けて一気に体を上げ、乗騎する…と、その時…翡翠の頬に暖かな『光』が当たった…

暖かい…

そう想って…フッと視線を巡らすと…ちょうど月が西へ消えかかり……太陽が東の水平線から登ってくる所だった…

月とは違う…暖かで…翡翠の冷えきった体を癒すかのような光…


暖かくて…


穏やかで…


千に乱れる『想い』で…


翡翠は…また雫を零した…





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