学院のすぐ傍、門が見えるか見えないか程の位置で馬車を降り、キースと別れて少しばかり道を歩く。
頭の中には昨日の内に詰め込めるだけ詰め込んだ知識が右往左往していて、目に映る景色の中にまで文字の羅列が浮かんで見えそうな勢いだったりする。
昔から一夜漬けが得意だったけれど、これは流石にやり過ぎた感が否めない。
軽く頭を振って混沌と化している思考を落ち着けつつ門に足を踏み入れる。
相変らず呼び止めたり身分証の確認をしたりしない形だけの門番はチラリと此方に視線を寄越すだけで、すぐに興味を失った様子で顔を道端へ向けた。
今日は前回と違って人気が随分多い。
現代で言うなれば平日なのだから、ここにいるのは全員この学院に通う院生達なのだろう。
制服というものがないからか皆私服なので紛れ易くて助かる。
数人で固まっている人々もいれば一人でいる人もいて、世界が変わっても学舎(まなびや)の雰囲気というものは大して変わらないんだなと苦笑してしまう。
疎らとは言い難い人混みの中を抜けて解剖学部の置かれている建物へ着き、中へ入る。
何人かの院生が既に廊下におり、扉の開閉する音に気付いたのか振り向いた。
その誰もが不思議そうな、それでいて訝(いぶか)しんだ表情でジッと見遣ってくるのでニコリと笑い返して彼らの傍を通り抜ける。
そうして前回入れてもらった教授の部屋の扉をノックした。
数拍の間の後、その扉が開いたことにホッとする。
出て来た教授はわたしを見て微かに瞠目したけれど、眦(まなじり)を少し下げて室内へ入れてくれた。
「すみません、今日はお言葉に甘えて押しかけてしまいました。」
「いやいや、声をかけたのは私の方なのだから気にせずとも良いんだ。君は解剖室が少し苦手なようだったから無理かと思っていたけれど、こうしてまた来てくれてとても嬉しいよ。」
前回同様ソファーに促されて座ると、教授は紅茶を煎れてくれた。
好々爺の如く朗らかに微笑を浮かべられて、わたしも思わず微笑んでしまう。
用意してもらった紅茶を一口飲めば香りの良いそれが、じんわりと体を温めてくれる。
二人揃って暫し紅茶を堪能してから、どちらからともなくカップをテーブルへ置いた。
「改めて、今日はよろしくお願いします。」
「此方こそ。さて、では先に今日の流れを説明しておこうか。」
「はい。」
教授はテーブルの隅に置いてあった紙の束を手に取り、それから一枚だけ渡される。
そこには大雑把に今日行われる予定の解剖と注意が書かれており、説明は教授自身が自らしてくれた。
今回解剖される検体は三つ。教授が受け持つ生徒数は十五人なので、一つの検体を五人で解剖する予定らしい。
わたしは特に決まっておらず邪魔にならないようにしてさえいれば、好きに動き回って見学して良いようだ。
見学上の注意は四つ。
一、器具や検体には触らないこと。
二、院生が器具を持っている間は無闇に話しかけないこと。
三、具合が悪くなったら速やかに教授へ申し出ること。
四、解剖室内で見学した内容は吹聴しないこと。
どれもごく当たり前の注意事項で、わざわざ前置きして伝える意味があるのかとも思ったが、なかには自分勝手にあれこれと弄る者もいるのだとか。
そんな見学者は監督する側としては出来れば御免被(ごめんこうむ)りたい人間だろうに。
わたしがそう問うと教授は苦笑した。
「君はこの街に医者が何人いるか知ってるかね?」
「いいえ、分かりません。」
「医師連盟に百人弱。そのうち貴族や王族を診ている者が十から二十人程、残りが街医者だ。」
「百人弱、ですか?」
他の街や他国の王都へ行く機会がないから比べることは出来ないけれど、わたしの感覚からすればツェーダは王都なだけあって広大な街だ。
そこに医者がたった百人。貴族や王都専用の医者は民間人を診療しないので、残り八十人弱が民間人の治療に当たるはず。
いくら何でも、それでは医者が足りない。
少なく見積もってもツェーダには万単位の人々が暮らしている。
それを百にも満たない医者が診るのはハッキリ言って不可能に近い。
「学院を出た方々は…?」
院生がこれだけいるのだから、卒業した中の何人かが医者になるだろう。
しかし教授は静かに首を振った。
「此処に通う院生の凡(およ)そ半分は地方から来ていてね、学院を出たら生まれ故郷で医者として働かなければならない子達ばかりさ。」
「王都の医者は少ないまま、と言うことですか…。」
「残念ながらね。少しでも王都で働く医者が増えてくれる可能性があるのなら、どんな若者でも先ずは受け入れてみようと私は思っているんだよ。」
「…教授は素晴らしい考えをお持ちなのですね。」
先程のわたしの質問は短慮だったと恥ずかしくなってしまった。
医師不足を危惧し、そのためならば苦労も厭(いと)わない姿勢は絶賛に値する。
…伯爵に負けず劣らず努力家な人だ。
すぐに熱くなってしまうのが私の悪い癖だと教授は笑う。
そんなことはないと思ったが、タイミング悪く部屋の扉がノックされる。
教授が出れば、その肩越しに院生だろう人が立っていて「そろそろ解剖を執り行う時間です。」と言った。
それに頷き、院生に先に解剖室へ行くよう告げ、扉を閉めた教授は暖炉の薪を広げて火を消した。
使い終わったティーカップを水に浸し、わたしは渡された紙を手に教授と共に部屋を出る。
院生達は既に室内へ入ったのか廊下に人気はない。
「じゃあ、此れを付けて。解剖中は外さないように。」
「はい。」
渡された当て布で、鼻から口元まで隠すように覆い後頭部でしっかり縛る。
教授も同様に布を口元へ巻いて解剖室へ立ち入った。
中には五人ずつに分かれた院生のグループが三つ、検体の寝かされた台の傍にそれぞれ立っていた。
誰もが不思議そうな顔をしたが教授が見学者だとわたしを説明すると納得した様子で、院生達はすぐに教授へ視線を戻す。
顔の上部しか見えないけれど先ほど廊下で擦れ違った院生も何人かいる。
教授はつい今し方わたしに説明してくれた今日の予定を簡単に言って、院生達と大まかな流れを確認し合う。
やがてそれを終えると担当の検体の下へ院生達は行き、全員が右手を握り左胸へ押し当てた。
「主よ、罪深き我等をお赦し下さい。」
懺悔のように一言教授が呟くと院生達は数拍の間黙祷し、各々に器具へ手を伸ばす。
それからは静かだった室内にそこかしこから声が聞こえてきた。
やり方や順番はグループによって違うらしく検体の解剖の仕方もそれぞれ異なっていた。
とりあえず一番近くのグループへ歩み寄る。
検体は女性だった。一糸纏わぬ姿で横たわる体つきからして、あまり若くはなさそうだ。
鎖骨の上辺りから頭部にかけて白い布で覆われているため顔は分からない。