「胸骨柄(きょうこつへい)から恥骨(ちこつ)結合部までを切開。」
恐らくグループのリーダー役なのだろう院生が他の四人に確認するように言う。
このグループはかなり積極的で解剖に躊躇いがないようだ。
胸骨柄から恥骨結合部は大雑把に言えば鎖骨下から陰部ギリギリまでで、最初から一気に切り開くつもりらしい。
メスを持つ彼らを見ながらわたしはちょっと考え、一旦このグループから離れることにした。
覚えやすいように、三つのグループを頭の中でABCで分けつつ次のグループへ行く。
そこも最初のAグループと同じく切開を始めていた。
Aグループと違い検体は男性だが、かなりの老人だと見て取れる。
背が低く枯れ木のような手足や体には老化に因る皴や色素斑(しみ)があった。
上から順を追って解剖するつもりか、切開された範囲は胸部に限られる。
Bグループは解剖する側と書き留める側を前もって決め、三人が器具を持ち、残り二人は事細かに三人の言葉や検体の様子を書き記している。
会話からして、そのうち解剖する側と書き留める側は交代するみたいだ。
班員が皆公平に解剖出来る仕組みなのだろう。なかなかに効率的が良さそうである。
解剖する院生も何度か経験があったようで器具を選ぶ手に迷いはない。
メスや鉗子から何に使うのか分からない物まで揃う器具だが、使っているところを見ても意外なことに気分は悪くならなかった。
脇腹辺りを押さえたくなる気持ちはやはり何となく燻っているけれど、それだけだ。
…何故だろう?前回はあんなに気分が優れなかったのに。
血の臭いは散々事件で嗅ぎ慣れているからか大して気にならない。
むしろ鼻が曲がる程の腐敗臭を体験している身としては血生臭いくらいは可愛いものだ。
伯爵に吹きかけられた香水のお陰も少なからずあるだろうが不思議だ。
Bグループから離れて最後のCグループへ行く。
「あれ…?」
彼らはまだ解剖どころか切開すらしていなかった。
検体は子供だ。成長途中でまだ未発達な体つきの男の子。
他の検体と明らかに違って小さな体には擦り傷や切り傷、打撲傷が多数見受けられる。
打撲による痣がどのように出来たかは分からないが擦り傷や切り傷は人的なものではないだろう。
わたしには転んだりぶつかったりして付いた傷に思えた。
院生達も検体に付いた外傷を丁寧に調べ、それぞれ手元の紙に書き記している。
そのグループの中に見知った人物を見付けて内心でほくそ笑む。相手はわたしの存在に気付いていないみたいだ。
真剣な表情で検分するその人物の隣りに歩いて行き、そっと驚かせないように声をかけた。
「すみません、一つ聞いても良いですか?」
「うん、構わないよ。何だい?」
その人物――カルクさんは、わたしに振り返り少し首を傾げる。
話しかけたのにまだ分からないらしい。
声は変えてないんだけどな。目元だけだとそんなに判別出来ないのだろうか?
「その…こういった検体はたまにあるんですか?」
「?――…あぁ、あるよ。馬車とぶつかってしまったり、栄養失調で亡くなった検体も来るから。」
一瞬不思議そうにされ、しかしすぐに理解してもらえたようでカルクさんは物悲しげに目を伏せる。
子供も遺体など、やはり誰だって見たくはないものだ。
「そうでしたか。教えてくださって、ありがとうございます。」
「どう致しまして。」
やや目元を和ませてカルクさんは返事をし、視線を戻した。
事故で亡くなったのならば擦り傷や切り傷にも納得がいく。
馬車の前へ飛び出した子供が馬に蹴られて死ぬ、というのは現代の自動車事故に等しく日常茶飯事に起こる。
ある程度大きな通りなら歩道と車道に分けられているが、路地や小道では特にそれもなく、人波の中を馬車が走るのは当たり前。
けれど貴族の馬車によって平民の子供が死んだとしても、格の低い平民の方が進行を邪魔したとして貴族が罪に問われない事は間々(まま)ある。
平民は泣き寝入り状態だ。
悲しいが身分制度が根強い世界では、それが現実だった。
検体をあちこち調べてから漸くCグループの人々が器具に手を伸ばす。
カルクさんのことは気になるけれど、こちらに気付いて周囲に知り合いだと勘付かれるのは出来る限り避けたい。
不用意に彼へ近付き過ぎるのはもう止めよう。
わたしはAグループの方へ戻ることにした。
積極的なAグループは検体をかなりのハイペースで切り開いていたが、そこにはどこか気楽さが窺い知れる。
「この検体は出産が原因で亡くなったのかもしれない。」
「高齢出産は危険なのに。」
「前の検体より骨が太いし栄養状態は悪くなかったみたいね。」
「胎盤が残っている。多分出血が止まらなかったんだろうな。」
検体の下腹部を覗き込み、院生達が思い思いに意見を述べる。
医者の卵である彼らの見立てが正しいのであれば、その検体は疑う必要がないと言うことだ。
疑惑が全くない訳でもないけれど、そちらは解剖学どころか学院にすら関係がない話になるので今回は消去法で除外しておく。
医療技術が現代より未発達なこの世界に帝王切開はなく、出産は産婆(さんば)や医者が行うも基本的には母親自身が自力で産むしかない。
せめて麻酔や手術に適した清潔な環境などがあれば多少は違っていたかもしれないが。無い物ねだりは無意味である。
命を生み出すために命を懸ける。この世界の出産とはそういうものだ。
それでも産むことを選んだのだろう検体の女性は凄い。尊敬の一言に尽きる。
院生達の後ろで、やがて医学の礎となる女性の遺体へ再度黙祷した後にAグループから離れた。
同時にわたしの肩が叩かれる。
「どうかな、気分は悪くないかい?」
振り向くと教授が立っていた。
「はい、今日は大丈夫みたいです。」
「それは良かった。」
その口ぶりからして気にしてくれていたらしい。
礼を述べれば「何、大した事ではないよ。」と軽く首を振り、教授はCグループを見に行った。
それを見送り、わたしは最終的に残ったBグループへ視線を移す。
解剖する側と書き留める側が交代したようで、先程とは別の院生達が今度は器具を手に検体と向き合っていた。