換気のために少しだけ開けておいた窓からガラガラと聞き覚えのある馬車の音が聞こえて来て、顔を上げる。読みかけの本に栞を挟み立ち上がって窓辺に寄った。
硝子越しに外を見遣れば、予想通り見慣れた馬車が玄関の前に停まっていた。
御者によって開かれた扉の中から伯爵が出て来るのが見え、すぐに部屋を出る。
大して距離のない玄関ホールまで走って行き階段の手摺に飛び乗り、その上を滑り降り、一階の床に足を付けるとタイミング良く玄関扉が開く。
「お帰りなさいませ。」
「あぁ、今戻った。…良い本はあったか?」
「はい。お陰様で興味深い本をじっくり堪能させていただいております。」
伯爵はわたしの言葉にちょっと片眉を上げてから「そうか。」と言った。
コートを受け取り、部屋へ戻るその背について行く。
部屋に到着してコートをクローゼットに戻し、一礼して廊下で出る直前、奇妙なものを見るような顔をした伯爵と目が合ったのでニッコリ笑いかけて扉を閉めた。
言わなくて良いと伯爵が判断したのならわたしはそれに従おう。
その分、後で何があったのか根掘り葉掘り聞いて、わたしの方もしっかり報告すれば良い。
邪魔をしないよう自室に戻って栞を挟んでいた本を開く。
どこかの教授が書いたらしい本には執筆当時の解剖方法と、その様子からどのようなことが読み取れるか、どんな道具を使用していたかが詳細に記載されている。
しかも驚くことにこの本の著者は頭部の解剖もしたようだ。首から上は死者を冒涜するとして解剖されないこの世界の解剖学からしてみれば、かなり異例だっただろう。故人となってしまった著者の文章には解剖した死者への懺悔と感謝の念が何度も書かれていた。
解剖する時点で大なり小なり死者を冒涜している気もするのだけれど、現代で育ってきた自分とこちらの世界とでは価値観が違う。
伯爵はこういう仕事に就いているからなのか宗教には入っておらず教会に行くこともしない。わたしのように無神論者という訳でもないらしいが、そういった話は思えばした事がなかった。
今度その方面について話してみるのも面白いかもしれない。
そんな事を考えつつも目は活字を追いかけていく。昔から読書は好きで本をよく読んでいたお陰か、斜め読みという大雑把な読み方でも本の中身が分かるようになっていた。
伯爵が帰って来る頃には大半を読んでしまっていた本はあっと言う間に最終ページまで至る。
分厚い本をを閉じ小さく息を吐く。…とてもグロテスクな内容だったな。
解剖学なので当たり前だが文章が自然に頭の中で映像に変換されてしまうので、現在脳内はかなりスプラッター状態だったりするが、明日は本物を目にするのだから書籍程度でへこたれてもいられない。
読み終えた本を机に端に止せ、重ねられたものから次の本を取る。
背表紙には『人体の骨格一覧』と書かれていた。骨の名前を全て暗記しようとは思わない。が、ある程度は分からないと医学生を目指す立場上おかしいので、付け焼き刃でも少しくらいは覚えておきたいのだ。
ページを捲るごとに腕や足などの各部位の骨が描かれて名称が記されている。
それらを頭に押し込むために文章へ目を向けた。
翌朝、前回同様に髪を編み上げ、誤魔化すための化粧を軽く施した姿でわたしは鏡の前に立つ。
服もおかしな所はないはずだ。上着の内ポケットにハンカチを忘れずに入れておく。
……恐らく見学中に吐き戻すなんてことはないと思うが、持っているに越したことはない。
今日は朝食も軽めにあっさりとしたものにしてもらったし昨日読んだ解剖学などに関する医学書で大体のイメージが出来上がっているので大丈夫だと思う。
こちらの世界は首から上に手を触れないので頭蓋骨をノコギリなどで切る、なんてスプラッターな場面は見ずに済みそうだし。
身分証も持って部屋を出て伯爵のところへ向かう。
扉を叩けばすぐに入室の許可が下りた。
「失礼します、伯爵。それでは、わたしはこれから学院に行ってきます。」
「あぁ、もうそんな時間か。」
椅子の肘掛けに頬杖をつきながら窓の外へ視線を投げやって何やら考え事をしていたらしい伯爵が振り向く。すぐに眉を顰めた。
立ち上がって一度棚へ寄ったかと思うとわたしの前まで来て、頭上でプシュッという軽い音がした。
「ちょっ、何ですかっ?――――…香水?」
「もう既に顔色が悪かったからな。此れで多少は血の匂いも誤魔化せるだろう。」
「かける前に一言くらい断ってくださいよ。」
降ってきた霧状の香水は甘苦い不思議な匂いがした。しつこさがなく良い香りで、伯爵が使っている理由が何となく分かった。
スン、と鼻を鳴らして匂いを嗅いでいれば心が和いでホッとする。
普段は使わないのか初めて嗅ぐ匂いだった。
香水の瓶を棚へ戻した伯爵が行けと手を振る。
「無理はするな。」
「はい、心得ております。」
心地良い香りに包まれて伯爵の部屋を出る。またキースが馬車で送ってくれるそうなので、それに乗せてもらって学院へ行く予定だ。
いくら教授がわたしの事を知っていても周囲は分からないし、伯爵の馬車では人目に触れると些か不味い。学院は遠過ぎる訳でもないが楽を出来るならその方がいいというのもある。
玄関ホールの壁に寄りかかって待っていると程無くして扉がノックされた。
前回同様すぐに開けるとキースがニッと笑みを浮べて立っている。
「今日もお願いします。」
「良いって、どうせ俺も暇だし。………あれ、その匂い…?」
キースの脇を抜けた時、不思議そうに首を傾げられた。
馬車に乗り、再度確かめるようにキースが匂いを嗅ぐ。
「この匂い、伯爵の香水じゃん。」
「よく分かりましたね。これで血の匂いも多少は無視出来るだろうってかけられたんですよ。」
「へぇ…にしても良い匂いだよなぁ。確かそれって伯爵が調香師に頼んで作ってもらってるヤツだって前に聞いたけど、いっつも舞踏会にしか付けないみたいでさ。」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ、勿体無いよな。」
キースの言葉にもう一度服に鼻を寄せて匂いを嗅いでみる。
伯爵自ら作らせた匂い、か。結構香水もいいセンスしてるなぁ。
まるで葉巻のように甘苦いふわりとした香りの良さに改めて感心した。