イルの寝息と、伯爵が時折ページを捲る音を聞きながら馬車に揺られて窓の外を眺める。
膝の上に眠るイルから伝わる体温が心地好い温かさだ。
そのお陰か、窓から微かに吹き込む風の肌寒さなど気にならない。
アルマン家の屋敷に到着するまでわたしはイルの頭を撫でて過ごしていた。
やがてゆっくりとスピードが落ち、ガクンと小さく揺れて馬車が停まる。
外から御者の声がして伯爵が本を閉じた。
「イル、…イル?お屋敷に到着しましたよ。」
そっと肩を揺り動かしてみてもイルはぐずるように身を捩(よじ)らせるだけで起きる気配がない。
馬車の扉を開けてくれた使用人がわたしとイルを見て苦笑する。
わたしが抱き上げる前に使用人がイルを抱え「私が部屋へ連れて行きますよ。」と言ってくれた。
その言葉に甘えてイルをお願いし、わたしは馬車から降りるために立ち上がった。
――瞬間、グラリと世界が傾く。
「…っ、?」
あ、と思った時には既にわたしの体は倒れ、視界には伯爵の顔が映り込んでいる状態だった。
狭い馬車の中でよく自分を受け止められたな、なんてくだらない考えが頭を過ぎる。
目の前にある伯爵の顰(しか)めっ面が口を開いた。
「大丈夫か?」
返事をしたいところだけれど、残念な事に頭痛やら吐き気やらで声を出す気すら起きなかった。
伯爵は右手の手袋の端を噛んで外すと、そのままわたしの額に触れる。
そしてブルーグレーの瞳が見開かれ、一瞬で眉が釣り上がった。
「お前、熱があるじゃないか…!」
怒鳴りはしなかったものの、その声にはかなり怒気が含まれていた。
何とか腕を持ち上げて自分の額に触れる。――熱い。
割とわたしは子供体温だけれど、これはどう考えても平熱ではない。
……今朝の立ちくらみって、熱のせいだったりして…?
思わず遠い目をしてしまった。自分の体調に気付かないなんて、どれだけ鈍感なんだわたしは。
頭上から聞こえて来た舌打ちに意識を戻せば、今にも説教を始めそうな伯爵がいる。
舌打ちなんて彼らしくもない。
「…世話が焼けるな。」
ポツリと漏れ聞こえたぼやきに「すみません、手の掛かる子で。」と厭味を言ってみたけれど、返って来たのは「全くだ馬鹿者。」という謗(そし)りだった。
そうして伯爵はわたしを抱え上げると器用に馬車から降り、驚く使用人達の目の前を横切って屋敷に入る。
「下ろしてください、…自力で歩けます。」
「却下だ。立ち上がっただけで倒れた奴が何を言う。」
「……根性で歩きますから、」
「阿呆(あほう)。出来もしない事を分かっていてさせると思うか?黙って運ばれていろ。」
……あぁ、めちゃくちゃ怒ってる。
早足で廊下を歩きながら、伯爵は途中で見かけた執事に医者を頼む。
執事はわたしを見て心得た様子で返事をすると、すぐに元来た廊下を戻って行った。
わたしの部屋に着き、伯爵は一言わたしに「入るぞ。」と断ってから扉を押し開ける。こんな時でも紳士と言うか律儀なのに笑ってしまった。
笑い声に気付いた伯爵にやや鋭い眼差しで睨まれたので、すぐに笑いを引っ込める
ベッドに寝かされるとばかり思っていたら、伯爵は何故かベッドに腰掛けた。
必然的にわたしは伯爵の膝の上に座ることになる。
ちょ、まっ、何この格好…?!
「お、下ろしてください…!」
慌てて伯爵から距離を置こうと腕を突っ張ったが、低い声で「靴を脱がせるから暴れるな。」と怒られてしまった。
横向き状態でもたれ掛かる。顔を見たくなくて、伯爵の肩に顔を埋めて何とかやり過ごそうと試みてみた。
何時もわたしが苦労して履いているブーツが簡単に脱がされていく感覚がする。背中に添えられた手があるということは、恐らく片手でブーツを脱がしているのだろう
早く終われ、早く終われ!
脱がされたブーツはベッドの傍に揃えられ、やっと終わったと安堵の息を吐いた。
が、伯爵は有無を言わせずわたしが着ているコートに手をかける。
ギョッとするわたしに気付いていないのか、はたまた無視しているのか。
わたしからコートを引っぺがした後、逡巡するように一度動きを止めてからベストのボタンに手を伸ばした。
ブーツやコート同様外されていく。片手なのに淀み無くボタンを外す器用さは、今の状況でなければ茶化していたかもしれない。
気にするな、気にしたら負けだ、アズールとはキスだってしたんだ、これくらい何て事ないはずだっ。
色々と考えている間にベストもなくなり、上がワイシャツだけになったわたしは漸くベッドに横になれた。
コートが壁に掛けられるのと同時に扉がノックされる。
伯爵が扉を開ければ執事が片手に水桶、もう片手にタオルを持って立っていた。
「今遣いの者を出しましたので、御医者様もすぐにいらっしゃるでしょう。」
「そうか。」
「熱を出している様でしたので、冷やす物を御用意致しました。」
「あぁ、助かる。」
「それでは私はこれで失礼します。」と執事は部屋に入らず、水桶とタオルを伯爵に手渡してから恭しく胸元に手を置いて頭を下げた。
伯爵は執事の言葉に頷いて扉を閉める。
ベッドへ来て、サイドテーブルに水桶を置くと左手の手袋も外して伯爵自らタオルを水に浸し、それを絞ってわたしの額に乗せた。
「伯爵、それは貴方がするようなことでは…、」
「気にするな。他の者に看病を頼んで、万が一お前の性別が露顕(ろけん)しても後が面倒だ。」
「……すみません。」
「此の程度大した事では無い。それより少しでも良いから寝ていろ、直(じき)に医者も来る。」
見上げた伯爵はもう怒ってはおらず、気遣うような色を宿した瞳がわたしを見下ろしている。
正直言うとかなりキツい。
「では…御医者様がいらしたら、起こしてください。」
「あぁ。」
瞼の上に掌が乗せられて視界が闇に塞がれる。
素直に伯爵に従い、わたしは医者が来るまで少しの間眠ることにした。