「―――…ナ、セナ。」
肩を控えめに叩かれて意識が浮上する。
重い瞼をこじ開けると伯爵がわたしを覗き込んでいる。
「医者が来たぞ。」
僅かに視線を動かしてみれば伯爵の隣りに見覚えのある、初老の男性がいた。
伯爵に拾われた当初から何度も検診に来てくれていた医者だった。
この人は伯爵の主治医であり、わたしの性別を知る人でもある。患者の情報は絶対に漏らさないからか伯爵の人望も厚い。
「こんにちは、君と会うのは久しぶりだね。ちょっとだけ起きられるかな?もし話せるのなら、具合を教えてもらえるかい?」
ゆっくりと穏やかな口調で問い掛けられる。
少し休んだからか、眠る前よりも頭痛や吐き気は弱くなっていた。
「頭痛が…それに吐き気と熱があります、」
「ふむ。何時頃から体調が悪かったんだい?」
「多分、今朝です。…朝食後に一瞬、立ちくらみを起こして…。」
口を開けるよう促され、医者が喉を調べた。
それから聴診器を取り出し、伯爵に振り返る。
「申し訳無いのですが、暫し後ろを向いていただけますかな。」と伯爵に背を向けさせ、「ちょっと失礼するよ。」とワイシャツの前を開けて聴診器が当てられる。
何度か確かめるように聞き、それから聴診器を外して腹部に手の平が添えられた。上から指で軽く叩く。
「痛いところはあるかな?」
「いえ、特には…。」
わたしの返事に医者は頷き、ワイシャツの前を手早く留め、毛布をかけ直してくれた。
振り返っても良いと許可を得た伯爵が此方に向く。
目を確認され、医者は伯爵に言った。
「これは過労ですな。」
「風邪では無いのか。」
「えぇ、喉も痛めておりませんし鼻も出て無いです。お腹を下したり関節を痛めている様子もありません。…疲れが溜まったのでしょう。しっかり体を休ませれば熱も下がり、すぐに元気になりますよ。」
一応解熱効果のある薬を出しておきますね、と医者が鞄の中から薬を取り出した。
伯爵が用法用量を確認しているのが、どこか遠くに感じる。
…そんなに疲れているつもりはなかったのにな。
気付かない間に疲労が溜まっていたところに、夜更かしして読書をしたのが祟ったのだろうか。
健康が取り柄の一つだっただけに、疲労で倒れるたなんて思いもよらなかった。
まるで働き過ぎたサラリーマンである。
そっと頭に触れられた手に視線を向ければ目尻を下げた医者がわたしを見ていた。
「疲れた時にはきちんと伯爵に言わないと駄目ですよ。君は確かに若いけれど、もう少し自分の体を労ってあげなさい。」
「…ごめんなさい。」
「分かればよろしい。暫く仕事はお休みして、しっかり疲れを取るようにね。」
「はい。」
ニッコリと人の好い笑みを浮かべて医者は立ち上がった。
伯爵が礼を述べて、見送りのために連れ立って部屋を出て行く。
わたしだけになった部屋の中で溜め息を吐く。
迷惑をかけないようにしていたつもりだったのに、こんな形で迷惑をかけることになるなんて…。
そもそも十七歳で過労とか恥ずかし過ぎる。
しかも伯爵に横抱きで運ばれるとか…!
絶対使用人全員に見られたに違いない。
数ヶ月前の事件を思い出して言葉にならない呻きを上げてしまった。
「あー…、サイアク…。」
「何がだ?」
「っ…!?」
独り言に返答があったことに驚いて顔を動かすと、丁度伯爵が扉を閉めるところだった。
いつの間に戻ったのか、呟きはバッチリ聞かれていたらしい。
「それで、何が最悪なんだ?」
温くなった額のタオルを取り替えてくれながら問い掛けられる。
「過労で倒れるとか、まさに働き過ぎのオッサンですよね…。」
「酷い言い様だな。」
「…わたしは丈夫なのが取り柄だったはずなのに…。」
伯爵は何が可笑しかったのかクツクツと笑い出した。
わたしにとっては笑い事じゃない。
口許を隠して笑う伯爵を睨むと、軽く咳払いをして誤魔化される。
「考えてみれば此の一年、碌(ろく)に休みを与えていなかったな。」
「…事件が無ければ大して仕事もありませんでしたし、別に苦では無いですよ。」
変な言い方ではあるけれど、わたしはこの仕事が好きだ。
ミステリー等が大好きだったので探偵みたいな伯爵の仕事は、ハッキリ言ってワクワクする。
きっとこんな事を伯爵に言えば不謹慎だと怒られてしまうだろう。
疲れなんて気にならないくらい、わたしは今の生活を気に入っている。
それでも「偶には休め。」と言って伯爵がわたしの頭に触れた。
時々こうやって伯爵はわたしを子供扱いする。嫌いでは無いけれど、この子供扱いにはなかなか慣れない。
無自覚なのだと思うが、子供扱いする時、ブルーグレーの瞳は何時も優しげな色をしているのだ。それが妙に気恥ずかしい。
「伯爵、子供扱いしないでください。」
「お前のいた所では、十七はまだ子供なのだろう?」
「…ここでは大人なんでしょう?それから、いくら何でも横抱きで運ぶなんて、どうかしてます。男色の気があると勘違いされてしまいますよ…?」
「仕方無いだろう?私もあの時は焦っていたんだ。それに此処の使用人達はそんなくだらぬ勘繰りはしない。」
頭を撫でる手は止まらず、これで会話は終わりだと言わんばかりに、また瞼の上に掌が乗せられる。
喋ったからか、目を閉じると眠気が押し寄せてきた。
休めば良くなるんだから、さっさと休んで治してしまおう。
促されるまま、わたしは意識を手放した。