それから他愛もない話を交わしつつ昼食をご馳走になって、わたし達はリディングストン家から退散する事となった。
長く居た訳でもないけれどイルはすっかりキースに懐いていた。キースもイルが可愛いようで「弟が出来たみたいだ」と嬉しそうにイルの相手をしてくれていた。
わたしは伯爵とシャロン嬢と三人でまったり話が出来て久しぶりの息抜きになったし。
「今日は来てくれてありがとう。とても楽しかったわ。」
「伯爵、またいらしてください。セナとイルフェスも来いよ!」
数人の使用人と共に屋敷の外まで見送りをしてくれる二人に伯爵が軽く頷く。
イルは二人が見えなくなるまで馬車の窓から一生懸命手を振っていた。
あんまり窓から身を乗り出していたので伯爵に怒られてしまっていたけれど、それでも窓から顔を覗かせて暫くの間、リディングストン家の方角をイルは眺めていた。
「楽しかったですか?」と聞くと「すごく楽しかった!」と即答されるくらいには、楽しい時間を過ごせたらしい。
ずっと読み書きの勉強や礼儀作法の練習ばかりしていたイルにとっても、今日は良い息抜きになっただろう。
斜め前に顔を向ければ伯爵はシャロン嬢から借りた本をもう読み始めている。
伯爵の下で世話になってもうすぐ一年だが、相変わらず伯爵は読書家だ。本人曰く読書が好きなのではなく、知識を集める事が好きらしい。
最近では必要以上伯爵の前で元の世界の知識は披露しないことにしている。
言いだしっぺの法則とでも例えるべきか、伯爵の知らない知識を口にしてしまうと納得してもらえるまで延々解説をしなければならなくなる。それは正直面倒極まりない。
「―――……何だ。」
ジッと見つめてしまっていたのか、伯爵が本から顔を上げた。
ブルーグレーの瞳がわたしへ向けられる。出会った当初と変わらない、あまり感情を読み取り難い瞳だ。
「いえ、大した事ではありませんが…馬車の中で本を読んで気分が悪くなりませんか?」
現代ならまだしも、この世界の道路は石畳で結構ガタガタと馬車が揺れる。自動車のようにサスペンションが付いているはずもなく、ダイレクトに地面の凹凸を拾ってしまうのだ。
椅子の座り心地も良く、造りもしっかりしているからか普通の馬車に比べれば揺れはマシだが、こんな中で読書をしていたら絶対車酔いならぬ馬車酔いになると思う。
しかし伯爵は一度瞬きをすると僅かに首を傾げた。
「いや?特に問題は無いが。」
「そうですか、羨ましい限りです。」
「……。」
「…何ですか伯爵。」
黙って見つめてくる伯爵にちょっと気圧されてしまう。
不思議とこのブルーグレーと視線が合わさると自分から逸らせなくなる。
「今日は楽しかったか?」
唐突な質問に一瞬、聞かれた事の意味を理解するのが遅れてしまった。
それはさっき、わたしがイルに聞いた事と全く同じじゃないか。
訳が分からず伯爵の顔を見ても、落ち着いた表情で静かにわたしを見返すだけ。そこから何かの感情を読み取るのは無理そうだ。
「えぇ、とても楽しくて良い息抜きになりました。」
「そうか。」
わたしの返答に満足そうに頷き、伯爵は本へ視線を落とす。
一体何がしたかったんだ…?
内心で首を傾げていれば窓に顔を乗せていたイルが急に馬車の中へ首を引っ込めた。
どうしたのかと見やれば思い切り顔を顰めている。
「くさい!」
「? 何がですか?」
「外、すごくくさい!」
鼻を押さえる仕草を見せるイル。何かあったのだろうか?
窓の外へ顔を出して臭いを嗅いでみるけれど、特にこれといって悪臭の類は感じられなかった。
しかし今渡っている橋の下は下水が流れているので、イルが言った悪臭はそれが原因だろう。
うろ覚えだが確か元いた世界でも、これくらいの時代では生活用水は基本的に河へそのままタレ流し状態だったと何時だったかどこかで聞いた気がするし、この世界もそうなのかもしれない。
「わたしは特に感じませんが…もしかして、下水の臭いがしたのではないですか?」
「違うよ、セナ!もっとヘンなにおいだった!」
「変な臭い、ですか…?」
自分で嗅いでいないので、変な臭いと言われてもそれがどんな臭いなのか分からなければ要因を判断出来ないので困ってしまう。
とりあえず頭を窓から戻して椅子に座り直せば伯爵が「放っておけ。」と手元に視線を向けたまま、投げやりに言う。
イルはまだ納得のいかなさそうな顔をしていたが、伯爵に言われてしまえばそれまでのようで、窓から顔を出すのを止めてわたしの隣りに座った。
はしゃぎ疲れただろうイルは座ってすぐ、また船を漕ぎ始めてしまう。
散々キースと遊び騒いだのだから仕方がない。
どうせ伯爵は読書中なのだから構わないだろうとイルを横にならせ、わたしの膝を枕に寝かせてやる。
胸の上に置いた手でゆっくりとリズムを取ってやればあっという間に眠ってしまった。
あどけない寝顔を眺めながらそっと頭を撫でる。
柔らかな茶髪は馬車から顔を出していたからか少し絡まっており、優しく指で梳きながら解いてやっているとイルの体に上着がかけられる。
顔を上げれば伯爵が椅子に座り直すところだった。
「そのままだと少し寒いだろう。」
「伯爵は寒くありませんか?」
「あぁ。」
再度本を読み出す伯爵を僅かに盗み見れば、合った視線がサッと逸らされる。
風邪を引かないか心配だったのなら素直にそう言えば良いのに。
笑ったらきっと不機嫌になってしまうだろう。
内心で笑いを堪えながら、イルの肩口までかけられていた上着を引き上げてやった。