目が覚めた時には日がかなり傾き、通りを行く人々もだいぶ疎らになっていた。
ちょっと昼寝をするつもりが完全に熟睡してしまったとしか思えない。
性質の悪いことに何かあれば起こしてくれるだろうと思っていた伯爵まで、ベンチの背に寄りかかってグッスリ眠っているのだから最悪だ。
眠っているせいか普段よりも少し幼く見える伯爵の顔がそれでも美形なのに内心で少し腹を立てつつ、さてどうやって起こそうかと思案してみる。叩き起こすか、それとも声をかけて起こすか…いっそのこと、ここに置き去りにしてやろうか?
散々振り回されているのだからそれくらいしたって罰は当たらないだろう。
そっと膝から頭を上げて体を起こす。伯爵は背もたれに寄りかかり、左腕を背もたれに乗せて頬杖をつくようにして眠っている。少し下がってしまっている眼鏡と微かに開いた口という無防備さが普段のクールな姿と違ってなんだか面白い。
置き去りにしたら何時まで寝ているんだろう?
起きた時にわたしがいなかったら怒るだろうか?それとも焦るだろうか?
ムクムクと湧き上る悪戯心に導かれて音を立てないようにベンチから腰を上げる。
目を覚ました時の伯爵の様子を想像して笑いを押し殺そうとすると不意に視界がブレた。あ、と思った時には既に背中全体を温もりが包み込んでいた。
「置き去りなんて酷いと思うけど。」
寝起きでも芝居がかった口調にせっかく高潮していた気分が一気に下がる。
「チッ…なんだ、起きてたのかよ。」
「膝に重みがなくなったからね。」
「ならさっさと目ぇ開けろっての!」
つまり自分の悪戯は最初から失敗だったという訳で。――…あぁ、面白くない!繋がっていた腕を叩いて隣りに座り直すと伯爵は口元を軽く押さえて笑っている。それが更に苛立たせてるって分かってますか?
半眼でジロリと睨めば漸く笑いを引っ込ませた伯爵が、けれど優しい笑みを貼り付けたまま口を開く。
「よく寝ていたね。疲れてる?」
「そりゃ慣れない環境にいきなり放り込まれたし?」
「意外だな。君は図太いからどんな所でも大丈夫だと思ってたよ。」
「なぁ、それ貶(けな)してる?絶対貶してるよな?」
「そんなことない、褒めてるつもりだよ。」
はいはい、物は言い様ってやつですね。どうも猫を被ってる時の伯爵って苦手だ。
言動とか先が読めないし、通常じゃあ絶対口が裂けたって使わないような甘い声で喋るからハッキリ言って気持ち悪い。言ったら後で怒られるのは目に見えてるから言わないけれど。
ポケットに手を突っ込んで指先に触れた硬い物を取り出す。
そういえば教授からもらったんだっけ。水素。
日の光に透かして見たところで中身なんて見えないが、何となく小瓶が光を反射させて輝く姿を眺めて見る。無色透明のものは綺麗だ。誰にも悟られず、気付かれず、空気のようにそこに在るだけの存在。
「ほら、暗くなるから帰ろう。送ってくよ。」
ベンチから立ち上がった伯爵が手を差し伸べてくる。日の光が眩しいのかやや細められたブルーグレーの瞳が小瓶のようにキラキラと輝いていた。青よりもくすんだブルーグレーは光の加減によっては雨振りの空みたいな色にも、海と空が交わる色にも似ている。
「……あんたの目ってさ、綺麗だよね。」
お芝居を忘れてポロリと落ちた言葉に伯爵の瞳がレンズ越しに僅かに見開かれる。
そんなに驚くことでもないだろうに。すぐに何時もの静かな目に戻り、グイとわたしを引っ張り起こした。
「言動には気を付けろ。」
「なんで。褒めてんじゃん。」
「何ででも、だ。」
小声で交わされる言葉は芝居が抜け落ちている。よく見るとブルーグレーの目元が薄っすら赤くなってしまっている。…あ、照れてる?やや乱暴に腕を引かれて噴水から離れたけれど、振り返らない伯爵の背中越しにわたしは声を押し殺して笑った。
「ねー、セナ!きょう来たひと、だれー?」
「そのひとと、セナ、ふんすいのところで寝てたよねー?」
「すごくいいかんじだったー!」
「ねー。」
孤児院に帰り、全員でテーブルを囲んで夕食を食べていた時に両隣りに座った子たちが無邪気にそう問い掛けてきた。
「こいびとー?」と続けられた疑問の言葉に食べていた食事を危うく噴きかけてしまった。
きっとシスターと買い物に出かけて偶然見たのだろうけれど、何もこんな大勢の前で…。いや、子どもだからそんな事まで考えてないか。
期待のこもった眼差しを斜め上に流しながら曖昧に返事をする。
「さあね。」
「えー、‘こいびと’でしょー?」
「だって、おとこのひと、セナのあたまにキスしてたもん。」
「ねー。ぜったい‘こいびと’だよー。」
「……ちょっと待て。…キス?」
子ども達の口から聞こえた爆弾発言に手が止まる。キス?キスって口をくっつけるキス?
聞き返したわたしに子ども達は頬を染めながら何度も頷いた。きっとその場面を見ていたんだろう。
話を聞いていた別の女の子達がキャーッと恥ずかしそうに声を上げて、楽しげに隣りの子と内緒話をしている。子どもらしく声が大きいので内緒話には全くなっていないのだけれど。
そんなことはこの際どうでもいい。問題は伯爵が寝ているわたしの頭にキスをしてたってことだ。
この世界は中世っぽいしこの国も英国っぽいから、そういったスキンシップくらいは挨拶なのだが、問題はそれを伯爵が行っていたということ。ハグだってろくにしないような男がキスなんて一体何を考えているんだ。
ギリギリとフォークを握り締めるわたしに気付いていない様子で子ども達は話を続ける。
「楽しそうだったー。」
「うん、なんかわらってた。」
……なるほど。私が寝ている間に伯爵はせっせと噂が流れるようにしてたっけ訳か。まぁ、どうせ半分以上はこんな風になることを見越して遊んでいたんだろうな。
あの人はクールなわりに、時々酷く意地が悪い。わたしも十分人の事を言える性格ではないけれど。
よし、次にあった時に殴ろう。拳で、絶対、思い切り殴ろう。
そうでもしなければこの羞恥やら苛立つやらは治まりそうもない。
止まってしまっていた腕を動かして残りの夕食を胃に詰め込みながら、わたしは心の中でそう固く決意した。