「つい先程まで水素の特性を調べていてね。水素は水に溶けにくく、けれど空気よりもずっと軽い。それに空気と混ざっている状態で火を近づけると爆発を起こす。何故そうなのかが気なってしまってね。」
時間も忘れて調べていて、丁度片付けを終えたところで二人が訪れたんだ。と苦笑気味に教えてくれた。
何時の時代の研究者というのも時間を忘れて研究に没頭するんだな、なんて思ってしまう。
伯爵は「相変わらずなのか」と呆れていた。どうやら教授は昔からそうらしい。
それにしても水素を発生させる実験なんて懐かしい。中学生くらいに習った記憶がある。
「教授、水素を少し分けていただいてもよろしいでしょうか?」
「構わないけれど、何かに使うのかい?」
「いえ、特にそういう訳ではないのですが…少々懐かしくて。」
「?」
理解していないようだったけれど教授は器具を使って水素を発生させてくれると、それを小さな小瓶に入れてくれた。栓はコルクの間に何かが塗ってあり、そのお陰で中の水素は漏れずに留まっている。
中身を見たって気体になっている水素を目視することは出来ない。それでも久しぶりに化学のものに触れて心がウキウキとした。
そんな私の様子に教授がニコリと笑う。あぁ、こんな先生がいたらよかったのに。
そうしたらもっと化学の授業は真面目に受けられたのにな。
今更どうしようもないことを頭の中から追い出して、教授にしっかりとお礼を告げる。
ちなみに伯爵には屋敷内で開けるなと注意を受けた。電気がなく蝋燭の火で明かりをとっているので、至るところに火気のある屋敷内であけたら確かに危険である。十分気をつけよう。
もらった小瓶を上着のポケットにそっと仕舞う。
同時にコンコンと扉がノックされた。伯爵は服を整え、わたしも真っ直ぐに立っていた姿を崩す。
教授が解錠して扉を開けると白衣を着た女性がいた。聞こえてきた内容からして教授のお手伝いさんみたいな感じらしい。
申し訳なさそうな顔をした教授に伯爵は柔らかな笑みを貼り付けて「また来ます。」と言い、わたしを連れて部屋を出る。ちなみに扉脇にいた女性は伯爵を見て頬を染めていた。
「で、どうすんの?帰る?」
廊下を歩きながら隣りの伯爵に聞くも、また街中を散歩しようと言われて頷く。
噂を流すのが目的だし人目の多い場所にわざと行かないとね。
小声で「人混みは苦手だな」なんてぼやくのが聞こえて思わず笑いそうになってしまった。
気付いたのか伯爵はわたしを横目でチラリと見、何か言われるかと思ったが、またブルーグレーの瞳は正面へと向けられた。あれ、怒らないなんて珍しい。
学院を出て街の中央へ向かう通りをのんびりと歩いて行く。
太陽は天上にあって、そろそろ昼食を摂っても良い時間帯になっていた。
通りに面している店で歩きながらでも食べられるようサンドウィッチを買った。けれど伯爵は歩き食べという行為に躊躇いがあるのか、それとも行儀が悪いと思っているのか――多分後者だろうが――なかなか食べ始めない。
わたしが隣りでサンドウィッチにかじり付くのを見て諦めたように、同様にして食べ進めていく。
まぁ、今だけなのだから我慢して欲しい。どこかで食事するとなると品の良すぎる伯爵の食事姿は少々悪目立ちしてしまうだろうし。
こんな風に歩きながら食べている分にはマナーなんてあまり関係ないけど。
適当に噴水の水で汚れた手を洗ってハンカチで拭う。
またベンチに座って通り過ぎる人々を眺めるともなく眺めてみる。
結構歩いたし、食事もしたせいか欠伸が漏れた。伯爵は思い切り欠伸をしたわたしの肩をトンと軽く叩く。
なんだと顔を向けようとした途端にグイと肩を引かれてベンチの上に倒れ込んだ。
驚く間もなくわたしの頭は伯爵の膝の上にあった。それが膝枕なのだと理解するのに数秒かかってしまったのは仕方が無いと思う。
起き上がろうとしても伯爵の手が首の下と頭をガッチリ押さえているせいで身動きが出来ない。
「おい、手ぇ離せ!」
それこそ全力で起き上がろうとしても無理なくらい伯爵の手には力が込められている。
ジロリと見上げた先には楽しげにブルーグレーの瞳を細める伯爵がわたしを見下ろしていた。
「眠いなら、寝て良いよ。」
「いい!眠くない!!」
「欠伸してたのに?」
とても楽しそうにしている伯爵。…まさかさっき笑った仕返し?
眉を顰めたわたしとは裏腹にスッキリしたような顔をしているものだから、思わず舌打ちが漏れた。叱るように軽く頭を叩かれる。
いくら噂になるようにするとは言ってもこれは羞恥プレイ過ぎる。
かと言ってきっと起き上がったらこちらを興味津々で見ているであろう人々と視線が合ってしまいそうで嫌だ。
結局わたしは諦めて体から力を抜いて伯爵の膝に頭を任せた。
孤児院では子どもたちの世話ばかりして楽しいけれど正直少し疲れていたし、こうやって寝ていれば噂も立つし休めるしで一石二鳥じゃないか。
ちょっと恥ずかしい気もするけれど寝てしまえばどうでもいい。
「……寝る。」
「おやすみ。」
「フンっ」
腹いせに挨拶をせずに目を閉じる。が、それはそれで子供っぽかったかもしれない。
現に密着している伯爵の膝から笑っているだろう振るえが微かに伝ってきた。
……そのまま足が痺れてしまえばいいんだ。
ゆっくりと深くなっていく眠気に身を委ねてわたしは眠りに落ちた。