ザァザァと雨のように全身を濡らしていく温かなシャワーのお湯を浴びながら、志貴はぼんやりとカウンターで見た男を思い出していた。
不良にしては珍しく染められていない黒髪に、海よりも淡く空よりも濃い青色の瞳を宿した男は不思議と頭の中に残っている。
普段ならば自分に関係ない他者の記憶なんてすぐに消えてしまうのに。
やはり自分が考えた名前を使っているからだろうか?
それともあの青い瞳の静けさを気に入ったのだろうか?
どちらにせよ意識せずに口から零れ落ちた感謝の言葉に自分自身が一番驚いていた。
らしくない事をしたと若干自嘲気味な笑みが漏れる。
適度に体が温まってからシャワーを止めてバスルームから出る。
びしょ濡れの服は備え付けの全自動洗濯機に放り込み、何時も置いてあるいくつもの服の中からツナギのように上下が繋がった服を選ぶ。
上の方にある棚を開ければ女性用の下着があり、そこから上下セットを一つ拝借した。
服や下着があるのはここを溜まり場にしている不良たちが自分の女と寝た後のため、らしい。
どうでも良いが着替えがあることは助かる。
下着をつけ、黒と白を基調とした半袖ショートパンツなツナギのようなものを着る。
濡れている髪はショートなのでドライヤーをかければすぐに乾いた。
靴を履こうとして、それすらびしょ濡れであることを思い出して留まる。
結局靴もサンダルも見つからず、外のように砂利や小石がある訳でもないのでまぁ良いかと裸足のまま廊下に出た。
人影もない廊下を騒がしい方へ進む。
正直気は乗らないがマスターに礼くらい述べておかないとと擦り硝子張りの扉を開けた。
すぐに気付いた兄がシャワーを浴びてサッパリした志貴にホッとした表情で声をかけてくる。
「おっ、出てきたか………って何で裸足?!」
何も履いていない足を見て悲鳴に近い声を上げる。
それにマスターだけでなく、先程と変わらずカウンター席に座っている数人もまたこちらを見た。
内心うるさいなと思いながら兄の叫びに答える。
「履くものない。」
「靴は?!」
「濡れてる。」
ペタペタと少し冷たい床を歩き、カウンター席に腰掛ける。
マスターが苦笑しながら出してくれたグレープジュースを一口飲んでから、シャワーの礼を述べればニコリと笑顔が返ってきた。
この人ほど心の広い人は会った事がないな。などと思いながら裸の足をプラプラと意味もなく揺らす。
少し火照った体には丁度良い涼しさだ。
二口、三口とジュースを飲んでいた志貴にシルバーアッシュの男がやや身を乗り出して声をかけて来る。
「ねぇねぇ、キミ、トキの妹ってホント〜?」
泰河の身体の前まで身を乗り出しているせいで、青い瞳がうざったそうに眇められたが何も言わずにグラスに口を付けていた。
気にしていないらしい。
何も返事をしない志貴へ更に言葉が投げ付けられる。
「全然似てないよねぇ。トキと違って顔とかフツーだしぃ?あ、色が白いトコは似てるかもねぇ!ってかオレらのNAME付けたのキミってマジなのぉ?なぁんかチョー意外って感じぃ!!」
「ちょ、おい銀二(ぎんじ)っ。」
朱鷺が止めるように声をかけたが、やっと振り向いた志貴は硝子玉のような黒い瞳で銀二を見つめた。
ルージュもグロスも塗られていない唇が開く。
「うるさい。」
抑揚のほとんどない口調で紡がれた四文字に様子を見ていた誰もが動きを止めた。
兄である朱鷺だけは「あちゃー…」などと言いながら額に手を当てている。
志貴はうるさいのが嫌いだった。
それも自分に関して色々と口出しされたり、突っ込んで聞かれたりするのは最も嫌なことで、面倒臭いことは絶対にしない主義の志貴からすればウザい以外の何ものでもない。
「なぁに、その言い方ぁ。マジむかつくんですけどぉ。」
思い切り眉を顰めて苛立ちを露わにする銀二に流石の朱鷺も体が強張り、冷や汗が出た。
銀二が恐ろしいからではない。
その銀二の態度が志貴の琴線(きんせん)に触れるかもしれないからだ。
殺気立つ銀二のせいか何時の間にか周囲にいた人々は静まり返り、こちらの様子を知らない離れた場所にいる人々だけが遠くで騒いでいる。
「それはこっち。白髪が言うな。」
「何その言い方、これ白髪じゃなくてシルバーだってのぉ。」
「黙れ。知るか。ウザい。」
周囲があっと思う間もなく銀二の拳が志貴の頬を打った。
朱鷺に名を呼ばれたが、殴られた勢いのまま志貴は椅子から落ちる。
けれどまるで何事もなかったかのように立ち上がった。
喧嘩慣れした、それこそ下手な不良よりもずっと強い男に殴られたにも関わらずその表情は相変らず無い。
口の端から血が滲んでいようとも気にする素振りすら見せない姿に泰河が微かに目を見開く。
殴ったはずの銀二ですら泣くどころか呻き声一つ上げない志貴を信じられない様子で見つめていた。
「志貴、大丈夫か?!」
朱鷺の声に周囲もハッと我に返る。
カウンターから出て来ようとする兄を手で軽く制した志貴は血の滲む場所をペロリと軽く舐めてから、平気。と一言言う。
そこに我慢している様子も、堪えた様子も見られない。
「…鍵。」
「え?」
いきなりズイと差し出された手に朱鷺は一瞬思考が止まる。
「家の鍵。帰る。」
「あ、一緒に…、」
「帰る。」
もう一度、寸分違わず同じ単語を同じ口調で言った志貴に、朱鷺は家の鍵を手渡した。
裸足のままペタペタと床を歩きながら志貴はスタッフルームへ続く扉へ向かう。
そうして振り向くことなくパタンと小さな音を立てながら扉は拒絶するように閉められた。Prev Novel top Next