「何アイツ!何なワケぇ?!」
志貴の姿は消えてから苛立った様子でカウンターを叩いた銀二に、マスターが落ち着くようにと声をかける。
もう開かないと分かっていながら朱鷺は妹の消えた扉を見つめていたが泰河の視線を感じて視線を戻した。
「イイのか?」
主語のないその問いに朱鷺は力無く首を振る。
「行ったところで追い返されるだけだから、さ。」
「そうかよ。…随分強いんだな、アンタの妹。」
冥界の番犬ケルベロスの異名を持つ銀二の一発を喰らって平然としているとは。
例え今のが全力でなかったとしても、普通の女なら泣き喚くだろうし、不良だったとしても多少なりもと怯えるはずだ。
だが志貴の瞳にはそういった感情は一切浮かんでいたかった。
それが何故か泰河の心を酷く惹いた。
「違う…そんなんじゃない。そんなんじゃ…。」
苦しげに眉を寄せた朱鷺に聞こうとしたが、すぐに上げられた顔には既に苦笑が張り付いていた。
「ごめんな、アイツちょっと人と関わるのが苦手でさ。」
「ホントだよぉ。ちょっと生意気すぎぃ!」
「銀二君は色々と言い過ぎですよ。貴方だって見知らぬ人に色々聞かれたり言われたりして、良い気持ちはしないでしょう?」
「…そうかもしれないケドさぁ…。」
窘めるようなマスターの言葉に一瞬銀二は詰まる。
どうやら自分がうるさかった事は自覚しているらしい。
それに殴ったことも気にしているのかもしれない。
女を殴ることも間々あったが、今回はスパイだった訳でも情報を流した訳でもないため、バツが悪そうな表情をしていた。
自分が悪いと思っていても自ら謝るなんてことをした事がないのだろう。
「どーせ、次に来たときには忘れてるでしょー?」
などと言うくらいだ。
だが朱鷺は頭を軽く掻いて溜め息交じりに否定した。
「いや、うーん…。忘れてるかもしれないけど、多分、銀二のこと自体忘れるか……酷けりゃ無視されるかもしれないぞ?」
「はぁ?シカトされるくらいどってコトないじゃん。」
「…だと良いけどなぁ。」
苦虫を噛んだような顔でどこか遠くを見る朱鷺は何かを思い出している風だった。
が、シラけてしまった空気を戻すようにマスターが手を叩く。
とりあえずだいぶ氷が溶けてしまったグラスの中身を全て仰り、同じものをもう一杯注文する。
ぶすくれた顔で銀二もビールの入ったジョッキを一気飲みしていた。
元通り騒がしくなった周囲の音を聞きながら、泰河は先程ぽつりと朱鷺が呟いた言葉を頭の中で反芻させる。
――違う…そんなんじゃない。そんなんじゃ…。
感情を押さえ込んだ声と、翳った瞳。痛みを堪えるような顔。
朱鷺の妹のまるで能面のように表情の変わらない顔を思い出す。
真っ黒な瞳はどこまでも深く、どれほど見つめてみても感情らしき光は欠片もなかった。
そうして殴られたときの、あの痛みすら感じていないかのような様子に自然と青い瞳が細められる。
一体あの女は何なんだ?
泣きも喚きもしないどこか不気味ささえ感じる少女の姿を思い出しながら、泰河は新しいグラスを傾けた。Prev Novel top Next