男が店内に戻ってからすぐに、今度は別の男が飛び出してきた。
白いシャツに黒のベストを着た彼は店先に佇む志貴を見てギョッとする。
「びしょ濡れ?!雨の中走って来たのか?!!」
早く乾かさないと風邪引く!と掴まれた手が熱くて思っていたよりも自分の体が冷えていたことに気付く。
そのままコンクリートの階段を下りて店の扉を開けた。
男は志貴と五つ年の離れた兄で、このクラブバーでバーテンダーとして働いている。
ほぼ毎日送迎してくれるのだが今日はどういう訳だが迎えに来なかった。
そのせいで普段は裏口から入るはずなのに、正面入り口から入ることになってしまいほんの僅かに志貴は眉を顰めた。
顔立ちの良い兄に好意を抱く女はうるさいし、平凡で場違いな自分に集まる視線が嫌いなのだ。
人々の間を縫ってカウンターに近付けば見慣れた人物が背を向けて立っている。
丁度タイミング良く振り返り、志貴を見て驚いた様子で瞠目した。
「おやおや、濡れ鼠になって…。奥のシャワーを使うと良いよ。」
グラスを持っていない手でマスターが奥へ続く廊下を示す。
兄が礼を述べて志貴の背を押した。
あまりに強く押して来るので思わず兄の腕を叩いてしまったが、本人は濡れている妹のことで頭が一杯なようだ。
結構大きく響いた乾いた音にカウンターに座って話していただろう数人が振り返る。
その中の一人は先程外で出会った男だった。
バッチリ目が合い、ジッと見つめてくる青い瞳を同様に見返す。
…海よりも淡が空よりは深い神秘的な色合いは冬の湖面を彷彿とさせる静けさを湛えていた。
「…ありがと。」
囁きにも近い言葉だったが、相手にはしっかり届いていたようで一瞬青い瞳を微かに見開いてからフイと視線が逸らされる。
特に気にした様子もなく志貴は暫し男を見てから、スタッフルームへ続く扉へ慣れた様子で歩いて行った。
ついて来ようとした兄は入る直前に扉を顔面にぶつけられて閉め出された。
それを見ていたマスターは苦笑し、カウンターに座っていた数人が笑う。
「ちょっとちょっと、今の子だれぇ?」
シルバーアッシュにピンクのメッシュを数本入れた軽そうな男が好奇心の混じった声で志貴の兄――…朱鷺(とき)へ問う。
扉に思い切り鼻を潰されて痛みに呻きながらも何とか立ち直った朱鷺は、カウンター内へ戻りつつ少し眉を下げた。
「あー…、妹だよ。」
「マジでぇ?チョー似てなくね??」
「…アイツは母さんに似てるからなぁ。」
グラスを抜きながら朱鷺は苦笑する。
そうして黒髪の男に視線を向けた。
「ありがとう、泰河(たいが)。知らせてくれて。」
もし泰河が教えてくれなければ気付かずに妹を何時間も外で待たせてしまっていたかっもしれない。
だが声をかけられた泰河はカクテルの入ったグラスを一気に仰る。
「別に。…アイツ、どっかのチームにでも所属してんのか?」
「いや?どうかしたのか??」
「これを一発で読みやがった。」
これ、と言いながら腕に彫られたタトゥーを指でトントンと示した。
自分たちからすれば当たり前に知っていて、読めるが、普通の一般人ならば読むことは出来ないだろう。
全員ではなく、このタトゥーと文字を彫っているのは‘冥府の王’を束ねるハデスと呼ばれる総長…竜造寺(りゅうぞうじ)泰河その人を置いて他にいない。
どこか別の不良チームに属しているか、それとも…。
例え己の巣にしているクラブバーに働く男の妹であろうとも、己の邪魔をするならば容赦するつもりもない。
そんな泰河の考えを読み取ったのか朱鷺は一度キョトンとした顔をしてから破顔した。
「あはははっ、いやいや大丈夫。アイツは他んトコに情報を流したりしないって。」
「何で言い切れんだよ。」
「だってお前らが使ってる通り名の名付け親だぜ?」
「「はっ?」」
朱鷺の言葉に思わず二人の声がハモる。
一体どういうことだと視線で先を促した泰河に朱鷺はハッキリとした口調で告げた。
「ハデスとかケルベロスとか、お前らや幹部の役職名は全部アイツが候補を出してくれたんだ。アイツ、ギリシャ神話好きだったからな。」Prev Novel top Next