――――…バサッ…!
「!」
唐突に聞こえた物音にパッとエリスは顔を上げた。
思わず息を詰めて臨戦態勢をとってしまったのは、職業柄仕方の無いことだろう。
すぐに隣りへ視線を動かし、音の発信源を知ると息を吐き出した。
読書をしていたはずの少女が何時の間にか眠ってしまっていたらしい。
力のなくなった手から支えを失った本が床へ落ちた音が、先程の物音の正体だった。
読みかけのページに栞を挟んで立ち上がり、床に落ちた本を拾いテーブルへと置く。
自室に戻ってクローゼットからマイクロファイバーの薄い毛布を持って来て少女にかけてやった。
ソファーに座り、さらされている寝顔をエリスは何とは無しに眺める。
少女の寝顔は思い出すだけでもかなり見てきた。が、相変わらず無防備であどけない表情をしている。
目にかかってしまっていた髪を指先で軽く除けてやれば幼さを残す寝顔が更によく見えた。
綺麗な黒髪は撫でると指の間をサラリと心地好く流れていく。
頬を撫でてみても少女は眠りこけている。
……柔らかいな。
思いのほか柔らかな頬をやわやわと摘んでいると、小さな唸り声がして、眉を微かに顰めた少女の手がペチリとエリスの手を叩いた。その手は気持ち冷たい。
普段起きている時では絶対にありえない行動だ。
それでも止めずにいれば細い手がエリスの手を自分の頬から引き離す。
睡眠を邪魔するものがなくなったからか、少女の眉が戻る。
掴まれたままの手を逆に掴み、少し冷たいそれを自分の手で包んだ。
小さくて華奢な手はエリスが本気を出せば折れてしまうだろう。
だからこそ、そんなか弱さが愛しいと思う。
やや力を込めて握ると条件反射なのか弱いながらも少女の手が握り返してきた。
こんな些細な事に幸福を感じるだなんて、とエリスは苦笑する。
そうして手を解こうとしたが、少女の手は離れなかった。
嬉しいような、困ったような。とりあえず支障は無いので役得かと思い直してエリスは自由な右手で読みかけの本を手繰り寄せると膝へ置き、栞が挟まれたページを再読し始めた。
左手に感じる温もりと細い手の感触に心が凪ぐ。
ペラリ、ペラリと本を捲る音に混じって聞こえる規則正しい寝息はエリスの眠気をも誘う。
このまま眠ってしまうのも気持ち良さそうだ。
ふぁ…と欠伸を零しながらエリスは顔を上げる。
少し早いけれど昼食の準備をしよう。
この状態でいたら本当に眠ってしまう。
少女の頭をもう一度撫で、そっとその髪にキスを落としてから細い指を丁重に解いていく。
全ての指を離したが少女は起きなかった。
それにホッとしてエリスはソファーから立ち上がる。
キッチンへ向かい、冷蔵庫の中身を覗き込んだ。
大量に買い込んでいたお陰で冷蔵庫は物で溢れ返っている。だがエリス自身は料理が得意という訳でもないので作れるものは限られてしまう。
サンドウィッチは朝食に作ってしまった。
パスタでも茹でようか?
確か麺がまだ残っているはずだとキッチン脇の棚を見た。
思った通りパスタの麺があった。余裕で二人分はあるそれに、昼食はパスタに決める。
麺を手にキッチンへ戻る。
エリスは服の袖を捲り手を洗い、鍋に水を入れて火をかける。
その間に他に必要なものを用意して沸騰し始めた鍋に麺を投入した。
ボウルにホワイトソースの材料を入れて混ぜ、今度はフライパンでニンニクとベーコンを炒める。
良い感じに茹で上がった麺を湯切りし、フライパンへ入れてサッと炒めておく。
一旦火を消したそこへボウルからソースを流し込み、混ぜつつ塩で味を調えた。
弱火で少しだけ炒めた後は皿に盛ってブラックペッパーを振りかける。少女の分は好みが分からないので少なめに。
リビングへ行きソファーを見る。
気持ち良さそうに眠る少女を起こすのは忍びないが、薬も飲まなければいけないのだから、やはり起こすべきだろう。
「ユイ、起きてくれ。」
とんとん、と肩を軽く叩く。
それでも起きそうにないので今度は軽く頬を叩いた。
ぼんやりした黒い瞳がエリスを見る。
「よく眠れたか?」
「――…っ!?」
声をかければ、暫し言葉を理解するように瞬きをして、ハッと状況に気付いたらしい少女が体を硬直させた。
苦笑を隠して手を差し出す。
「昼食にしよう。」
「えっ?あ、はい…」
居眠りしていたことを恥ずかしく思っているのか、少女の顔は赤い。
あえて指摘せずに少女の手を取ってダイニングテーブルへ導く。
椅子に座った少女の前に作ったばかりのパスタを出せば、小さく「美味しそう…」と呟きが聞こえた。
水を置き、自分の分も持って席につく。
此方を見つめてくる少女にエリスは手で食べるよう示した。
「いただきます。」
律儀に挨拶をしてからフォークで麺を口に運ぶ。
黒い瞳がパチパチと瞬く。
「美味しい!」
「それは良かった。」
エリスもパスタを口に運ぶ。…なかなか上手くホワイトソースを作れたようで何よりだ。
先に食べ終えたので棚から薬を出し、少女の皿の横へ置く。
食べている最中だった少女が口元を手で押さえながら軽く頭を下げた。
多分だが「ありがとうございます」と言いたかったんだろう。
気にするなと笑って席に戻り、ゆったりグラスの水を口に含む。
目の前で小動物のようにパスタをちまちま食べる少女を眺めてみた。
あの小さな口では麺もそう沢山は入らないだろう。
一口にしては随分少ない量を口に入れては、よく噛んで飲み込む。
少ないくらいに盛ったパスタだったが少女にはそれで十分らしい。
最後まで食べ終えて口元を拭ってから両手を合わせて「ご馳走様でした」と言った。Prev Novel top Next