「…なぁ、何かあったのか?」
「知らない。」
志貴を店まで送り、苛立った様子で扉を開けて出て行った泰河を見送った兄の問いに、志貴は軽く首を振った。
今朝、銀二へ電話をしてからと言うもの泰河の機嫌はすこぶる悪い。
それで扱いが酷くなるとか、冷たくされるとか、そういった類いのことはなかったものの最悪なほど機嫌の悪い泰河に志貴はこてりと首を傾げた。
とりあえず送ってもらえたからと遅めの朝食を食べる。
遠くから聞こえた荒々しいバイクの排気音に、朱鷺はこれから潰されるであろう族へほんの少しの同情を覚えつつグラスを拭った。
マスターは気にした様子もなくブレンドコーヒーをドリップしていた。
「そうだ、志貴。今日は俺が送っていくから。」
「ん。」
最近では送迎のほとんどを泰河が引き受けていたが、恐らく今日は族を潰して気分の高まった不良たちが店で騒ぐだろう。
そうなってしまえばチームのトップである泰河が抜けるわけにはいかない。
彼が酒を飲まないとも限らないので、先にそう告げた朱鷺に志貴はあっさり頷いた。
いつもいるはずの不良が半分以上もいなくなった店内はだいぶ静かで、普段と違うその雰囲気に落ち着かないのか志貴はココアのカップを両手で掴んだままジッと中身を見つめている。
朱鷺にはそれがどこかつまらなさそうに見えた。
元々一人でいることの多かった志貴が泰河と出会ってからは、必ず誰かしらと行動を共にしていた。
時に銀二であったり、時に愁であったり、はたまた幹部の者であったりと色々ではあったものの志貴は嫌がる素振りも見せず遊んだりしていたのだから、だいぶ慣れたのだろう。
だが今日は幹部もいない。いるのは幹部の更に下の幹部補佐数名と今回は留守番役に当たってしまった何人かの不良だけである。
まさしく志貴にとっては久しぶりの一人だった。
グラスを拭いたり、食器を洗ったりする朱鷺をぼんやりとした視線で追っていたが、冷め切ってしまったココアを飲み干すとダーツをやり始める。
一人で何度も矢を投げる姿もどこかつまらなさげだ。
「志貴、眠たそうだし寝てたらどうだ?」
その様子を見かねた朱鷺がそう言えば矢を片手に緩慢な動作で志貴は振り返る。
「起きたら、皆いる?」
「さぁ…でも、多分いるだろ。」
泰河のあの苛立った様子からしてストレス発散のために徹底的に暴れるであろうから、きっとそんなに時間はかからないと思う。
兄の言葉に志貴はしばし逡巡した後、店内の片隅にあるソファーの一角を陣取って横になった。
黒い革のソファーに寝転び、艶のあるそれに視線を落とし、ゆっくりと瞼を閉じた。
「おやすみ。」
朱鷺の穏やかな声を聞きながら志貴は眠りに落ちた。
族を潰し、サボった銀二に一発拳を入れてやるために行きたくもない学校へ向かった泰河は、納得のいかない表情で店に戻って来た。
ちなみに銀二は授業を受けるとそのまま学校に残っている。
授業よりも、喧嘩など楽しいと思うこと以外には全く興味を示さなかった銀二が随分気弱そうな少女と一緒にいる姿を見たせいだろうか。
自分も似たようなものだが、志貴と少女は違う。
不良に怯えたりもしないし嫌がることもない。
あんな気の弱い少女を店に連れて来たいとは一体どういう風の吹き回しだとイライラしながら、泰河は乱暴に店の扉を開けた。
「泰河、静かに。」
入ってすぐに朱鷺にそう声をかけられ、続いて指で示された方へ視線を移せば志貴がソファーの上に丸くなっている。
傍に歩みよって覗き込んで見ると毛布に包まってぐっすりと眠りこけていた。
既に先に戻っていた愁や幹部たちは何時もと違い、あまり騒がず、志貴の様子を気にしながら酒を仰っている。
「一人でつまらなかったみたいでさ、お前らが帰るまで寝てろって言ったんだよ。」
つまらない、という言葉に泰河は一度志貴を見下ろす。
愁が志貴の肩を軽く揺さぶると黒い瞳が眠たげにぼやけたまま瞼の奥から現れる。
泰河を見て毛布からふらりと手を伸ばし、服の裾を掴んだ。
「…おかえり。」
夢と現実の狭間にいるような、ふわふわとしていながらあまり抑揚のない声に泰河は「あぁ。」と返事を返しながら頭を撫でた。
眠たげな黒い瞳はとろとろと瞼の裏に隠れてしまい、すぐに規則正しい寝息が聞こえて来る。
くたりと力の抜けた手が服の裾から離れた。
それに、何とも言えない感情が泰河の胸の内で生まれ出た。
焦燥感のような、掻き毟りたくなるような苦しさと、何年も前に失くしてしまっていたはずの寂しさ。
先ほどまでの苛立ちはどこかへ吹き飛び、自分よりも一回りも小さな志貴の手を泰河は見つめた。
そうして眠る志貴の体を横抱きに抱えてソファーに座り、自身に寄りかからせるように膝の上で横向きにさせる。
触れた部分からじんわりと広がる温かな体温に心穏やかな気持ちになりつつ、そっと柔らかな髪を指で梳く。
……面倒くせぇ。
何で銀二のことで自分は無駄に苛立っているんだ。
アイツの気紛れな行動なんて何時ものことじゃないか、と諦めにも近いことを考えた泰河の口から小さく溜め息が零れ落ちた。Prev Novel top Next