花の名


この世界には無限の色彩が広がっている。
イルミがそう感じるようになったのはつい最近のことだ。

試しの門を通ってから少し歩くと、甘い香りがイルミの鼻腔をくすぐった。
その香りを懐かしいと感じながら道を進むと、
目の前には百花繚乱の美しい光景が広がっていく。

花壇に水をやっていた庭師の少女がイルミに気づいて、
地面に如雨露を置き、駆け寄った。
出迎えのその笑顔に、帰ってきたということを実感させられる。

「おかえりなさいませ、イルミさま!」
「ただいま、ティア」

あどけない少女が庭師として雇われてから、
暗殺一家の敷地に色彩が増えるようになるまでに時間はかからなかった。

ティアは、本来の仕事である植木の手入れなどを終わらせると、
自主的に至る所に花壇を作り、さまざまな種を蒔いた。
それらはやがて芽吹き、蕾が膨らんで花を咲かせ、実を結んだ。
そんなふうに季節はめぐって庭には色彩が溢れるようになった。
幾多に鮮やかに織り成されていく様は見事としか言いようがなかった。

血塗られた暗殺一家に似つかない、穏やかで優しい光景だ。
いつくしむような柔らかな笑顔で花束を抱くような無垢な少女。
華やか、というのは違う。ゾルディック家に雇われる庭師として、大木の枝を当たり前にひとりで剪定する。
けれど、小ぎれいな服装をしているわけでなくとも、イルミから見れば華奢な身体つきのせいで可憐さが際立つ。
淡い色の花びらが肩に載っている。そんな、花に囲まれた姿の似合う少女だ。

「おみやげ」
「え、わたしに、ですか?」

イルミが差し出した袋を、ティアはためらいがちに見つめた。
彼は仕事帰りのはずだ。おみやげといっても、一体何を? と、疑問は尽きない。
使用人が主から何かもらうなんて! という謙遜の気持ちもある。
けれど、いらないの?と聞かれると、いらないわけがなく、ためらいがちにもありがたく受け取ったのだった。
一言断ってから、おずおずと中身を確認したティアは、ぱあっと顔を明るくした。

「これって宝石花の種、ですか?」
「うん。たまたま知り合いの店で入荷したって聞いたから」
「うわああっ! ありがとうございます!!
それもこんなにたくさん…すごいっ本当にいいんですか?」

宝石花は栽培が難しく、希少で、種子にもかなりの値打ちがある。
入手方法にも制限があるし、それを、小袋いっぱいにというのは、
少なくともティアの給料単位では絶対に叶わないことだった。

「前に育ててみたいって言ってたでしょ?」
「覚えててくださったんですね。
ほんとうに、なんてお礼を言ったらいいのか……ああ、どうしましょう、
わたしにできるお礼が浮かびません」
「いいよ。そんなのは」

実際、イルミにとってはそう高い買い物ではなかった。
裏ルートで取引することにも慣れているのだ。
種はまた綺麗な花を咲かせるのだろう。
彼女は花園の中でどんな花よりも無垢に笑うだろう。

「そういうわけにはいきません。
わたしにできることならなんでも……といっても、
できることというのは植物の世話とかそれくらいなんですが」
「じゃあ、花を咲かせて」

イルミは無表情のまま即答した。
どこまでも花で溢れる庭を見たい、と思った。
彼女が生きて、このままいつまでも花を生み出し続けてくれれば、
数十年後にはきっとこの世とは思えないほどの絶景が出来上がるのだろう。
次にはどんな花が咲くのかと、明日が楽しみになったのもティアと出会ってからだった。
少女は笑顔で答えた。

「承りました」

強風が吹いて、花吹雪が心を洗い去っていった。

「そうだ、イルミさまがお留守の間にまた花を増やしたんです。
お部屋の前の花壇、明日の朝起きたらぜひ窓から見てみてください」
「うん、わかった」
「それから部屋の花瓶にも新しく飾っておきます」

うん、とイルミはもう一度頷いた。
ティアはそうやってイルミの視界に優しい色彩を増やす。
イルミの手は容易く無感動に残虐に人の命を奪うものだが、
血と闇ばかり見慣れていたイルミの前で、
少女は無限の色彩をその手で生み出してみせた。

「ティア」

名前を呼ぶ。その頭に手を載せる。
髪を撫でると、戸惑った声が聞こえた。
作業のせいで土で汚れているからか、使用人だからか、
普段ティアからイルミに触れてくることはない。
そのままの格好では屋敷に入ることが許されないほどの身分なのだ。
そして、イルミからもめったに触れるわけではない。

血の染み付いた手で穢れなければいいけど、と思った。
戸惑っていても、抵抗も嫌そうな素振りも見せずに顔を赤らめるティアに満足してから、
イルミは手を離して、付け加えるように言った。

「他に欲しい物とかある?」
「いいえ。もう十年分くらいの幸せをいただきました」
「じゃあ殺してほしい奴でもいいや、五人までタダにしてあげる」

イルミがさらりと申し出ると、ティアは軽く目を瞠った。
殺戮という物騒さに息を呑んだのではなくて、その申し出がとんでもない価値だとわかっていたのだ。
彼らの手による暗殺といえば億単位の仕事である。
一介の下働きへの施しにしては桁が違いすぎていた。

「そんな! わたしのためにイルミ様の手を煩わせるだなんて……!」
「いらないの?」
「わたしはこの家で庭仕事をさせてもらえれば幸せなんです。
殆どこの敷地内で過ごしていますから、外部に興味はありません」
「別に今じゃなくてもいいよ。誰か邪魔になったら言って」
「……わかりました」

そんな申し出をしておきながらイルミには、
この少女が誰かを殺したいほど憎むところが想像できなかった。
人が憎悪に塗れた生物だと知っているのに、ティアだけは例外だった。
土に塗れて、肥料を運んで、種を植えて、水をやって、
そんな生活に至上の喜びを感じているような少女なのだ。
花に囲まれていれば、それでいいという少女なのだ。

では、なぜこんなことを言ったのだろう。
わたしには花を咲かせることしかできないから、とティアは言う。
だったら、イルミには人を殺すことしかできない、とでも言おうか。
闇に育てられた瞳で、どうしたらこの花のような少女に健やかに生きてもらえるだろうか、と、
いつも考えているのだ。



――ティアは思う。

あなたの氷を解かせることが何よりも嬉しいのだ、と。
そのために、彩りが視界に入るように、花を咲かせるのだ、と。

視界は、あなたへの思いで溢れている。


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