《転》三年、梅雨


並木君は成績が良い。試験があったって心配することないのだ。
どうしてもっと上の学校を目指さなかったんだろうと思うくらい。
地元を選んだのは一年間の昼食を確保するためだったんだろうか。

一方、私は平々凡々な成績だ。苦手な科目ならば危ないこともある。
それで、追試を食らってしまった。
課題のプリントを渡されたはいいけど、まったくわからない。
相談すると、先生はあっさりと「並木に見てもらったらどうだ」と言った。
それは名案……かもしれなかったが、そんなことを頼めるはずはない。
けれど、先生は私を無視して話を進めてしまったのだった。

結果、夕方の研究室で並木君と二人きりのマンツーマン指導である。
緊張と申し訳なさと恥ずかしさが入り混じって私は謝るしかなかった。

「ほんっとうにごめんね!」
「いいから、早く問題解けよ」
「うん、はい。ごめんなさい。なんでも奢ります」

肩身の狭い思いをしていると、並木君はくっくっと笑った。
私はそんな姿にさえ見惚れてしまった。
窓の外は土砂降りだ。

「いいんだよ、どうせ暇なんだから」
「うーん。でもやっぱり悪いよ。絶対お礼するからね?」
「あ、そこ違う」
「えっ嘘」

指摘された部分を見てみると、単純なミスをしていた。

「そんなんで大丈夫か?」
「だ、ダメかもしれない……」

正直に呟くと、並木君はおかしそうに笑ったから、私は恨めしく視線を向けた。
悪い悪いと口先で言いながら、意地悪そうな笑みを隠せていない。

「ちゃんと説明してやるから」
「お願いね?」
「心配しなくても、俺が教えたとこは絶対出ると思えよ」

そして並木君は何気なく、私の頭にぽんと掌を乗せた。
小さい子にやるような、あまりにも自然な動作で、反応が遅れた。
けれど私が顔を紅潮させる前に、並木君は驚いたようにガタン!と椅子を鳴らして立ち上がった。

「え、何。どうしたの?」
「そんな……嘘だろ?」

私の疑問に答えている余裕もないようで、乱暴に私の手を掴んだ。
甘い展開なんかではない。彼は顔面蒼白で、泣きそうだった。
どうしてそんな顔をしているのかわからなかった。
並木君は、震える自分の両手で私の両手を包んで、祈るようにきゅっと目を閉じた。
私は呆気に取られて何も言えなかった。

「お前んちって、ここからどれくらい?」

しばらくすると並木君は私の手を握ったまま質問してきた。
その目は懇願するように必死で、意味はわからなかったけど、絶対に無視なんてできなかった。

「歩いて40分くらいだけど……」
「場所は?」

問われるままに私は住所を教えた。
こんなに緊迫した口調でなければ、余計な期待をしていたに違いないのに。

「今日は何時くらいに帰る?」
「夜になるまでには……」

並木君の協力のおかげで、課題は比較的順調に進んでいた。
うまくいけば、あと一時間くらいで終わるんじゃないだろうか。
もちろん他に重要なポイントなどがあればご教授願いたい。

「雨が止むまで帰るな!」

青ざめたまま鋭い瞳の強い剣幕で怒鳴られて、私は気圧されていた。
私の怯えのようなものを感じ取ったのか、並木君は少し声を和らげた。

「――電話してくる」

どこに、と聞ける雰囲気ではなかった。
けれど私は見た。ドアから出て行く直前、彼が押したのは110番だった。

「何? なんなのっ!?」

残された私はただ混乱するだけだ。泣きそうだった。
並木君が怒鳴っているところなんて初めて見た。
きれいな顔の人ほど怒ると迫力があるって本当だったんだ。
わけがわからなくて、怖かった。

並木君が戻ってくると、私は一番に事情を聞いた。
けれど、並木君はなぜか切羽詰った様子のまま両手を合わせた。

「頼む。今は何も聞かないで言うこと聞いてくれ!」
「どうして並木君が頼むの? そりゃあ、ちゃんと事情を教えてくれれば協力できるけど」
「今日が終われば、何をしてもいい。なんでもする。だから!」

私はわからなくなるばかりだった。
いつも余裕があって、自信に満ちた神秘的なほどかっこいい男の子というのが並木君の印象だった。
それが、どうしてこんなにも取り乱しているのだろう。こんなにも弱弱しい目をしているのだろう。
並木君に『なんでもする』と云わしめる価値や要因が私にあるとは思えなかった。
重い音を立てて雨は降りしきっていて、いつまでも止むとは思えない。
夜中まで降り続いたって不思議ではなかった。

それでも、並木君の懇願は続いた。
私はこれ以上彼を傷つけたくなくて、ついに頷いた。
そのときの並木君の安堵の顔を私は一生忘れないだろう。
彼については忘れられないことが多い。


それから、雨の音をBGMにして、何事もなかったかのように勉強会は続いた。
並木君の指導はそれまで以上に丁寧だ。有意義な時間だったと言える。
夜の九時半ころになるとついに空も泣き飽きたらしくて、雨も弱まった。
勉強にもきりがついて、そろそろ心配な時間になってきたので、並木君も観念して、家まで送る、と言ってくれた。
当然、嬉しかった。
遠いし、並木君の家の方向がわからないから本来なら申し訳ないと思うところだけど、
事情を教えてくれないのは並木君なのだから私は素直に幸運だと思えた。二つの傘を並べて歩いた。

自宅に近づくにつれて、私は様子がおかしいことに気づいた。
何台ものパトカーが出入りしているのだ。
そして、私の自宅の前にも止まっていた。

恐る恐る事情を聞くと、曰く、この周辺に包丁を持った男が潜んでいたらしい。
そして男の供述では此処の家主――つまり私を殺すつもりだった、と。
私は戦慄した。
自分が殺されていたかもしれない、ということだけではない。
並木君にはわかっていたのだ。
一連の行動に、辻褄が合ってしまった。

並木君を振り返ると、気まずそうな彼と目が合った。

「――なんで?」

震えた唇からは、その一言だけが零れ落ちた。
思考はぐちゃぐちゃと巡って、逆に真っ白になる。

血の気が引いた顔をしていたであろう私に、並木君は心配そうに手を伸べた。
私は、その手が急に得体の知れないもののように感じて、振り払ってしまった。
はっと我に返って、並木君を見た。
並木君はさっきと同じ、傷ついた捨て犬のような弱弱しい瞳をしていた。
それから、諦めたように苦笑いをした。

「無事でよかった」

それだけ言って去っていく背中を見送りながら、私は動けなかった。
それ以来、二度と並木君と目が合うことはなかった。



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