足に激痛が走ると同時に、眩しい世界に目がくらんだ。
天井を見上げると――そこに天井はなく、どこまでも青い空が広がっていた。
左右は森林、足元は舗装されていない山道。
まぎれもなく野外だ。しかもわたしの家の近隣ではない。
煌びやかな衣装をまとっていなければ、物事の因果関係を忘れてしまいそうだった。
立ち上がろうとすると、案の定、足が痛んで動けなかった。
捻挫してしまったらしい。怪我がそれだけというのも不自然な話だが……。
とにかく、歩くのは無理だ。
どうしよう、誰かが此処を通るのを待ってみようか。
這いつくばって進むことも考えなくはないけど、この道は人が通る可能性が高い。
地面はかなり歩き固められているし、足跡も残っている。
誰か通れば、衣装が目立つから声をかけてくれるだろう。
事情を説明して警察に保護してもらおう。
出られる見込みのない暗闇に閉じ込められたことを思えば、状況は最悪ではない。
あの部屋なら十日間見けられない可能性もあったが、ここなら今日か明日には見けられるだろう。
『時空の間』で起こった奇跡……。
着物に皺を作らないように、かつ足が楽なように座りなおした。幸い気候は厳しくない。
退屈なことに代わりはないから、目は瞑ってしまう。でも、忍耐力には自信がある。
風の音、鳥の声、水の流れ。どこかに川があるわ。
しばらくすると複数の気配が近づいてくるのがわかり、やがてわたしの元へ駆けてきた。
「お嬢さん、こんなところでなにをしているんです?」
呼びかけは努めて丁寧を装ったらしいが、その笑みは下卑ていた。
座っているわたしの周囲を五人でぐるりと囲む態度は褒められたものではない。
途絶えない笑い声は嫌な過去を彷彿させ、嫌悪の対象だった。
よりにもよってこんな危ない輩に見けられてしまった。
この真昼間から、質の悪いナンパだ。
けれど、そんな彼らには違和感がある。
まず、わたしが着物でいるということを疑問に思わないことがおかしい。
彼ら自身も和装――それも、かなり粗末な服を着ている。足元には下駄。腰には刀。
まったくもって現代的でないどころか、時代的な貧しさとそれによる狂気を感じさせた。
「ちょうどよかった、電話を貸していただけませんか」
彼らは気味が悪かったが、怯えを出さないようにして尋ねた。
下手に刺激することはない。
「デンワ? なんだ、それは」
「そんなことより、金目の物を出してもらおうか」
「残念ながら財布は持ち合わせていません」
ぴしゃりと断ったが、電話という単語が通じないことに驚きを隠せなかった。
それに、これでは山賊じゃないか。現代の日本にまだそんなものが存在していたのか。
それとも電話が無く、洋服も普及していない時代と考えたほうがいいのだろうか。
『時空の間』はわたしをどれだけ遠くまで追いやってくれたのだろう。タイムスリップってやつだろうか。
急に野外に出てしまったことは、言い伝えを信じなければ説明できない。いったいどれくらい前の時代だろう。
機械音痴で流行音痴のわたしにはお似合いだとてもいうのだろうか。
たしかに古い慣習の蔓延る家で、テレビはNHKだけだったし、
携帯電話は本来の目的でしか使ったことがない。
芸能人の話も、J-POPの話も、マンガやドラマの話もわからないから、学校で会話に花が咲いたことはない。
いくら名門の女子校と言ったって、普通の生徒はわたしほど特殊じゃないのだ。
高嶺の花を演じるのも疲れるというものだった。
そう。
たしかに現実は嫌いだった。
例の“汝の望む時空”とやらだとしたら、辻褄が合わなくもない。
けれど、いつわたしがこんなものを望んだというのか。
「そんな上等な格好をして何言ってるんだ。身ぐるみ全部置いていってもらおうか」
「その着物、売り払えば大金に化けるに違いねえ」
「もちろんあんた自身もいただくぜ。こんな美しい女は初めて見るなァ」
ふたたび響く下卑た笑い声に、肌が粟立った。
逃げなくてはいけないが、走って逃げるのは無理だ。
護身術も教わっているので少しは動けるが、座ったままではしかたない。
簪は暗器になるが、突き刺して動きを止められるのは一人までだろう。
では手段は一つ。
弱みを見せる猶予は片時もない。
息を吸い込んで、声に覇気を乗せる。
「無礼者っ! わたくしを誰と心得るか」
残された武器はわたし自身だけ。
自分を最大限に利用するには、まず客観的に見ることだ。
今日の晴れの舞台のために整えられた装い。
着物は、それだけで一千万は下らない。どこぞの姫が着ていてもおかしくない代物なのだ。
遊女などという可能性を捨てれば、わたしはとんでもなく高貴な存在に見えることだろう。
そしてそれが、手を出してはいけないほどだと思わせなくてはいけない。
この男たちに権力を畏れる心がなければわたしが負ける。
礼儀作法は完璧なつもりである。
姫とまではいかなくても、お嬢様と呼ばれるだけの良家に育ったのだ。
時代が時代なら嘘も本当だったかもしれない。
なんのために徹底した淑女に育てられたと思っているんだ。
現に、たった一言で男たちは怯んだ。
わたしを見た瞬間から頭のどこかでその可能性を考えてはいたのだろう。
「ま、まさかどこぞのお姫様でございますか」
「いかにも、遠く東の方、陸奥国が姫であるぞ」
舞につかうはずだった扇子を男の一人に向けて格好をつける。
はったりを利かすには今のわたしの装いはこの上なく有利だ。化粧も濃い目である。
傲慢に高らかな声を響かせ、男たちを見下す。
彼らに東北の訛りが見受けられなかったので、陸奥と名乗った。
少なくともここは陸奥ではない。足がつかないためには少しでも遠いほうがいい。
これより先はわたしの演技次第。決して目を逸らしはしない。
「な、なぜ陸奥のお姫様がお供も連れずこんなところに」
「ならず者を仕留めにやっただけじゃ、いずれ帰ってくる。
おぬしら、今すぐに立ち去らねば、打ち首にしてくれよう!」
「ひぃっ」
そのとき扇子を向けた一人の男は見事に腰を抜かしてくれた。
わたしの睨みの迫力も捨てたものじゃないわ。
しかし、別の男が彼を叱咤する。
「な……情けねえ声を出すんじゃねえ!」
「そうだ、いくら陸奥の姫様と言っても、今はお供がいない身。
お供が帰ってきたところでそう人数がいるはずもねえ。大勢いるなら一人は残すはずだろうが!」
「そう、これはむしろ好都合だ。人質にしてたっぷり金を頂こう」
冷静な者いたことに、ちっと内心で舌打ちをした。即席の作戦の穴を突かれてしまったというわけだ。
けれども『身ぐるみ剥がされて犯される』から、『人質にされる』に昇格したのは成功と言えよう。
姫だと思い込ませておけば少しは丁重に扱われるだろうし、時間的猶予が生まれたと言える。
見張りが一人になる機会を狙って簪を突き刺して逃げるのが理想的だ。
演技のぼろを見せはしない。普段と比べて、演じる役柄が少し変わっただけだ。
でも、仮に逃げられたとして、それからどうしようか。
ここが陸奥の姫という役柄の通じる時代ならば、わたしには知り合いもいない。
ひとりで生きていくにしても、水仕事も畑仕事も体験のない身だ。
花嫁修業と嗜みで料理はできるが、他にできることと言ったら礼儀作法や芸道くらい。
特技を生かすには身を売るか、どこぞの若様に見初められるしかないだろう。
できれば城の前にでも行き倒れて、後者に賭けるか……。
ちなみに、欲望と慣習の渦巻く旧家にも、たった二度会っただけの婚約者にも未練はない。
お礼や別れの挨拶をしたい人がいないわけではないが、それだけである。
とにかくここからは引いて、けれど傲慢さは隠さず、身分を疑わせない演技に移る。
声を少し震わせて、気丈に努めているふうを装う。ただし加虐心を刺激しない程度だ。
「わ、わたくしを人質に!?」
「そうだ。そうすりゃ俺たちは一生遊んで暮らせる」
「馬鹿な! その前に打ち首だと言っているでしょう!?」
わたしの愚かな発言に、また下卑た笑い声が響く。
捕まえなくては打ち首にはできない。現段階で命を握られているのはわたしのほうだ。
そんなことはわかっている。優越感に浸って油断してくれればいい。ああ、嫌だ嫌だ……。
こんな奴らとしばらく一緒にいなくてはいけないのか。
背後から刀が首に突きつけられる。
美しく複雑にまとめられていたおかげで、髪を掴まれるようなことはなかった。
怯えたふりをする。肩に置かれる手のせいで震えたのは演技ではない。
ただ、正確な原因は恐怖感ではなくて嫌悪感だ。せっかくの着物が汚れる。
「さあ、立ってもらおうか」
「足を痛めていて立てないわ。駕籠を持ってきなさい」
「駕籠で人質を運ぶ山賊がどこにいるん」
馬鹿で世間知らずなお姫様の演出に決まっているでしょう、
でも実際に歩くことは無理なのよ、と思ったそのとき、
「その人を離せ!」
高らかに響いたその声は、絶望の未来を吹き飛ばしてしまったように思う。
見れば、深緑色の忍装束を着た 茶色い髪の少年が男たちを見据えて立っていた。