4-2. どうしたら良かったんだろう。


陽が昇り、沈んでいくのをベッドの上からぼんやりと眺めていた。
本を開く気もしない、こういうのを無気力っていうんだろう。
吐きそうなほど泣いたから、疲れて嗚咽は引いていく。
静寂は、音を失っただけで、涙腺は緩んだまま枯れる気配もない。
『真珠』と名前を呼ばれる幻聴が記憶の近くで響く。
無意味に天井を仰いで、手を翳すと、何故か涙が頬を伝う。そんなふうに時間が過ぎた。

長い夢から醒めた気分だった。
なのに、二日酔いの真っ只中のように頭痛がやまない。
胸が重くて、文章が目に入ることさえ酷だと感じる。
本を読みたくないと感じる日が私に来るとは思わなかった。

塞ぎこんで、どれくらいのときを過ごしただろう。
ああ、まだ一週間も経たないかな?
不思議だ。この世界に来てからの数年はあっという間だったのに、
今はほんの数日が悠久のように長くて苦痛だ。
まるで時が止まってしまったみたい。

食欲が湧かなくて、食物を口にした記憶がない。
不思議なことに、それでも何も変わらなかった。
相変わらず生きていて、意識があって、呼吸をしている。
もともと衣食住には無関心なほうだったけど、空腹を感じないのはそんなんじゃない。
私の身体は、一日経つと元の状態に戻っているのだと気づいた。

成長が止まっているのはとっくに自覚していたけれど、それだけじゃなかったんだね。
初めて知った。知らないままでいればよかった。
私の無限ループ。もしかしたら、螺旋のようにわずかだけ進んでいるのかもしれないけど、そんな誤差は慰めにならない。
不老の魔法をかけられた状態ずっと続くわけがない、と確信できた。
シンデレラみたいにいつか12時の鐘がなるんでしょう。

でもその前に、今なら、抜け出せなかったメビウスの輪から落ちてしまった今なら、
帰ってもいい――帰るなら今がいい、と思えた。
すべてが壊れてしまった今ならば。
今更願うなんて、都合がよすぎるって自分でもわかっている。

つなぎとめたかっただけなのに、最終的に私が取った行動は酷いものだった。
突き放して、「最悪」だと罵った。平手でクロロの頬を打って、帰れと命じた。
彼の好意を最大限に拒絶した。どんな気持ちがしただろう。
どれだけ傷つけただろう。伸ばされた手を振り払うことしかできなかった。

終わった。終わらされてしまった。
終わってしまった。終わらせてしまった。
きっとどれも正解だ。

どうしたら良かったんだろう。
それとももっと素直になっていれば、幸せな未来があったんだろうか。

『すべてを明かさなくていい。
ただ、たまに立ち寄って滞在して会話するような関係がいいのに』
そう思っていた。そんなのは虚構でしかなかったのに。
近づきすぎることが禁忌だと思っても、あんなに傍にいた。磁石のように惹かれあった。
いつか来るとわかっていた瞬間が来ただけのことだった。壁は脆く崩れ去った。

「クロロ……」

唇に触れると、まだその温度を思い出せた。
口移しで伝えられた熱い思いが、体内に宿っている。
泣きたくなるほど嬉しかったのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。

『もう帰りたい』と願う。
同時に、今だからこそ帰れる気がしなかった。
運命さえも、止まってしまったような、そんな気がした。
私が傷つけた現実から逃げることはできないのだ。
どれだけ堕落したところで世界を飛び越えるような、あの奇跡は簡単には起こらない。

――いつまでこうしていられるだろうか。
と、現実的な問題がもう一つ舞い降りる。
マンションの名義はクロロで、いつ出ていけといわれるかわからない。
本当は今すぐにでも出て行かなきゃいけないくらいだ。

本当に私はすべて終わらせてしまうつもりなんだろうか?

無条件に与えられる幸せだけを甘受して、自己満足で愛して、思わせぶりな態度を取って、
不変を願って、そして傷つけて、傷つけたことさえ謝らずに、このまま彼の前から消えるつもりだろうか。
それが嫌で、今も部屋に縋りついているのに。

このままぼーっとしていたら、全部元通りになってくれないかなあと、馬鹿みたいに願う。
このまま待っていたら、いつもみたいに二週間くらいで何事もなかったみたいにクロロがまた訪ねてくれないかなあ。

そんなことはないってわかってる。
それどころか、「帰って」と言って帰られたきり、もう二度と来てくれないかもしれない。
何週間しても、何ヶ月しても、いくら待っても二度と。
そうしたら私はこのまま何ヶ月も何年も、こうやって悠久を生きながらえて、馬鹿みたいに待つのかなあ。

「クロロが帰っちゃうからいけないんだ……」

八つ当たりだけど、ちょっとくらいはクロロを責めさせてもほしい。
彼のせいだけにしたくないけど、私だけのせいっていうのも納得いかない。
だって二人の問題でしょう。

あのときは心の中ぐちゃぐちゃで、冷静になれなくて、帰ってしか言えなかったけど、
正直、本当にあっさりと帰っちゃうとは思わなかったんだよ。
思ってなかったくせに、喚いていたのは、甘えていたのかもしれない。
だってクロロって普段なんでも言うこと聞くほど素直な男じゃないでしょう。
人の唇を奪っておいて、あっさり帰ることないでしょう!?
本当に帰ってしまったら、終わりみたいじゃない。終わらせてしまうの?
そりゃあ、拒絶したのも傷つけたのも私だけど!

……あのとき、きっとクロロはクロロで動揺していたんだろうな。
少し意外だ。クロロって私の前ではわりと冷静で、かっこつけたがってたから。

唇が離れたとき、あれは絶対にしてやったりって顔だった。
クロロも私の好意を薄々感じ取っていたんだろう。
それを裏切ったら、内心穏やかじゃないよね。
そもそもキスしたのだって衝動的な行動だったみたいだったし。

そうじゃなきゃ、何年も続いた均衡をあのタイミングで崩すだろうか。
なんの変哲もない日常の一部だったのに、好機に見えてしまったのかな。
壊したくなるほど強い思いが、ずっと彼に根付いていたんだろうか。

「クロロって、もっと女に余裕持ってそうなのになあ」

彼の好意はいつからだろう。
最初、クロロの私への思いは、いつも宝石や絵画に抱くのと同じ、単なる興味だったはずだ。
読書しか能のない私と、希少な本と、どちらのほうがクロロにとって価値が大きかったんだろう。

ずっと、その兆しはあった。私も薄々感づいていた。
『緋の目』なんて象徴的な事件だった。
彼は何年も、『壁』を叩き続けていたんだろうか。

「それとも、幻影旅団の団長をこんなに悩ますなんて、私がとんだ悪女なのかな」

一人だと独り言が多くなるらしい。
ふふふ、と力なく声を上げて笑ってから虚しくなって、目を覆う。

「あー……」

このままじゃいられない。方針を決めなくてはいけない。
いくら待っても絶望が続くだけかもしれないならなら、つなぎとめたいなら、『何か』しなくてはいけない。
壊した私が動き出さなくてはいけない。拒絶した私が、歩み寄らなくてはいけない。

だって、こんなにも会いたい。
あいたい。

壊したくないって思ったのはクロロの隣が居心地よかったからで、
壊れてしまうくらいならそのままでいいって思ったのはクロロが大切だからで、
壊れてしまった今こんなにも悲しくていとしいのはクロロが好きだからだ。


それでようやく、私は部屋の隅の電話に目をやった。
思い起こせば私から連絡したことってただの一度もなかった。
クロロの真実に触れたくなかったから、いつでも待っているだけだった。
この電話はせいぜい二週間に一度、クロロと繋がるために設置してあるってことだ。
そう考えると笑みが零れた。

信じよう。
なにかわかんないけど、たとえばクロロを。たとえば、私たちが過ごした月日を。思い出を。運命を。
独りよがりで悩むくらいなら、少しでも分け合えたらよかった。

おもむろにリダイヤルを押す。
何を言えばいいのか思いつかないけど、どうにかなるかもしれない。
コールが鳴るまでの刹那がひどく長く感じた。
いち、に、さん、し、ご………
もうこのまま永遠に鳴り続けていればいいよ、と思った瞬間、つながった。

「真珠?」

名前を呼ばれただけで感極まって、声が出なかった。
――まだつながった、と。

黙っている私に、クロロはもう一度名前を呼んだ。
クロロだって何を言っていいかわからないんだ。
それでもつながっている。私はやっぱり甘えているのかな。

気まずい沈黙があったけれど、それでも通話が切られないことに私は大きな安心を覚えた。

「クロロ」

ああ、かすれて酷い声だ。
せっかく重い口を開いたっていうのに。

「いま、どこにいるの?」
「どこって……」

そんなこと私は今まで一度も聞いたことなかったよね。
ただ前置きに何を言っていいかわかんないだけなんだよ。
もしかして仕事中だったり、大陸が違ったりするのかな。

「言えないなら、いいや」
「あ、ああ」
「うまくいえないけど、クロロ、謝らないでね」

謝られたりなんかしたら本当に終わってしまう。
その話題に触れると、クロロが反射的に身構える気配を感じ取った。
代わりに、私が謝る。傷つけてごめんなさい。

「いろいろ……ごめんね」
「真珠?」

ダメ、これじゃあ別れの台詞みたいじゃないか。
もっと違う言い方をしなきゃ。終わることを考えればもっと素直になれるはずだ。

「クロロ、もう来ないの?」

かすれたまま、びっくりするほど甘えた声が出た。
呼び止める最後のチャンスに、縋るような思いだった。
帰れって言ったのは私なのにね。クロロの沈黙が怖い。

「来て、ほしいのか?」
「……うん」

勇気を出して頷いた。
すると、 「すぐ行く」と即答される。

「ええ!?」
「今すぐ行くから」

聞き間違いじゃないってことがわかっても、私は狼狽えるだけだった。

「今すぐって、いつ?」
「一時間、いや、三十分以内だ」
「うそ。まだ市内にいたの? ホテル?」
「……悪いか?」

開き直るような台詞を、少しだけ微笑ましく思った。
いつもの自分の調子を取り戻す。

「そんなにすぐ来られても困るよ。身だしなみとか、支度あるし」
「出かけるわけじゃないんだ。いつものことだろう」
「今はいろいろとあるの!」

気まずいことがあった後だからこそ、気を使う。
身体に変化がないことに甘えて、堕落した生活を何日も続けていた。
……最低限、シャワーを浴びたりはしていたけどね。もう一回浴びよう。
人に戻るためには何か口に入れなきゃいけない気がする。
今着ている服も、髪もテキトー極まりない。

「じゃあゆっくり行って、部屋の前で待ってる」
「何時間も?」
「何時間でも」
「いいよ、そんなの。……大丈夫になったらまた電話するから」
「待ってる」

そうして、通話が切れた。
私はその内容にしばらく放心してから、早くしなきゃ!と思って、立ち上がった。


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