4-1. どうして と。


最近、恋愛小説がマイブームになっている。
純粋な物語が思いのほか胸に響くのは、
重く暗い本ばかり読んでいた反動なのかもしれない。

昔から物語の一種として、もちろん嫌いではなかったけれど、
かつてと比べて、少し感じ方が変わったと思う。
胸を打たれ、切なくなる。感情が揺さぶられ、文章に呼応して熱いものがこみ上げる。
それを共感と呼べばいいのだろうか。
共感するべき体験が私にあるとは思わないのに。

ソファに寝転がりながらハードカバーのページを捲る。
やさしいハッピーエンドに、溜め息をもらした。
かつての私なら、恋人の腕の中で幸せな小説のヒロインに「よかったね」と呟くところなのに、
毀れた言葉は「うらやましいなあ」だった。

結ばれることが、というよりも、誰かをまっすぐに愛せることが、羨ましいと思った。
それはまるで私がクロロを想っているという象徴みたいで嫌になる。
無意識の願望ほど怖いものはない。けれど認めるしかなかった。
想いは、もう誤魔化しようのないところまできてしまった。

私が必死で閉じ込めていた想いは、鍵の在り処が知れてしまった。
もういつでも簡単に開けることが出来てしまう。
そのきっかけを作ったのはシャルのせいでもある。
シャルに胸の内を暴かれてから、私は自分を誤魔化すことが出来なくなった。
だから認めよう。認めた上で、どうやって繋ぎとめたらいい?

へたに自覚してしまったせいで、焦燥感と不安感ばかりが募る。
運命の扱いを決められずにいる。このままじゃいられないならどうすればいいの。
理性と感情が相反していて、どちらに従えばいいのかわからない。

たとえば、触れたい。手を伸ばしたい。手を繋ぎたい。視線を合わせたい。
名前を呼びたい。呼ばれたい。もっとずっとセクシャルな欲求が積み重なっている。
自覚して、素直な心に耳を傾けるってそういうことだ。
率直な感情は、思った以上にドロドロしている。

砂時計が動き出した以上、いつか終わりがやってくるのだと思い込んでいた。
でも、根拠はない。明確な未来なんてわからない。
私が守ろうとしているのは形のないものだ。
確信できないくせに、そうだったら嫌だと思うから、動けない。

現状を維持したいのなら、余計な波風を立てないに越したことはない。けれど今となってはそれも難しい。
わからなくなる。
隠し通すことが私にとって本当に幸せなのかどうか。
でも、運命は私の手に委ねられていて、自分で決めるしかない。
相談に乗ってくれそうな人はいる。けれど、語れない。きっと誰にも理解できない。
いつか帰らなきゃいけないとか、終わってしまうとか。私にとって今がどんなに尊いかなんて。

どうして、と思う。
こんなに傍にいるのに、どうして と。

人はどうしてこんなに貪欲なんだろう。
運命に与えられた幸せの枠におさまっていることができないなんて苦しいだけだ。
いつまでも私は読書だけに没頭していたかったよ。


クロロは相変わらず不規則に訪れる。
そんな彼を密かに待ち望んでいる私がいた。
それを悟らせないように、普段どおりを装うのにはなかなか骨が折れる。
いくら得意だからって、素人のポーカーフェイスには限界がある。
よそよそしくなってしまうのを誤魔化すようにページを捲る。
私たちは同じ部屋に座ってそれぞれが読書している時間が一番長い。
物語の世界に引き込まれてしまえば楽だけど、たまに気が逸れてクロロのほうに意識が向いたりする。

私が読む本は、自分で選んだ本とクロロの選んだ本が半々で、クロロの読む本も同様だ。
つまりは私が恋愛小説ばかり読んでいると、その後にクロロも読むことになる。
いつものように貸す本の山を作っていると、なんだか落ち着かない気持ちになった。

好きな本を教えあうっていうのは相手を理解することに繋がる。
本を介して心を伝え合っている。
読書を共有している私たちだからこそ、相手の趣味に敏感になる。
相手の変化に気づかないはずがないのだ。
クロロが私に暗い傾向の本を読ませ始めたころを思い出してほしい。
理解されては困るっていうのに、本に関して嘘はつけない。

甘ったるい、ときには切ない文章を読み漁って、押し付けるのは、
まるで私の気持ちに気づいてほしいみたいな、沈黙のサイン。
気づいて、気づかないでと矛盾した思いが私の中にある。
気づかれるかもしれない、という不安が付きまとう。

今クロロが読んでいるのはこの前私が薦めた恋愛小説だ。
クロロは意外にロマンチストだから、この手のものも面白ければ読む。
あれはラストが感動的なんだ。情熱的なキスシーンで終わる。
長い物語の終焉を、クロロはどんなふうに感じるだろうか。なんて言うだろうか。語らいたい。
それは単に読書好き、読書仲間としての興味が大きかったと言える。
何気なく様子を窺って、そろそろ読み終わるというところで、立ち上がって飲み物を取りに行った。
戻ってくるのと、クロロが本を閉じるのはほぼ同時だった。
テーブルの上にアイスティーを置いて隣に座った。

「真珠」

すると名前を呼ばれた。
その声が、なぜだかクロロが真剣な顔をしていたので、首を傾げる。
どこか眼差しが熱っぽくて、私は思わず目を逸らしたくなった。
どうしたのクロロ、と、繕うように口を開こうとすると、腕を引かれた。

気づいたときには唇が重なっていた。




まず、なにが起こっているのかわからなかった。
思考さえも硬直していた。
そうしている間に一度離れて、また重なった。
それでよくやくキスされてるということだけ認識した。
なんで。どうしてこんなことになっているのかっていうのはまったくもって不明だ。

生理的な拒絶は沸きあがってこなかった。
正直に言えば、嫌ではなかったということだ。
しばらく、理性が追いつかなかった。
舌を絡めとられ、生ぬるく、ねっとりとして巧みなそれに、夢心地で酔いしれていたと言ってもいい。
だって、私はクロロのことが好きなんだ。こんなにも好きだったんだ。
ずっと心の底で望んでいた。
淡い悦びに包まれて、このまま身を委ねてしまってもいいとさえ思った。

――ああ、私が何年間も必死で守ろうとしてきたものが壊れる。

遅れながらも、我に返ることが出来たのは一種の奇跡だった。
それが私にとって幸福な奇跡かどうかはわからない。
そのとき、走馬灯のように様々なことが脳裏をよぎった。

とにかくなけなしの自尊心を総動員して、突き飛ばすようにしてクロロから離れた。
足りなかった酸素を吸い込み、現実感が戻る。
私を解放したクロロは、心なしか、満足げな表情だった。
それを見て、いとしさとか、にくたらしさとか、いろんなものが入り混じった。

「最悪……、さいあくっ」

酔いしれた事実が後悔になり、羞恥となって私に襲い掛かった。
頭に血が上ったのを、単に怒りと名づけて、私はクロロの頬を平手で打った。

パシッと小気味良い音が響き、クロロは目を丸くした。
頬を打つというのはわかりやすい拒絶の表明だ。
クロロはそのように解釈するだろう。
私自身の感情に流されそうになったという羞恥だとか、そんなものはクロロに関係がない。

「帰って」

まだ熱い自分の口許を押さえながら、全力で睨みつけると涙が滲んだ。
クロロが怖かったわけじゃない。けれど、受け入れてしまうことが怖かった。
大切にしていた宝物を壊された子供の気分だった。
失うこの瞬間さえ、失うからこそ今まで以上に愛しくなる。

「真珠っ! 俺は」
「帰って」

クロロの必死の弁明を聞かずに切り捨てた。
何を言われてももう遅い。覆水盆に返らずってやつだ。
冷静になんてなれるわけがなくて、「帰って」と何度も繰り返した。
声は次第に力をなくす。嗚咽が漏れるのが嫌で、黙り込んだ。


「……悪かった」


沈黙が破られた途端、私は自分の言葉を撤回したくなった。
帰ってしまうってことは二度と来ないかもしれないってことだ。帰らないで!
追うことなど出来るはずがなかった。

玄関の扉が閉まる音を聞くとその場にくずおれた。
喪失感。絶望。後悔。うまくいかない。だから嫌だったんだ。
誰もいない部屋で、膝を抱えて泣き明かした。


結局、終止符を打ったのは自分だった。



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