おくさとでふるる光や


 朝の禊を終えて棲家へ戻ると、玄関前に人影が佇んでいた。
 思わず巻いている御高祖頭巾の裾を引いて、周到に顔を覆い隠す。
 人が煩わしくて里を避けているのに、一人暮らしの屋敷だ、私が応対するしかあるまい。仕方なく声をかける。
「何か、ご用ですか」
 振り向いたのは布を被った年若い男士だった。携えた刀に手をかけ、無愛想な眼差しを向けてくる。
「……この山に浄階の巫女が住まうと聞いた」
 わざわざ高位の巫女を訪ねてくるとは、厄介事の香りがする。
「貴方は?」
「俺は、山姥切国広。ここには我が主、審神者の遣いで来た」
 聞き覚えがあった。それは人の名ではない。大業物の銘と号だ。
 そして審神者なる者の働きも聞き及んでいる。なんでも、物の付喪神に人の形を与えて使役するとか。
「山姥切……。山姥退治に来たのですか」
 山奥に篭った醜女とはいえ、ついに討伐物扱いかと自嘲する。
「山姥退治なんて俺の仕事じゃない。遣いだと言っただろう。極<きわめ>の御守があれば譲ってほしいんだ」
 最高位の御守を作れる神職の者は限られている。その数少ない内の一人が私だと、よく辿り着いたものだ。
「御守は政府に卸していますが」
「数が足りないとか言っていつも売り切れだ。派閥や権威で売り先を選ぶなんておかしいだろう!?」
 たしかに、客を差別しているとは初耳だ。卸した後、万屋を通じて《お守り・極》という商品名で売られているのは知っていたが、売り先までは関与していない。
 この刀の主は立場が弱いのだろう。
 しかしそれを同情する気分になれないのは、目の前にいる男のせいだろうか。
ーー薄汚れた布の下から金糸の髪と翡翠の双眸が覗く。裾が破れて変色さえしている襤褸をまとってなお、うつくしい男士だった。
 絹の下に醜悪な容姿を隠している私とは違う。
 此れを従えて、自由に指図できる立場にあるのだという思いが、会ったこともない審神者なる者への劣等感を抱かせる。
「そうは言っても、量産するものではないのも事実。需要を満たす数がないのなら、突然やってきた貴方がたを特別扱いするわけにもいかないでしょう」
 もったいぶった言い方をしているのは、会話を長引かせたいのだろうか。私が?
 違う。嘘は言っていない。不平等を政府に抗議したとしても、軍略に従って分配していると言われればそれまでだ。
「あるにはあるんだな? それなら、なんとか融通してもらえないか。金子(きんす)は多めに持ってきた」
「こんな山奥で金子を積まれましてもね……」
 財ならある。政府の人間はそれを物資に替えてこの山奥へ運ぶのも担ってくれるから、取引するのだ。
「それなら薪割りでもなんでもいい。労働で返す」
 そういえば、雨戸が壊れているのだった。隙間風の吹く壁を塞いでもらうという手もある。広いが古い屋敷は一人では手入れも追いつかず、あちこちガタがきている。
ーーそんなものはいらない、と言え。何が何でも無理だと突っぱねればいい。温情をかけても私に益はないのだから。政府から叱責を受ける可能性があるのだから、他人に肩入れすることはない。
……そう思うのに、咄嗟に拒絶の声が出なかったのは、このうつくしい男が私の言いつけるままに、私のために労役する光景を思い描いてしまったからだ。
ーー馬鹿な! 他人を、ましてやこうも小綺麗な若い男を自分の生活空間へ招き入れるんて、無理に決まっているだろう!
 誘惑と理性がせめぎあって、危険を回避した折衷案を取る。
「……五日後に、来てください。今ある在庫は明後日政府へ引き渡すもの。これから新しく作れば、五日かかります。いくつ入用ですか?」
「本当か! 一つでもあればあるだけ良いが、それなら、できれば六つ頼む」
「わかりました。お代はーー」
 仮にも高級品である極の御守を六つも買い求めようとは、財は十分にあるらしい。
「五日間、こき使ってくれ。足りなければお守りを主へ届けた後、また来る」
「はぁ? いえ、五日後に出直せと言いました。お代は金子でかまいません」
 話が食い違う。冷静になるために日を空けようとしたのに、そばにいられたらたまらない。
「だが、五日だろう? 一度帰っても蜻蛉返りになるだけだ。用意した分は金子も払う。……宿を要求してるわけじゃない。軒下でも貸してくれ」
 ぐ、と息を飲む。軒下を貸すくらいなら、生活を脅かされることがないだろうか。納屋もある。人間相手なら客人に失礼だと思うところだが、相手は刀なのだから、そんな扱いも慣れているのかもしれない。五日間、先ほど思い描いたのに近い光景を見ることが叶うのだろうか。
「……わかりました。仕事があれば言いつけますので、用がないときはこちらに干渉しないでください。不都合があるようなら、麓の里で宿を取ってください」
「ああ。世話になる」

 * * *

 内符の作成に一日、祈祷に二日、外袋の刺繍を仕上げるのに二日という見込みだった。
 初日、山姥切国広には雨戸の修理を頼み、私は奥の部屋で内符に墨を入れることにした。
 部屋に勝手に立ち入らないようにと厳命したから、生活を脅かされる心配はないだろう。
 近づかないように気をつけようと思っていたのに、作業が一息ついたときにはなんやかんやと自分に言い訳をして彼の様子を見に行っていた。
 相変わらず薄汚い布を被っているが、斜陽に照らされた面差しはやはりうつくしい。
 そうか、彼も頑なに覆い布を手放さないから、私に布を外して顔を見せろとは要求しないだろうと思い込める。突然こちらに近づいて手を伸ばさない、牙を剥かない。
 少し離れたところから、彼の労働を見守る。この屋敷に自分以外の気配があるのはいつぶりのことだろう。少し浮かれて、戯れに話しかけてみようという気になった。
「どうしてそこまでしてお守りを求めるのですか」
「……兄弟が折れて、主は酷く塞ぎこんだ。あんなのはもう見たくないし、主を安心させてやりたい」
 兄弟とは、やはり刀なのだろう。お守りを持たず、兄弟刀が折れて、次は彼が折れるかもしれないというわけだ。自身の生命が脅かされれば、必死にもなるだろうか。
 どこか腑に落ちない思いのまま庭に出て、彼の仕事の成果の全貌を検めた。
 怠惰の痕跡は一切ない。よく一人で短時間でここまで直したものだと感心する。どうしてそこまで……と考えたとき、一陣の風が吹いた。
 びゅううと唸る冷気が過ぎ去って、彼の纏う布をはためかせる。
 それを押さえようと振り返った彼と、いつもよりも”広い視界で”目が合った。
 ずるっ、と頭巾の布が顔を滑る。
「あ……」
 気を抜いていた、なんて言い訳にもならない。
 次の瞬間に飛んでくるはずの惨たらしい断罪に備えて身が竦む。
ーー醜い。化け物。寄るな。おぞましい。気持ち悪い。吐き気がする。
 言葉だけじゃない。嫌悪に歪んだ表情。汚物を見る目つき。
 だから、招き入れるべきではなかったのだ。
 やはり里に宿を取らせよう。日は沈みかけだが、どうにか下山に間に合うだろう。
 いいや、今晩の宿だけじゃない。いっそ極の御守なんぞ政府用の在庫から抜き取って押しつければいい。求める物さえ手に入ればもうここには来ないだろう。二度と会いたくない。一刻も早く立ち去ってくれ……!!
「……どうした?」
 その声には、震えも怯えも嫌悪も拒絶も、混ざってはいなかった。
 恐る恐る目を合わせる。
 きょとんと不思議そうな眼差しだけが、そこにあった。生理的嫌悪は存在しない。
「見えな、かった……?」
「あんたの顔か? 見えたが、とやかく言うつもりはない」
 とやかく言うとか言わないとかじゃない。よほどの演技力や外面を誇る人格者でも、態度に出るのを防げなかったのに。
 こんな、造形の変わった椅子を見るように小首を傾げた程度で済ますのは……”人”じゃ、ないから?
 元来、物である彼らは、人間の美醜に対する感受性が、人とは違うんだろうか。
「……今から山を下りれば、里で夜を過ごせるでしょう。なんなら灯りをお貸しします。返さなくて、いい」
「出て行けと言ってるのか? 言われた仕事はこなしたつもりだが」
 不機嫌だが純粋に疑問そうに、心から訝しげに、彼は言う。
「貴方がそうしたいなら」
「交渉は終わったはずだ」
 しばし待ってみても、彼はソレを見る前と後で、全く態度が変わらなかった。
 それがどんなに異常なことか、普通の人間がどうあるべきか、私は骨身にしみている。
 やはり此れは人間の形をしていても人ではないナニカなのだ。
「……声からして女だとは思っていたが、あんたはもしかして若いのか」
 滞在を拒否する理由が、若い女が若い男を泊めることの倫理の問題だと行き当たったのだろうか。
 それもなくはないが、若くともこの醜さで、貞操の心配は全くしていない。彼は人ではない何かだし、真面目な様子が覆るとも思えない。
「……女に歳は、聞くものじゃないです。軒下でよければ貸しましょう。もう今日は上がりなさい。食事と湯を用意します」
 そして、屋敷の中に人の気配のある生活を久々に味わった。

* * *

「こちらが、極の御守……いえ、《お守り・極》です。数をご確認ください」
「ーーたしかに受け取った。金子が足りるか確認してくれ」
 代金の入った袋を開けて、中身を二度数えるふりをする。一枚や二枚足りなくてもかまわないが、少しでも時間を引き伸ばしたかった。
「……綺麗なもんだな」
「え?」
 こぼれた声が、空耳かと思って聞き返す。
 相変わらず薄汚い布をまとった、この上なく綺麗な男の口から”綺麗”と聞こえた。
「この外袋の刺繍もあんたがこの五日の内にしたのか?」
「ーーええ。大事なことですから」
 私も相変わらず、長い前髪と御高祖頭巾で顔を隠している。けれど、人……彼に近づいて話している間、いつ正体がバレるだろうかという恐ろしさは少しも感じなかった。とても自由な気分だった。
「そうか。急かして悪かった。……世話になった」
 彼が辞去の言葉を紡ぐ。ああ行ってしまう。終わってしまう。
「あの。……もしもまた、数が足りなくなったら、相談に乗りますから」
 それが私に言える精一杯だった。身の程知らずだと己を罵る内なる声は苛烈なほどだ。
 御守は使いきりの身代わり札だから、使うような危機はないほうが好ましいのだろうけど。
「わかった。そのときはよろしく頼む。ーーまた来る」
 再会の可能性を許されて、口元に薄く笑みが浮かぶ。その笑みはやはり不気味で見るに堪えないものなのだろうけど。
 山を下りる彼の背を、いつまでも見送っていた。



おくさとで ふるる光や 常ならむ

題名提供:透子さん

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