暗黙


京の町が戦場となっている間、太刀は出陣から外されることになった。
一期一振も例外というわけにはいかず、近侍の任を離れることが多くなった。

「ただ今戻りました」
「おかえりなさい。よく無事で帰ってきてくれた」

遠征帰環の報告のため主の元へ赴くと、ずいぶん久々に顔を見たような気がする。
以前より傍に侍る時間が減ったせいか。
心が通ってからこそ、物理的な距離がもどかしい。
渇くような飢えを感じる。

「一期一振。ちょっと」

報告を終えて退室しようとしたところで手招きされて、他の隊員に抜かされ一人主のもとへ寄る。
ささやかな触れ合いでも期待できればいいのだが、主は仕事中の表の顔をしているし、一期一振も他の刀たちの手前であからさまな態度は取らないことにしている。

「上着のボタンが、取れかかってる」

案の定些細な用件だったと内心苦笑して己の装いを見下ろし、相槌を打とうとしたが、服装は特に乱れていないことに気づく。
主の視線を辿ろうとして気まずそうに目を逸らしているのを見て、どれですかと無粋なことを問うのはやめた。

「……私が、直してやろうか」

そんな、似合わないことを言われる。
主は繕い物が得意というわけでもなければ、己のボタンをつけるくらいの繕い物なら一期一振もできる。
そもそも、たとえ戦闘で傷を負って衣服がほつれても、繕うまでもなく手入れ部屋に入れば装備もろとも直ってしまう。
わざわざ呼び止めたことといい、どんな意図だろうかと表情を窺えば、主はやましいことでもありそうに目を逸らしたまま、頬を赤らめた。

「あ、あとで」

耐えられないというように俯いた、耳まで色づいているのを見て思い至る。
抱きしめたいような衝動と愛しさが込み上げるが、それを今しては言伝が無駄になる。

「わかりました。ではお言葉に甘えて、夜に参ります」
「うん」

恥ずかしそうな照れ笑いは、しかしどこか晴れやかだった。
渇きがいっそう酷くなる。
こんなふうに何気ない彼女の喜びを守りたいのに、彼女の悦びをこじ開けてしまいたかった。

* * *

声をかけてふすまを開けると、白い夜着に着替えた主が自室なのに緊張気味に座っていた。
傍らに日本酒の瓶を置いてあるが、まだ飲まれた形跡はない。
一期一振と目が合うと少しはにかんで、隣の座布団をすすめる。

「昨日ひやおろしが届いたんだ。少し付き合わないか?」
「頂戴します」

誘導されるまま座り、杯を渡され酌を受ける。
芳醇な香りと涼やかな喉越しが心地よい。
繕う必要のあると言われた上着を持参しなかったが何も言わないので、これが正解だったのだろう。
酒を用意するならそちらを口実にすればいいのに、不器用で可愛らしいひとだ。
一期一振を待つ間、落ち着かず持ちだしただけなのかもしれない。

こうして二人の時間を得られただけで幸福でたまらない。
ましてや主からの誘いが嬉しくないはずがない。
彼女がどんなつもりで用意してくれたのか、心づもりを窺うつもりで束の間を過ごす。

主は普段はなかなかの上戸なのだが、今は飲むというより沈黙に理由つけるために杯に口を付けているだけのようで、中身は一向に減らない。
舐めるように杯に触れるたびに湿る薄紅色の唇を見ていた。
言葉を探しているような、時機を待っているような、ちらちらと窺うように一期一振を見やる。
そのたびに微笑みを返し、気候や部隊の話を振って、緊張を解こうと試みる。
ぽつぽつと言葉を返すたびに主の表情が弛緩する。
二度目に杯が乾く前に、もう頬が色づき、目が潤んでいる。

「主……」

ふ、と笑み、その太ももにそっと手を置いた。
白い喉がひくりと動いたが、身を竦めたのは一瞬だけで、おそるおそる、その手を重ねられた。
交わった視線に焦がされるように、艶やかな黒髪を撫で、形を辿って後頭部に手を添える。
やがて甘受するように瞼が下りた。濡れた唇が小さく震えている。

「お慕いしています」
「……うん」

頷きは甘受。
花の香に誘われるようにゆっくりと口唇を重ねる。
柔らかな感触をたしかめるように何度か触れ直し、怯えさせないように気をつけながら、徐々に貪る。
力が抜けた隙間から侵入し、腔内で舌と出会って、互いを擦り合わせると官能が生まれた。
それを主にも感じて味わって悦んでほしくて、共に心地よくなるよう模索する。
舌を吸い上げるとくぐもった声が漏れ聞こえて充足に胸が熱くなる。

気持ちを置き去りにしないようにと息つく間を与えれば、情欲にとろけた艶冶な表情を見ることになる。
怖がらせないように、乱暴にしないように、急かしすぎないようにと何度脳裏で念じても、この欲は、脳髄がしびれるような猥雑な獣性は隠せていないかもしれない。
この人のなにもかもを暴いてしまいたいという衝動を押さえつけ、無理やり御して、先へ進む。

くちびるで首筋を辿ると、主の腕に力がこもった。
押しのけようというよりは思わずもがいているだけなので、抱きとめることで逃げ道を塞ぐ。
安心させたくて微笑みを浮かべたが、後戻りさせるつもりはないのだと、情欲は隠さなかった。
急かしすぎないように、少しの待ては聞くが、決して逃がすつもりはないのだと態度で告げる。

やだ、まって。と、うわ言が聞こえても、霊力の全く乗っていない言葉が本気の拒否であるはずはない。
性別が異なり身体能力の差があっても、特殊な主従の身の上では言霊による命令さえあれば無理やりに強いることなどできない。
この人は言葉一つで一期一振を支配できてしまうのに、決してそうしない。
彼女が絶対的な言霊を使うのは「特別」だけだが、使わないとあえて選択する今も、「特別」だと説かれているようだった。
だからその声は許しでしかないのだ。
心が許され、体が許されたことが、妥協や諦念でないのは、潤んだ目を見ればわかる。

口を塞ぎ、埋めて、繋がり、伝える幸福もあるが、
口を塞いでいないときに彼女から湧き上がる甘やかな声も幸福の象徴だ。

覆いかぶさってはいるが、押さえつけるというほどの力ではない。
手中に収まってくれたことが奇跡のような宝物が折れてしまわないように、大切に触れた。
【頂き物・イメージイラスト】

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