名を得た傷痕


( 灰の中で爛れゆく指先 )


 幼い頃の思い出は、悲惨すぎて笑っちゃう。

 おそらく人買いに拉致されたのだろう。
 連れてこられたのは牢獄の屋敷で、毎日飼い主の鑑賞物となって、緋の感情を引き出すために責め苛まれた。

 時を止めた遺骸の一部を愛でることと、飼い殺していたぶることでは、どちらのほうが趣味がいいんだろう。私にはわからない。

 感情の起伏を価値とされていたので、心を無くすことはゆるされなかった。
 慣れることも麻痺することも壊れることも救いにはならなかった。
 ある試練に揺さぶられなくなれば、もっと過酷な試練が課せられる、そんな無限地獄。
 記憶が錯綜していたので、きっと何度か念能力の介入を受けてリセットされていたのだと思う。

 やがて感情を燃やし瞳に宿らせることを芸として覚えたけれど、惰性の色合いでは物足りないと、責めは続いた。

 しあわせという概念を教えられたのも、罵られるためだった。
 私の待遇は決して正常でもまともでもないのだと、溝鼠のほうがよほどマシだと、世界で一番劣悪で不自由で惨めだと、それでものがれることは一生叶わないのだと、繰り返し教えられた。
 決して自分を慰めたりしないように、激情を抱え続けているように。
 世間ではどんな幸せなことがあるかを説き、私はどうしてそれを得ることができないのか答えさせられる。
 誇りを養われては、それを傷つけられた。希望を持たされては、それを裏切られた。

 同時に、その教えは「外」の世界を意識させるきっかけでもあった。
 疲弊し飢えて渇いておぼろげな意識の中で、「しあわせ」という幻は空想となり、私の中で無限に広がった。
 
 ――ここから外に出られたら
 ――家族がいたら
 ――友達がいたら
 ――虐げられることがなかったら
 ――まもってくれる人がいたら
 ――嬲られることがなかったら
 ――自由になれたら
 ――抱きしめてくれる人がいたら
 ――敵を殺し尽くす力があったら

 決して手に入らない夢物語が、蝋燭の灯の上で蜃気楼のようにゆらゆらと漂った。
 不思議なことに、その幻影は日増しに輪郭を濃くしていった。
 浮かび上がる、檻の中から見える誰とも似ていない姿形に、まるで家族や友達のような親しみを覚えた。
 自分の見た目や思想が違うことに違和感もなく、頭を撫でるだとか名を呼ばれるだとか、そんな経験もない場面も、数えきれないほど内包していた。

 ――仕事をやりとげたら「よくやった」と褒めてくれた。
 ――この雨が止むまで手を繋いでいてね とねだると、彼は「仕方ないな」と片手で本を読んだ。
 ――燃え盛る赤い庭で、ふと、手の中にあった摘みたての花を、炎の中へと投げ捨てる。
 ――雨の中、ずぶ濡れでボロボロの身なりの私を、彼が掻き抱いた。
 ――滞在している街の祭りで夜空に光の花が咲いたのを、拠点の屋上で酒を煽りながら眺めた。

 幻の中では彼らがどんな人物なのか知っていて、名前を呼ぶこともできた。
 できることもすべきこともわかっていて、どうしたいのか望みが自然に湧き上がってきた。
 その点では、きっと”夢"というものに似ている。

 醒めるとおぼろげな記憶しか残らないというところも、そう。
 "彼ら"が実在するのかどうかさえわからなかったけれど、きっとあれがしあわせなんだと、私は何度も幻影に入り込んで、彼らに甘えていた。

 一方で、空想に逃避することができるようになった分だけ、緋が精彩を欠いたと、また責め苦が増えた。
 幻影の話をすると、くだらないと嘲笑われた。どちらにせよお前には手に入らないものだ、と。
 代わりに眩しさとあたたかさを教えてやるとからかわれて、からだを焼く焔の熱を教わった。
 痛みに泣き叫ぶよりも、凍てついた絶望と憤怒で血が煮えた。

 "そんなしあわせが本当にあるなら教えてよ!"

 恫喝のように吠えたとき、私の躰からは湯気が溢れだした。
 眼に、脳に、身に、緋が宿る感覚を得る。

 調教師が掌で操っていた炎が、檻の中で膨れ上がった。
 馬鹿は当惑してそれを制御しようとしていたけれど、無駄だった。
 その紅蓮はすでに私の支配下にあったのだ。

 "すべて燃えてしまえばいい"

 黒黒とした煙が立ち込め、灼熱の空間が出来上がる。
 獰猛な炎が轟々と屋敷を喰らっていく。
 怒号も悲鳴を遠くに聞きながら、すべてが終わるのだと思った。
 私も燃え尽きてあの陽炎のように消えるのだ、と。

 諦観の念で炎を見つめていると、ゆらゆらと色めく火焔の奥に、あの「しあわせ」の幻影が浮かび上がっているのが見えた。
 目を凝らすとやがてそれは膨れ上がったから、姿見ほどの大きさになったとき、迷わず飛び込んだ。

 焼け落ちた壁の向こう。そこは赤い庭だった。
 不気味なほど同じ朱の花が密生しており、血を吸ったような紅だ。
 目に映る光景ががらりと変わったことで、別世界に来たような気分を味わう。

 ふと、その花に見覚えがあることに気づいて、一輪摘み取って、眺める。
 ああそうだこの光景は昔、幻影の中で見たことがある。夢として出会ったことがある。
 ここは幻の中なの?

 でも、これまでの「しあわせ」の具現とも言える幻の中では、痛みや苦しみを感じることはなかった。
 今、炎の灼熱は剥き出しの手脚を炙り、黒黒とした煙が眼と喉を苛んでいる。騒音も耳障りで、楽園とは程遠い。
 外を覗き見る機会さえなかったから初めて見る光景だけれど、背後には燃え盛る建物がある。
 あれが檻の屋敷で、ここはその庭なのだろう。

 きぃんと耳鳴りがして、いっしゅん目を瞑った。

 それだけの違和感だったのに、気づいたときには たった今摘み取った花が手の中になかった。
 既視感を抱き、はっと炎を見ると、燃え盛る中で朽ちていく一輪の花。
 それは、かつて幻の中で、私がこの火に焼べたものじゃないか?

 ――あの光景は現実だったの?

 めくるめく幻の旅。
 そこで見たビジョンが現実と繋がるときが来るのなら、この先にあるのなら、わたしは、しあわせ、を、得ることができるんだろうか。
 それならもうすこし生きてみようか。足掻いてみようか。
 彼らに会うまで。

 生きたいと願った途端、世界の雑音が増大した。
 屋敷内で、まだ助かるかもしれない人の気配が、恐ろしくなった。
 にげなきゃいけない。もう捕まらないように。脅かされないように。

 ボロ布を纏ったまま駈け出した。
 どこということもなく、さっき幻影を見た方角・人の気配が薄いほう・町外れへ向かう方へ。
 長らくまともに身体を動かしていなかったから、"走った"というのは主観にすぎないのかもしれない。
 よろめきながら、遠くへ、離れようとした。

 不思議と感覚は澄んでいたし、火傷の痕も消えていった。
 それでも、既視感のある風景に到達した頃には、ガクガクと脚が震えて意識が遠退きそうだった。
 視界の中にみつけたのは見知った輪郭。幻の中で慣れ親しんだ彼だった。

 それだけで安心してしまって、糸が切れた。


* * *


 気づいたときには彼らの住処にいた。
 長身のお姉さん 、パクノダがいくつか質問しながら私に触れた。
 問われるままにポツポツとこれまでの出来事を話す。

 警戒がいらないと判断すると、逆に問いに答えてくれた。
 私が使ったのは念能力であること。彼らが幻影旅団という盗賊であること。ここはその滞在拠点だということ。
 少し離れたところから本を片手に眺めていた彼、団長のクロロは、私の「幻」に興味を持った。

 同じことができるかと聞かれ、試してみたけどすぐにはうまくいかなかった。
 あれこれ記憶を辿りながら、炎が鍵になってるんじゃないかしらとパクノダに言われて、試した。
 クロロが灯したライターの火を見つめながら、眼の奥が熱くなる。揺らぎの上の幻影が広がって、その中に入る。

 見えたのは彼らとの日常風景だった。たぶん。
 醒めてしまえば大半の記憶は淘汰されてしまった。
 何が見えた?に対する答えはどうでもよかったらしく、クロロは空間から本を取り出し、表紙の手形に触れろと命じた。

 その通りにしたことによって、クロロは私の"幻影"能力を奪ったらしい。
 にやりと性悪げに教えられたけれど、いじわるされるのには慣れていたし、そんなもので喜んでくれるのなら、いくらでもあげてしまってかまわなかった。ほんものに出会えた今なら、まぼろしくらい、いくらでも。
 その代わり、いつか、見せてほしい景色があった。


* * *


 水見式を試すと特質系で、目に緋が宿っているときは全系統を使うことができた。
 特質系は血統や境遇によることが多いらしく、私はどちらも兼ね備えていることになるらしい。
 念に目覚めたのは調教師のオーラに当てられたのがきっかけだとして、緋の目を自在に出す訓練をしたことと空想にふけていたことが瞑想代わりになって功を成したんだろうと推測された。
 幻影に飛び込む、"死せる産声(カレイドスコープ)"が特質系で、残りは別の系統らしく、緋の目状態でなければうまく使えなかった。
 緋の目状態なら、強化系のように身体能力も上げられたし、オーラで皮膚を保護し、火傷するのと同時に治すことができた。

 炎を支配して屋敷を燃やしたのは操作系の力だった。
 無から火を発生させる、オーラを火に変えるのは変化系や放出系にあたるらしいけど、外部の火種を使うほうが楽だった。

 "魂狩り火(メメント・モリ)"が完成しても、クロロは盗らなかった。
 蜘蛛の手脚になるなら一つくらい戦闘手段を持っていろといわれた。
 その上、しばらく遊んで使い勝手がそれほどじゃないと判断すると、"死せる産声"も突き返してきた。
 必要なときは私が使えばいいというのはわかるけど、

「それなら、どうして私を拾ったの」
「君が燃えるような眼をしていたから」

 緋色を愛でるためにしては、クロロは、戦闘中以外で私に「緋を保て」とは命じなかった。


* * *


 たまに既視感と耳鳴りを覚えて、意識に空白ができる。
 そういうときは昔の私が、"死せる産声"で使ってしまった時間だ。

 "死せる産声"による幻影は、うまくいけば将来を見てくることができる。
 強い願望が必要らしく、あまり正確な条件はつけられないし、条件に該当する将来が存在しなくて関係ないものが見えることが多い。
 見えても完全な記憶は残らないし、こちらから質問や行動の操作はできないから、宝くじの番号だの株の相場だのというのは、何度ねだられても無理だ。
 それでも、情報収集に行き詰まったときの手がかり程度にはなるので、今でも使うことがある。


* * *


「……まだ拗ねてるのか」
「だって、楽しみにしてたのに」

 町の祭りを見物したいと言ったのは私だった。
 浴衣を揃え、前日までずっと楽しみに用意していたのに。
 次に気づいたとき、祭りは終わっていて、燃え尽きた手持ち花火があるだけだった。

「楽しんでたじゃないか」
「だから、それは私じゃないんだってば」

 "死せる産声"で先に見てしまうと、その体験は二度とできない。
 前後だけ繋がって、空白になってしまうのだ。
 あんなに大切にしていた幻影の記憶も、毎日の体験に押されて忘れていく。
 もともと夢のように不完全な記憶だった。数年前じゃ、もはや遠い彼方だ。

 しあわせを知りたいと願った分だけ見た、当時は空想だと思い込んでいた光景。
 あの記憶がなければ私は今ここにはいなかっただろうし、とても慰められていたのは否定できないんだけど、楽しいことほど先取りするんじゃなかった!と後で悔いてしまう。

 意識が途切れれば途切れるほど今が幸せだという証明だし、今というのは特別な瞬間が欠けても有り余る幸福感だ。
 だけど、みんなが覚えていて私が覚えていない時間があるのは、やっぱりすごく悔しい。

 空白の時間に関して「ティアはたまに甘えん坊になる」なんて からかわれるのにも業腹だ。
 しょうがないじゃないか。幼かったし、空想だと思っていたから欲望に忠実だったのだ。
 私は素直に甘えられない程度の尊厳を身につけたし、みんなも、昔見た幻影のほうが私を甘やかしていた気がする。

 今後何どれだけの楽しみを失うんだろう?
 なんて、不安になることもあるけれど、たとえば。
 気づいたら読書中のクロロと手を繋いでいたような、雨降る午後もあって、憎いばかりの空白とは限らないのだ。

 あるいは、過ぎた現実と矛盾した幻影も、少なからずある。
 繋がるべき前後に出会えない記憶。どこに行ってしまったんだろうって体験。
 それはきっと、予定から道を違えてしまったという証拠なんだろう。

 書き損じの幻が増えることで、何か、紙詰まりのようなエラーが起こらないかと心配になるけれど、外れてほしい予見もある。
 不吉なのは一つだけ。「死なないで」と願った幻影が、まだ、宙ぶらりんで浮かんでいる。



回 帰 す る 仮 初



( 題名提供: のあるさん )

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