髪:思慕


 絹糸を採るために蚕を飼うように、絹髪を採るために飼われる一族がおりました。
 絹髪は、鬘にされることも美術品の材料になることもありました。
 最高級の家畜を育てるように、ストレスの少ない環境で高価な油と櫛を使って手入れされ、顔も体も人格も考慮されず、価値のすべては髪にあるように扱われる一族でした。
 服は質素で均一な作業着。装飾品は一切なく、絹髪だけが不釣り合いなほど魅惑的に輝いていました。

 その一族の中には、娼館に高く買われていく者もおりました。
 たとえ平凡な顔立ちでも、後ろ姿は女神を思わせる。抱きたいという男は多いのです。
 娼婦を務め、引退するときに髪を切ればそれも売れるのだから機能的な商品です。

 私がその一人でした。
 同世代の中で一番品質の良い髪と化粧をすればそこそこ見られる顔立ちで、一番高い値がついたということでした。
 娼館の旦那様が新しい飼い主となり、重い頭を揺らして手習いをしていました。
 商品の性質上、前髪さえも切ったことがなく、量が多いのもそのまま、特殊な結い方をしておりました。
 いつか姐さんのように、自分じゃなくなりそうなほど濃い化粧をして見栄えを装い、見知らぬ誰かに愛でられる日が来るはずでした。

 お屋敷が火事になったのは、そんなある日のことです。
 聞こえてきた悲鳴は、どうやら火の手が上がる混乱によるものだけではないようで、
 ご主人様がお亡くなりになった。奥様も一緒に、殺されたらしいのです。

 狼狽えた私に、「この機に逃げなさい」と言ったのは姐さんでした。
 避難所ではなく裏口から街の外を目指せというのです。
「でも、」
 私たちは飼われた身。監視なく敷地の外に出ることは許されていませんでした。
「いいから逃げなさい。こんな機会はもうないでしょう。今なら混乱に乗じて見咎められない。裏口に火が回る前に、さあ早く!」
 それは甘い誘いでした。夢か幻にすぎなかった光が、突然差したような。
「今を逃せばあなたは一生籠の鳥よ」 その言葉が極めつけでした。
「それなら、姐さんも一緒に」
「私はいいの。他の生き方を選ぶには遅すぎる。掻き集めた栄誉を捨てる気もない。逃げるには髪が重すぎる。二人で逃げるのは難しいけど、私が残れば庇ってあげられる。
 あなたはまだ変われる。その髪も荷物になるけれど、布で包めば走れるはず。ほら、これで」
 ぐいぐいと背を押す姐さんに半ば押し切られるように決意を固めました。

 言われたとおりの支度をし、私は扉の前で一度だけ深く頭を下げました。
「どうかお元気で」
「言われなくとも」
 口角を釣り上げて微笑んだ姐さんは、私にとって生涯の憧れの女性です。
 髪の他に目立つところはないのだから、遠くまで逃げたら髪を切って売りなさい。それを元手に身を立てなさい。そこで普通の人として生きなさいと、先々の知恵まで授けてくれました。

 姐さんの言葉は絶対に思えましたが、自分の髪を切るというのはぞっとしない想像でした。
 それは私達にとって、用済みになる儀式だったからです。
 姐さんがあの屋敷を出なかったのは、自ら髪を切ることを選択できなかったためでした。
 私にならそれができると託されたのです。
 自分の値打ちのほとんどを失っても、枷を失ってこそ人間らしく生きられるのだと、示されたのは初めてでした。

 喧騒とは反対方向に逃げ出して、彼に行き当たったのはなんの因果でしょう。
 目が合って、その異様な雰囲気に慄然としました。
 暗殺者、人殺し。きっと仕事帰りだったのでしょう。
 恐怖で喉が凍りついて咄嗟に悲鳴が出なかったことは僥倖でした。
 その人の標的が娼館の旦那様だったのかどうか尋ねてはいませんが、私はそう信じています。
 彼――イルミ様が、檻の扉を開け放ってくれたのだと。

「どうか見逃してください。あたしはあの屋敷に囚われていたんです。逃げたくて、その機会を与えてくれたあなたに感謝しています。恨んでいません。関与しません。追いかけたり、口を挟んだり、誰かに言ったりしません」
 その人は懇願に動じず私に近づき、髪に巻いていた布を前触れもなく剥がし取りました。
 誰何するのが目的だったようです。
 予想以上の質量だったと思われるソレを見て、彼は僅かに目を瞠りました。
「なんでこんなに長いの?」
 純粋な疑問の声は、場違いなほどでした。
 興味深そうに髪を掴まれました。
 イルミ様がそのとき私に声をかけたのは、関係者か、依頼対象か、目撃者か、殺すべきかどうかを判断するつもりだったようで、結果として対象外と判断されたのですが、私にしてみれば、今にも殺されるところでした。
「あたしはそういう商品なので……」
「いくら?」
「これくらいの長さなら八百万ジェ二ーはくだらないはずです」
 それは平均額で、私の髪は質がいいから、本当はもう少し高いはずでした。
 奴隷が己の鎖を自慢するように、私にも髪には矜持がありました。

 "この髪は売れるんです、きっと良い値がつきます。
 あなたに差し上げます。どうか命だけは見逃してください"
 姐さんならきっとそのように機転をきかせるはずだ、それが今の状況で私が選択すべき言葉だと思ったのに、恐怖でうまく口が回らないうちに、
「安いね」と言われるのを聞いてしまい、頭が真っ白になりました。

 安い?
 そんなはずはないのです。この髪がこれまでどれだけありがたがられて来たか、一族が重宝されているか、この人は知らないからそんなことが言えるのです。
 私の世界における最高級がこの人にとって低級だというなら――私は、なんて狭い庭で生きてきたのでしょう。この人の世界はどれだけ広いというのでしょう。

 憎くて、眩しくて、追い縋りたいような気持ちになりました。
 私にはその人が外の世界の象徴のように見えました。
 知らないことがたくさんあるなら、もっと知りたい。
 これまでの自分を捨ててでも、まだ生きていたい。

「それでも……貴方様には端金でも、差し上げます。差し上げますから、どうか命だけは助けてください」
 唯一の財産を失うのは痛手ですが、命は代えられない。逃げるに当たって身軽になるのは悪くないことかもしれないと、思いました。
 命よりも価値があると言われ続けた髪を、自分でばっさり切るには手が震えますが、断(た)ってもらえるのなら諦めもつきそうです。
 この人に捧げるのなら、悪くないと思えました。
「お前を殺すのは依頼に含まれてない。見逃すのはいいけど、その後はどうするつもり?」
「遠くへ逃げます。髪を切れば他に目立つところもないので。そして仕事を探します。貴方様のことは誰にも言いません」
 命乞いを承諾されるにしろされないにしろ、宝石が目の前にあって拾わない者がいないように、拾い物として収穫されるかと思ったのですが、彼はそれをしませんでした。
「仕事に困ってるならうちに来る?」
 イルミ様は、猫でも拾うように言いました。


* * *



 それから、ゾルディック家の執事養成所で教育を受け直しました。
 厳しい訓練でしたが、それまでと比べれば悪いとも言えない環境でした。
 ……すみません、強がったかもしれません。ツボネ先生には生涯頭が上がりません。
 適性から判断されて執事ではなくメイド職ですが、
 養成所を卒業したら、イルミ様つきの侍女として雇っていただく予定でした。

 髪を切ろうと思ったのは、訓練の邪魔になるということ・私が自力では手入れしきれないということもありますが、もう私には必要ないものだと思えたからです。
 これからは絹髪を育てる土壌ではなく、ゾルディック家の使用人として生きていくのだから。
 過去の自分に区切りをつけるためにばっさりしてしまおう。そう思えたのです。
 器用な同期に頼んで、ちょうどその頃のイルミ様と同じくらいの長さにしてもらいました。
 仕上がると、見た目もさることながら頭の軽さに感動しました。
 切った髪にはどうしても思い入れがあって、姐さんがくれたあの布に包んで大切に保管することにしました。

 数日後、敷地内でお会いしたイルミ様は私を見とめると、殴りかかりそうな勢いで詰め寄ってきて胸ぐらを掴み、淡々と、何故切ったのかと詰問なさいました。
 そこで私は青ざめ、後悔しました。
 もしかしてイルミ様は髪を込みで私を購入なさったつもりだったのでしょうか。
 いつかもっと伸びたら切って売るつもりだったのかもしれない、私はイルミ様の財産を損なってしまったかもしれない、と。
 恩を仇で返したようなものです。

 せめてこれまで伸びていた分は保管してあるので差し上げます。持ってきますので、どうぞご自由にお売りくださいと申し出ましたが、
「いらない。それより、次こんなに切ったら承知しないから」
 即答で却下され、ずきっと胸が痛みました。
「それは……いえ、すみません。わかりました」
 私は今も一族としての価値を求められて、ここにいるのでしょうか。
 花を育てる鉢植えのままなのでしょうか。
 そう問いたい気持ちが起こり、愚問だと思いました。
 また、使用人がご主人様に行動の理由を問うのは、あまりにも礼を欠いています。

 私は勘違いをしていたのです。
 自分が変わったような気でいました。
 ここも何も変わらない。あの娼館と同じように限られた庭の中で飼われ、仕えているのです。
 勘違いしてしまったのは、ここには自由に似た解放感のようなものがあり、不思議と飼われているという感じがしないせいでした。
 きっと今なら何かの拍子に罰を受けて鎖で繋がれても、家畜とは違う感じがするかもしれないと、思えたのに……。

 感傷に浸っている場合ではありません。
 勘違いなら勘違いで、これから後始末をしなくてはいけないのです。
 考えなくてはいけないことがたくさんあります。
 雑に切ったきりになっていますが、この髪がまだ商品ならば、これ以上傷まないように万全を期して手入れしなくてはいけません。
 でも、前の屋敷で使っていた香油や櫛を、私は持っていません。どこに行けば手に入るのかも知りませんし、今の私の給金で買えるのかもわかりません。
 使用人の身では毎回誰かに手入れや髪を洗うのを手伝ってもらうわけにもいきません。使用人として働くのに髪を保護する器具を装着していたり、過度に身嗜みにとらわれるも躊躇われます。
 日々の中で髪のために割けそうな時間もそれほど多くはありません。

 そもそも、あれ以上の長さにするのには何年かかるのでしょう。
 それまで私はここに置いてもらえるのでしょうか。
 イルミ様にすれば、新しく一族の者を買い直してきたほうが安上がりで手間がかからないのではないでしょうか。

「"そんな"、何?」
「いえ……髪を伸ばすのには時間も手間もかかります。香油など私一人では用意できないものもありますし……前の長さにするのには十年以上かかってしまうかもしれません。勝手なことをして、申し訳ありません」
「前ほどは長くなくていいよ。でも今の長さは駄目」

 売り払うのではなくて、ご自身の観賞用ということでしょうか。絵でも描くか、ウィッグでも作るのでしょうか。
 それなら私はすぐには捨てられずに済むでしょうか。
 どのような加減を求められているかわからず、戸惑いました。
 極端に長ければ結い上げられるものですが、一度短くしてしまったからには、しばらく我慢が必要です。
 普通なら、前髪はすぐに伸びるので切りますし、量が多いと梳くものです。
 するとイルミ様はぽんと手を叩きました。

「そうだ、じゃあ俺も一緒に伸ばしてあげる」
「は……?」
「俺にできたら無理だなんて言えないでしょ?
どれくらいの長さなら切っていいかもわかりやすいし、誰かに文句を言われることもない。俺より短くしたら承知しないけど、それ以上なら自由にしていいよ」
一見無表情ながらどこか満足気なイルミ様の機嫌に押されて、約束を交わしてしまいました。

 ご主人様ですから、イルミ様がそのお遊びにいつ飽きても責めるつもりはありませんでした。
 私との約束なんて反故にしても問題ないどころか、イルミ様が自らに条件を課さなくとも、私は命じられれば従うしかありません。
 けれど、律儀な性分からか、イルミ様のその宣言は随分と長続きしました。


* * *



 煌めくような黒髪を梳きながら当時を懐かしみます。
 私と出会った頃は、ミルキ様と同じくらいの長さだったのに、すっかり長くおなりです。
 暗殺の邪魔になるのでは、とも思いましたが、イルミ様はいざとなればネンで姿形を変えられますし、女性のふりをする際など役に立つこともあるそうです。

 伸ばしてみるとその不便さがわかったようで、イルミ様の髪を梳いたり手入れするのはすっかり私の担当職務になりました。
 基本的には自分の髪と同じことをすればいいのです。
 必要な道具はイルミ様が揃えてくださいました。
 俺の髪で実験していいよ、とさえ仰りましたが、まさかそういうわけにもいきません。

 特殊な一族の出だということで専門家を名乗ることが許され、月に二三度奥様やカルト様の御髪も手入れを頼まれます。
 他の女性執事や使用人にもアドバイスを求められたりもして、なかなかに好評です。
 手に職をつけられたのですから、思わぬ授かりものです。

 私も、イルミ様と同じくらいの長さを保っています。
 これより少し長くなるとイルミ様はご自分の髪をお切りになるので、この程度で良いようです。
 量が多い分は梳きますし、特に前髪は下ろしているので、こまめに手入れを許されています。
 これでは最後売り物にならないかもしれないと断ったのですが、そんなことはどうでもいいそうで。
 切った髪屑もただのゴミとして扱われています。
 私の中に、一つの疑問というか、わだかまりというか、もしかしたらという問答が、宙に浮いています。

 跡がつくからと、私はイルミ様に髪を結うことすらも禁じられています。
 仕事上、髪を纏めることができないのはなかなか邪魔なのですが、世界中を飛び回って幾多の困難な暗殺をこなすイルミ様がお手本をなさっているので、文句は言えません。
 イルミ様の美しい髪には屋敷内にファンも多く、鼻が高いです。

 手入れしながら、長い髪が二人分、二色並びます。
 鏡に映る光景は、色の違う布が折り重なっているようにも見えます。
 特にイルミ様の御髪はまさに漆黒の絹のようです。
 黒く、しなやかな髪。
 私の努力の結晶でもありますが、私は過去に最高級だと信じていた自分の髪より、イルミ様の髪が好きです。
 それはきっと御髪の主がイルミ様だからこそ、なのでしょう。ご顔貌も、指の長さも、憧れるところを挙げるときりがありません。
 見蕩れながら、少しも傷つけないよう、絡まらないように慎重に櫛を通します。
 まさに役得です。
 たとえば高級商品でなくても、私は髪を専門とする族に生まれてよかったと思いました。

 ふとそのとき、鏡の中のイルミ様がおもむろに、垂れ流されている私の髪を一筋手で掬い上げ、口付けをしたのが見えました。
「なんっ……! なにを、」
 なさるんですか!?と悲鳴を上げたかったのに、声になりません。私はいつもこうです。
「目の前で揺れてたから」
 イルミ様が冷えた声で返すものですから、自分の感情の揺らぎが炙り出されたようでした。
 私の羞恥を、動揺を、困惑を。もっと奥の、懸想を、恋情を、思慕の気持ちを。

 熱い。まるで燃えているようです。
 あのとき、火の手の上がる屋敷の中でも、これほど頬は火照らなかったのに。
 手が震えるのを堪えようとしても、鏡台の前では、茹で上がった自分も、それを見るイルミ様も、見えてしまいます。

 家畜が勝手に増えることを好まれないように、生涯の最優先を間違わないように、ゾルディック家の執事は恋愛が禁止なのです。
 なぜそれを今思い出したのでしょう。
 髪に口付けることの意味を知っていますかと、問うことも許されない身分です。
 恋と呼ぶにはあまりにも畏れ多い、そんなことをすればここにはいられなくなるのに、どうしたら応えられるだろうと、考えている私がいました。

 言葉ではいけない。ふれることもゆるされない。
 伝えてはいけないという事実と、応えたいという気持ちがせめぎあって、自己満足でかまわないのだと結論が出ました。
「終わり、ましたっ……」
「そう」
 至福の時間が終わり、イルミ様は動かなくて疲れたとばかりに立ち上がって伸びをし、関節を鳴らしました。
 私は手入れの道具を箱にしまい、いつものようにイルミ様が立ち上がる後を追い、窓ガラスに映るイルミ様の御髪の影を横目で見て、私の影が重なるように、見えない角度でちゅっと くちづけをしました。


(  参加 : H×H22箇所キス企画「くちづけ」様 )


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