12.どれほど嬉しかったことだろう


足の痛みはだいぶ引いたのだけれど、もう動いても痛くないと言えば嘘になる。
丁寧な手当てを施されたけれど、わたしのいた時代よりも医療はやはり劣るから、油断は出来ない。
常に動き回っているようなわたしの行動が怪我の治りを遅めていたということもある。

学園内に罠が仕掛けられている可能性があるということは、ちゃんと教わっていた。
お客さんの通るような正門のあたりはともかく、少し外れた地域には何があってもおかしくない。
だから、目印には気をつけていた。

それでも、その日、小雨が降っていて、
注意力が散漫になったというのは言い訳だろうか。

あるとき突然、松葉杖をついた地面が消失して、
わたしは悲鳴を押し殺すしかできなかった。


とっさに松葉杖は手放してしまって、体勢を崩して、穴に落ちる。
土に倒れこんだ。

これが噂の落とし穴――狼穽だろうか。
中に仕掛けがなかったのを幸運とすべきか。
目印はなかったのか、わたしが見逃してしまったのかわからない。

起き上がろうとすると、足に、神経を引き裂かれるような鋭い痛みが走った。
声も出なくて、歯を食いしばった。
骨折した足をさらに痛めつけたらしい。嫌な汗が額に滲む。

松葉杖は上に置いてきてしまった。
穴は思ったよりも深く、手を伸ばしても地上は遥かに遠い。
座り込んだまま、脚は身動き一つ取れなかった。
痛みがドクドクと脈を打つ。右足が危険信号を発していた。

今すぐ状況を打開したいと思うのに、為す術はなく、
授業中では誰かが通りかかるということにも期待できない。

我慢には長けているつもりだった。
けれど、このまま放課後まで耐えることを考えると、ひどく心細かった。
このまま誰にも見つけられず、ここに閉じ込められたままだったらどうしようという、浅はかな妄想に支配される。

『時空の間』の闇を思い出した。
小雨が次第に強まっていくにつれて、目の前が暗くなっていくようだった。


そのとき、
『いつでも頼ってくださいね』という温かい声が、胸に蘇った。


勇気を出して「誰か」と声を出してみる。
喉を通ったその声は、笑えるくらいに自信なさげで、か細かった。

それで、ようやくわたしは、自分が『恐れている』のだと気づいた。

そう、この世界に来る直前だって、
生命の危機に瀕しながらわたしは、喉を守るだとか言って、声を上げなかった。
叫べば、誰かに届いたかもしれないのに。
未知の扉を探すくらいなら、どうして助けを求めることが出来なかったのだろう。

――届かなかったかもしれないから、だ。

わたしは自分を助けてくれる『誰か』に心当たりがなかった。
助けを求めるという行為が苦手なのは、神様でさえもわたしを裏切るからだ。
最初から何も期待しなければ、裏切られることはない。
冷静に冷静にと努めて、それを鎧にした。

なんて臆病なんだろう。
なんて弱いんだろう。
ずっとそれが強さだと思っていた。

わたしが守っていたのはきっとわたし自身だった。
積み重なった年月が雪のようにわたしの心を凍らせた。
氷で出来たわたしの剣、鎧。
嗚呼。感情の動揺を殺して、無表情の上に笑みだけを許したのね。

深い地面の底から、雨が落ちてくる曇天を見上げた。
手を伸ばすことは不安でたまらなかった。
けれど今は、きっと助けてくれると思える人の顔がちゃんと浮かぶから。
此処には、頼れる人がいるから。この場所は安心に溢れているから。
きっと『誰か』に届くから。

授業中にごめんなさい。
でも、怪我を悪化させても、きっと心配かけてしまうから。
深呼吸をしてから、あらためて息を吸い込んだ。


「だれかっ、……たすけて!!」


たった一言を響き渡らせるだけでこんなに勇気がいるとは思わなかった。
こんなにも自分が弱虫だとは思わなかった。
声を出せたことに安心していると、しばらくして地面を駆ける足音があった。

「真珠さん! 大丈夫ですか!?」

狼穽を覗き込んだその顔を見て、どれほど嬉しかったことだろう。



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