シナ先生に様子を聞かれたので、正直に、暇をもてあましている、と答えた。
食堂のおばちゃんや小松田さんのお手伝いをさせてもらった、と。
それならと、くノ一教室の事務や雑用を少しだけ任せてくれた。
怪我人なのだから、あまり歩き回らないほうがいいとはわかっているのだけど、
わたしは何かに追われているほうが性に合っているらしい。
伊作君に会うたびに心配そうな顔をされてしまうから申し訳ない。
そんなわけで、みんなの授業中は特に、くノ一教室で過ごすことも多かった。
「そのうち、くノ一教室でなにか授業をなさってみますか」
そう提案してくれたので、わたしがお役に立てることならば喜んで、と答えた。
わたしになにができるだろう。
高校までの算術などの勉強、書道・楽器や舞などの芸道、着付けや立ち振る舞い…。
ううん、くノ一にとって益になるようなことがあればいいのだけれど。
この時代の歴史や常識にはまだ疎いので、今から勉強しなくてはいけない。
生活していてもいずれ困ることがあるかもしれないから。
書物はわたしにとって古文だけれど、どうにかするしかない。
長次君ときり丸君はたしか図書委員だから、
わたしが学園の図書室を利用してもいいかどうか聞いてみよう。
もしも専門的な忍術の本に触れることが許されなくても、物語などの本なら、どうだろうか。
生徒のみんなは、わたしを見てあまり騒ぎ立てないようにと言いつけられているらしく、
視線を浴びても、知らない子に直接話しかけられることはない。
一年は組の子たちは好奇心が抑えられなかったのだそうで、あとで土井先生に怒られていた。
わたしも、不特定多数の子に同時に話かけることはできないから、
誰かと仲良くなる機会は、偶然廊下で鉢合わせした瞬間だったりする。
「あ」
わたしを見て指差したのは、四年生の斉藤タカ丸君だった。
話は聞いているはずだから、わたしから自己紹介をしようとすると、
その前にタカ丸君は近づいてきて、わたしの髪を掬った。
「わあああっ! 綺麗な髪ですねえ!」
第一声がそれだなんて、髪結いの鑑のような子だ。すごく嬉しそう。
褒められて悪い気はしないから、ありがとうございますと返した。
それは、かつてわたしの価値をなす一端だった。
今となってはたいした意味がありはしないのだけれど……。
丁寧に髪に触れられながら、今度こそ、いつものように自己紹介した。
名前を知ってほしいというよりは、名前を呼ぶ許可がほしいのだ。
「ご存知かもしれませんが、わたしは藤森真珠と申します」
「ぼくは斉藤タカ丸です。真珠さんはくノ一教室に泊まっているお客さんですか?」
「ただの居候ですよ。お世話になっています。ところで、タカ丸君は髪に詳しいんですか?」
「実家が髪結いなんです。ぼくも忍者になる前は髪結いの修行をしていました」
「そうなんですか。じゃあ、わたしの髪は、売ったらどれくらいの価値になるのかわかりますか?」
ただの興味だったのだけれど、
幸せそうにわたしの髪を撫でていたタカ丸君の手が止まった。
この世の終わりみたいな顔をして驚愕に震えていた。
「う、売るんですか!?」
「わかりませんが、参考までに」
長い髪に大きなこだわりは持っていない。
そもそも、わたしには全てにおいてこだわりというものが欠落している。
価値さえ認められればそれでよくて、それ以上も以下もなかった。
きり丸君に頼み事もしたし、切羽詰るほどお金に困っているわけではないけれど、
この先は長いから、あらゆることを想定しておいたほうがいいと思ったのだ。
いっそ短くしてしまったほうが身軽でよいかもしれないとも思う。
わたしはもうお嬢様ではないのだから。
「切っちゃうってことですか!?」
「ええと……」
「そんなのダメですよ!」
なんて無責任な、とも思ったけれど、タカ丸君はあくまでも本気で、真顔だった。
説得するように、わたしの両手を取った。
その目には涙が滲んできて、ついにぼろぼろと零れてしまった。
「な、泣かないでください」
「こんなに綺麗なのに…そんなの、ダメですよぉ…」
「ええと、でも長いと面倒なこともありますし」
「それならぼくが毎日髪結いしますから……」
わたしの記憶だと、たしかタカ丸君は十五歳で、六年生と同じ年齢だったと思うのだけど、
なんだろう、仙蔵君たちとはまた違うと感じる、幼い子のような無邪気さは。
編入したのが遅かったせいか、はたまた素直な本人の性質か。
「それは、さすがに悪いですよ」
「じゃあせめてたまに! たまにでいいので、髪を弄らせてください。切るなんて言わないで」
そんなふうに懇願されて、わたしは、すっかり悪いことをしたような気分になる。
こだわりがないということは、切っても切らなくてもどちらもでもいいということだ。
切らないでほしいと願う子がいるのなら、切らないでおいてもいい。
何かを願われることが嬉しかったというのもある。
「わかりました。じゃあ切りませんよ」
「ほんとうですか? よかったあ!」
心からほっと安心した笑顔を見て、わたしも嬉しくなった。
時間があるときに髪結いを頼んでみよう。
「なにしてるんですか、タカ丸さん」
廊下の後方から、呼んだのは滝夜叉丸君だった。
「遅いと思ったんですよ、まったく。合同授業に遅れますよ」
「あ、ごめん」
「そちらの方は、例の?」
「うん、藤森真珠さんだよ」
目が合ったので、会釈をして「はじめまして」を言うと、
滝夜叉丸君は自信に満ちた笑みを浮かべて華麗に話し始めた。
「はじめまして。既にご存知かもしれませんが、教科もナンバーワンなら実技もナンバーワン、学年一優秀で戦輪の名手でもある滝夜叉丸とは私のことです。そもそもなぜ私がこんなに優秀かというと………くだぐだ……」
それは幼い頃から聞きなじんでいた音声だったので、わたしはある種の感動を覚えた。
わあ、これはもしかして放っておいたらこのまま延々と続くのだろうか。
合同授業に遅れてしまうのではないかしら。
タカ丸君を窺うと、どうやらいつものことのようで、ただただ苦笑していた。
しかたないなあ。
「そうなんですか! 滝夜叉丸君って凄いんですね。教科も実技も一番で戦輪の名手だなんて。優秀な理由というのも納得です!」
話を遮って、注意を引くためにその両手を取った。
すると滝夜叉丸君は一瞬呆気に取られてから、また話し始めようとしたので、わたしは「詳しく聞けないのは残念ですがこのままでは授業に遅れますよ」と忠告した。
「そうでした。ではまた、いずれ詳しくお話しましょう」
「ええ、ありがとうございます」
実は昨日、田村三木ヱ門君に会ったばかりだったのだけれど、
ふたりの共通点は自己紹介が長いことだな、と思った。