■ 25話

二日酔いに苦しめられていた白澤は、リビングの机に突っ伏したまま、迫りくる吐き気と格闘していた。

飲み会から一日と半分以上が過ぎた今日。
床に転がされていたまま長らく放置されていた白澤は、地面から伝わる冷気に身を震わせながら、無理やりに瞳を開けた。
寒さに身を震わす白澤の目に飛び込んできたのは、地べたに転がされた上になぜか布団が被さっているという己の不思議な状況だ。きょろきょろと周りを見渡すが、辺りには人気はおろか兎の気配すらなく、外は夕焼けの光でぼんやりと明るい。一体今は何時なんだ?と壁に掛けてある時計を確認しようと首を回したところで、思い出したかのように急激な嘔気に襲われた。
そうだ、そういやアイツに乗せられて飲み比べしたんだった。ここ最近は限度を弁えて飲んでいたつもりだったのだが、やはりあの鬼が居ると自制が効きにくい。アイツがウワバミだって知ってたのに、煽られるまま飲み比べなんて我ながら馬鹿なことをしたもんだ。
ガンガンと痛みを訴える頭を抱えながら過去を悔やむが、酔ってしまったものはどうしようもない。
しかし久しぶりにえらくヘビーな二日酔いがきたもんだ。頭の芯はがんがんするし、足元もおぼつかない。
こんな時には黄連湯に限る。そう考えた白澤は、いつものように元英雄の弟子の名前を呼んだ。

「うぅ…桃タローくん、黄連湯作って…」

必死で嘔気を堪えながら、弟子の桃太郎に酒冷ましの漢方を強請るが返事がない。普段なら台所から、はいはいと投げやりな返事が聞こえるはずなのに。
返事どころか物音一つしない事に疑問を抱きながらも再度、黄連湯、と呟くと、ガタガタと何かしらが動く様な音が聞こえた。酒で朦朧とする意識では音の出自がどこであるかは判断が付かないが、どうせ桃太郎が動いてくれたのだろう。返事が無いのは珍しい、とは思いながらも、猛烈な嘔気に抗えなかった白澤は、物音の方へ顔を向けること無くカウンターに突っ伏した。





全裸じゃ駄目だからと着物を買い、通りすがりの檎さんに絡まれ、その後も女性の意見がほしいからといわれて鬼灯様と買い物をしていたらすっかり日が暮れる頃合いになってしまった。
今日は休むと連絡を入れはしたのだが、白澤様、桃太郎先輩共に返事の一つも帰って来なかったため、もしかしたら連絡不備かと思い一応顔を出しに来たのだが―――。

「閉まってる…」

今日は通常営業日のはずなのだが、と名前は小首を傾げた。
今は夕方少し前、通常ならばもうぼちぼち閉店準備をし始めようかという時刻だ。しかし薬局には、なぜだか『本日休業』と書かれた札が引っ掛かったまま。休業の札は休みの日にしか掛けないはずだし、もし早めに店を閉めたのだとしても休業ではなく、準備中の札が掛っているはず。
駄目もとで休業中の札が掛った扉の取っ手を回すと、ガチャリと音を立ててすんなりと扉が開く。その不用心さに少し目を張ったが、ここは天国だし泥棒なんてそうそういないかと思い直した。
治安がいい場所だからうっかり鍵の掛け忘れたんだろう、そう結論付けた名前が恐る恐る店内に足を一歩踏み入れると―――そこには、店先のカウンターに屍のように突っ伏し動かなくなっている白澤の姿があった。
カウンター辺りは若干酒臭く、よくよく耳を澄ますと、うっぷ、というえずく声まで聞こえる。急いで青い顔をした白澤に駆け寄るも、酒に酔った時の対処法など思いつくはずもない。出来ることといえばせいぜい、白澤の背をさすりながら、桃太郎若しくは調合担当の兎従業員を探す事くらいだ。
誰ぞ居まいか、ときょろきょろと周りを見渡すが、桃太郎の姿はない。珍しい、今日は仕事だと言っていたはずなのに。
ならば兎の先輩方に頼るしかない、と先輩方の名前を呼んでみると、どうやら台所に引っ込んでいたらしい一羽がぴょこりと顔を突き出した。どうしたらいいかという意味を込めて、白澤様の背中を指差すと、心得たように一つ頷き、ちょいちょいとその小さな前足でこいこいと手招きされる。その前足には、小さな湯呑の様な物が握られている。
呼ばれるままに台所に足を向けると、まるで待っていましたと言わんばかりに先輩方に囲まれた。驚く間もなく、どこから出してきたのか木の匙と、湯呑を手に持たされる。
先輩方のジェスチャーから察するに、兎じゃ黄連湯を上手く混ぜられないから、人型の私が混ぜろ、という事らしい。薬を作る方面に関してはセンスが絶望的に不足している私が混ぜて大丈夫なのだろうか、という考えがよぎったが、この場にこれを作れる人物は私を除いていない。
薬を潰したり砕いたりするのは無理だけど、混ぜるくらいなら出来るかもしれない、と無理やり前向きに考え、熱い湯気を立てる黄連湯をぐるりとかき回した。





ふわりといい香りのする風が一筋通ったと同時に、嗅ぎ慣れた黄連湯の匂いが白澤の鼻孔をくすぐった。
ぐるぐる回る視界の中、カウンターの端にことりと湯呑が置かれる。ついで漂う黄連湯の濃い匂い。白澤は誘われるように、目の前に差し出された湯呑に手を伸ばし、それを口に一口含んだ。
ゆっくりと口腔内に流し込まれる黄連湯。その中に含まれていた、溶け切っていない小さなひと固まりが、どろりと舌触り悪く喉元を通り過ぎる。その得も言われぬ感覚に、手に持っていた湯呑がごとりと床に転がり落ちるが、白澤の脳内はそんなことよりも、喉元を通りすぎる不思議な薬湯で一杯だった。
湯で溶いてあるはずなのに、何でこんな固体状の物が残っているんだ。いや、それ以前に、桃タロー君が黄連湯すらまともに溶かせないはずがないのに、なんでこんなに妙な舌触りなんだろう。
もしかしてとうとう嫌がらせに踏み切ったのだろうか、と恐ろしい考えが白澤の脳裏をよぎったが、それを振り払うかのように妙に舌に残る薬湯の残りを、横に置かれていた白湯で流し込んだ。

「うぇ…ま、」

薬湯の妙な不味さに思わず『不味い』と口を開こうとした白澤は、無理やりその言葉を喉の奥に押しやると、グッと息をのむ。
いや、のまざるを得なかった。なぜならそこには、困ったように眉根を寄せた名前が、自身が先ほど地面に転がしてしまったのであろう湯呑を手に、顔を青くさせていたからだ。
やっぱり、と小さくうわごとのように呟いた名前は、土下座でもしかねない勢いで白澤に頭を下げると、震える声で口を開いた。

「すみません白澤様!混ぜるぐらいなら出来るかもしれないなんて、大間違いでした!」

まさか、かき混ぜるだけという非常に簡単な作業ですらできないなんて、とがっくり肩を落とした名前は、腹の底から吐き出すようなため息をついた。
やはり己には草刈りと薬草採取能力しか備わっていないらしい。粉を溶かすだけで、酒覚ましの薬を劇物に変えるなんて、よほどセンスが無いとみえる。
頭を下げてもどうしようもないのはよく分かってはいるが、謝らずにはいられない。本当ならとっとと解毒薬なりなんなり取りに行くべきなんだろうが。
解毒薬はどこの棚に仕舞ってあったかな、と必死で記憶を手繰り寄せていると、ふいにポンと頭に重みが掛る。何事だろう?とちらりと視線だけ上にやるとそこには、いつも笑みを浮かべる白澤様の姿があった。

「薬湯は美味しくないものだから、大丈夫」

喉を通れば味も何もないし、と朗らかに笑う白澤様だが、明らかに顔色は悪いままだ。普段はこれを飲んで暫らく経てば元気になっていたはずなのに。
二日酔いで苦しいのが楽になればと思っただけだったのだが、結果的に留めを刺すことになるだなんて誰が予想しただろうか。

「混ぜるだけで失敗するなんて…」
「ほら、今日は空きっ腹だから舌が敏感だったんだよ。ね?気にしないで?」
「すみません…お水を持ってきましょうか?それとも解毒薬を?」

見た所どんどん顔色が悪くなっていったりはしていないようだが、なんたってセンスゼロの私が混ぜた黄連湯だ。大本はいかに有能な先輩方が調合した代物と言えど、もしかしたらということもあるかもしれない。
やっぱり解毒薬を、と薬の仕舞ってある棚に向かおうと身体の向きを変えた瞬間、柔らかく肩を掴まれた。

「大丈夫大丈夫。僕の身体に変化もないでしょ?今日のは失敗じゃないよ」

顔色が悪いのは二日酔い。吐き気も収まったみたいだし、今日のは逆に成功じゃないかな?と柔らかく微笑んだ白澤様に申し訳無さを感じつつも、その優しい言葉に心の荷が少しだけ軽くなった気がした。味が劇物な時点で到底成功したとは言い難いのだが、流石に兎の先輩方が作った薬だけあって、黄連湯本来の効果は消失しなかったらしい。
ようやく薬が効いてきたのか、少しだけ顔色が良くなった白澤様は、よいしょと小さく掛け声を漏らしながら手近な椅子に腰かけると、湯呑に少しだけ残っていた白湯を喉の奥に流し込んだ。

「まさかこんなに酒が残るとはねぇ…地獄の酒を甘く見過ぎたかな」

ついつい限度を超えちゃったのも悪かったか、と恨めしそうにぼそりと呟くなり、ぶるりと背筋を震わせた白澤様は、両手で自分の身体を掻き抱くようにぐっと身体を縮こまらせた。その見るからに寒そうな様子に、温かい飲み物でも持ってきましょうか、と問うと、白澤様は少し考える様なそぶりを見せた後、へにゃりと笑ってお願い、と呟く。
白澤様が寒さに打ち震えているのも仕方がないことだ。なんたって、薄い掛け布団を掛けたという心許ない装備で地面に転がされていたのだから。
本来ならベッドにお連れするべきだったのだろうが、機嫌の悪そうな鬼灯様に、白澤様をベッドまで運んで下さいなんていう恐ろしいお願いを出来るほど私の心臓が強い訳もなく。
罪悪感からかついつい口から反射的にすみません、という言葉が漏れ出ると、謝罪に反応した白澤様が、何が?というように小首を傾げた。

「一晩床なんて寒いですよね。昨日は寝室までお連れできず…すみませんでした」

地面に転がしたまま一晩過ごすことになった白澤様は、さぞかし身体が痛かっただろう。布団を掛けたには掛けたが、掛け布団だけだ。地面が固い事に変わりはない。それに加えて地面からの冷気が身体を冷やすのだから、それはもう寝心地最悪だっただろうに。
やっぱり勇気を出して鬼灯様にお願いすべきだったか、とひっそり過去を悔やんでいると、ようやく謝罪の意味を把握した白澤様がもしかして、と閃いた様な声を上げた。

「昨日って…名前ちゃんが僕をここまで連れ帰ってくれたの?」

桃タロー君も?と驚愕の声を上げた白澤は、自分で言った言葉を反芻して小首を傾げた。
昨日の彼女は兎姿だったはずだ。その名前ちゃんが男二人を連れて帰れるはずがないし、あの時間帯ではタクシーも捕まらなかっただろう。ならば己を連れ返ったのは、少なくとも男だろうと推察できる。
しかし名前ちゃんに衆合地獄に人のツテがあるようには見えないし―――とそこまで考えた白澤は、ある一つの可能性に冷や汗を垂らした。あの場に居た輩で、地獄からここまで男二人を抱えて移動できるほどの力を持った鬼な上、酔い潰れていなかった男に心当たりがあったからだ。
もしや、と嫌な予感に冷や汗を垂らす白澤を寒さに震えているのだと勘違いした名前は、急いで温かいお茶を白澤に勧めると、一つの可能性に震える白澤に留めとも言える爆弾を投下してきた。

「私は道案内をしただけで…鬼灯様が白澤様と桃太郎先輩を背負ってここまで連れ帰ってくれました」

私だけでは無理でしたよ、と苦笑する名前を余所に、白澤の心中は大荒れだ。
やっぱりか、アイツにだけは借りを作りたくなかったのに、とげっそりする白澤にある一つの疑問が浮かぶ。

「ちょっと待って、じゃあ名前ちゃん、帰りはもしかしてアイツと帰ったの?しかも新月でもないのに人間姿だし!」

兎から人間に変化する機序は月の光云々が関わってくるのだと判明したばかりだ。しかし昨日は新月とは真逆の満月。どう考えても月の力が足りないなんて事はありえない。
それに、彼女は基本は兎姿だから必要無いと着物などは持っていなかったはず。人間時に着用するために購入したのはジャージだけで、後はあの部屋に仕舞ってあるお古の着物を着ていたのだ。しかし、今彼女が身につけているのは見覚えのない花柄の着物である。

「名前ちゃん、自分の着物持って無かったでしょ?それ、どうしたの?」

柔らかな口調とは裏腹に、白澤の表情は固い。
まるで緩やかに問い詰めるような物言いに、どことなく恐れを感じた名前は小さく後退りした。
白澤様はやっぱり目敏い。白澤様には自分の着物を持っていないことや、買いにも行っていない事を話したことは無い。確かに、白澤様にお古の着物は好きに使ってくれて構わないと言われた際に、じゃあ暫らくは買わなくていいですね、と返事をしたにはしたのだが、まさかそれを覚えていたのだろうか。
あの箪笥には無い柄だよね、と呟く白澤様の声色は穏やかだが、いかんせん目が恐ろしい。まるで嘘は許さない、とでもいう様なその瞳に誘われるようにいつの間にか口が開いていた。

「これはその、色々ありまして…今朝買って頂きました」

多少ボカした表現だが、一切嘘は言っていない。誰にとか何処でとかは全部抜けているが。
これで勘弁して下さい、という意味を込めてそっと白澤様を見上げると、目が一切笑っていない表情のまま、鋭い一言が投下された。

「誰に?」

その問いかけは存外優しかった。ただ、瞳が早く言えと圧力を掛けている点以外は。
無言で続きを促した白澤に圧し負けた名前は、緩やかに圧力をかけてくる白澤から視線を外しながら、非常に言い難くそうに口を開く。

「ほ、鬼灯様です」





僕が存外恐ろしい声を出してしまったからか名前ちゃんは、あの常闇鬼神の名前を漏らすなり、詳細はまた後日お話しますと言い逃げると、温くなったお茶を汲み直してくると言い残して台所に引っ込んでしまった。
これは悪い事をした。別に彼女を責めるつもりではなかったのだが、あの闇鬼神に服を買ってもらったと聞いて、どうも感情が押さえきれなかったのだ。やはりあの鬼は気に食わない。
アイツが選んだらしい白の可愛らしい花が散らされた落ちついた印象の着物は、ムカつく事に名前ちゃんに良く似合っていた。
ただ、問題はその柄が鉄線の花であることだ。鉄線の花言葉は、心の美しさ、高潔、それに―――。

「縛りつける」

仕事馬鹿の拷問鬼に花言葉の心得があるとは思えない。たまたまこの着物が名前ちゃんに似合っていたから選んだだけの事かもしれないが、しかし。
奴は欲しい物は絶対に手に入れるタイプだ。何時この一風変わった従業員と接点を持ったかは知らないが、兎時の彼女はまさに奴の好みドンピシャだろう。
可愛い生き物を愛でる気持ちの延長か、それとも果たして別の感情か。
どちらにせよ、大事な従業員が鬼の魔の手にやられないよう気を配らねば、と白澤はひっそり決意を固めるのであった。


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