■ 11話


 じゃあこの部屋好きに使っていいからねと言うと白澤様はお風呂の準備してくるねと部屋を飛び出して行ってしまった。パタパタという足音が遠ざかるのを確認してから部屋の窓という窓をすべて開け放つ。
心地よい夜風が吹きこむと同時に、この部屋に満ちていた多種多様の香の匂いが逃げて行った。ぐるりとまわりを見渡すと、端々に可愛らしい小物が置かれているのが見える。おそらくこの一室は白澤様の恋人が使う部屋なのだろう。だとすればいろんな香りが漂っているのもうなずける。

極楽満月で働き始めて早一月、最初の一週間足らずで私の中の白澤様像は良い意味でも悪い意味でもガラリと変化した。始めは、偉い方なのだからきっと胡坐をかいてアレコレ指示するのみだろうと心のどこかで考えていたのだが、白澤様はほぼすべての薬を手ずから作られる方だった。簡単な薬も完全にお弟子さんが作れると判断してから任せる徹底ぶりは憧れどころか尊敬すら感じたものだ。しかし、良いところが目に付けば悪いところだって目に付く。古今東西神様が幾人もの妻を娶ることが多いように、彼も恋人の移り変わりが激しい方であった。私は外周りが多いからあまり見る機会は無いが、特に多い時だと一週間で女性が変わっていたような気がする。今の一夫一妻の時代ではあまり褒められるものではないとは思うが、上司の交際関係に首を突っ込むのも野暮だしなによりプライベートはそれぞれ自由にすべきだ。しかしやはり神と言われる者は女に弱いのかと思ったものである。

草の香りがする風が部屋に満ちたのを確認して、パリッとしたシーツが掛けられたベッドにそろそろと腰かけた。マキちゃんへの連絡は留守電になってしまったが、ちゃんと伝わっているだろうか。こんな時連絡手段が無いと不便だ。初給料が出たら何より先に携帯電話を買いに行こう。
ふぅとため息をつきながら深く座りなおすと疲れがドッと押し寄せてきた。兎から人への変身に加え、長時間の頭痛は自分が思うより身体に多大なストレスを与えていたようである。もしくは鎮痛薬が効いているのかもしれない。このまま横になって寝てしまいたいところであるが、白澤様がせっかくお風呂を用意して下さっているのだ。ごろ寝して待つなんて失礼極まりないと頭の隅で考えながらも落ちる瞼に抗う事ができなかった。



「名前ちゃんお風呂の準備できたよー……あ」

 何度かノックしても返事が無いので、そっと扉を開くとベッドに座ったまま舟をこぐ名前ちゃんがいた。かっくんかっくんと頭が前後左右に揺れており、今にも転げそうだ。こんな姿で寝かせる訳にはいかないと名前を呼びながら名前ちゃんに横になるよう告げると、彼女は薄く瞳を開くとむにゃむにゃ言いながらそのままの体勢で二度寝しようとした。ちょっと名前ちゃん、寝るのは良いけどその姿勢は体痛めるよ。仕方が無い、横になってくれないのならいっそ一回起こしてお風呂入ってもらってから寝た方がよく眠れるだろうと考え、割と強めに彼女をゆする事にする。

「名前ちゃん起きて。お風呂入ってから寝よう?」
「ぅーん……うん…そうします…」

起きたなら立とうか、と起き上がるよう促すと名前ちゃんは心元ない足付きでふらふらと立ち上がった。しっかり前を見るんだよと注意するが、はいと返事を返すとそのまま扉が閉まっている事に気づかず思いっきり額をぶつけた。いわんこっちゃない。

「あーやっぱりやると思った…大丈夫?」
「痛…あ、白澤様わざわざ起こしに来て下さったのですか?ありがとうございます…」
「痛みで起きたんだね…」

赤くなった額を摩りながら涙目でお礼を言う名前ちゃんは可愛らしいが、この子こんな調子でお風呂で溺れたりしないだろうかと一抹の不安を覚える。風呂場の位置は把握しているから白澤様はお休みくださいと言い張る彼女をどうにか言いくるめ、念のためと風呂場まで誘導し、名前ちゃんの着替えを用意していた兎に一応彼女がお風呂で寝ないように見ているようお願いしておく。ばしゃんとお湯をかける音を聞きながら風呂場を後にした。



先ほどは白澤様に失態をさらけ出してしまった。寝落ちしないようにと必死に瞼を開けていたつもりだったのだが、何時の間にやら瞼が閉じてしまっていたようだ。お風呂では寝ないようにしようと心に誓いながら肩までお湯につかる。少し熱めの湯が疲れた体に沁み渡るようで頭がぼんやりしてくる。ゆるゆると瞼を半分ほど閉じると、脱衣所の方から一羽の兎が駆けてきた。兎は手に持っていたタオルを思いっきり私に投げつけると、前足で頬をぺしぺしと叩く。その前足が存外小さい事に驚いた。自分も兎の時はこんな前足なのかなと感慨深く前足を眺めていると、兎は急いで踵を返すと店内に駆けこんでいった。何か用事があったのだろうかと兎が消えた方向をぼんやり眺めていると、遠くの方からバタバタという足音が聞こえてくる。え?何事?と思う間もなく脱衣所の扉がバターンと開かれた。

「名前ちゃん!」
「えっ?!」

扉から出てきたのは寝巻に着替えた白澤様であった。手には何やら濡れたタオルと氷嚢を抱えている。白澤様は目にもとまらぬ速さで湯船まで駆けよると、濡れタオルで私の首元を覆った。そのひんやりした感覚に思わず息をのむ。

「ひっ…冷たっ!は、白澤様!?」
「名前ちゃん逆上せるまで浸かって!」
「えぇ…?」
「兎が知らせてくれたかったら溺れてる所だよ全く」

ぷりぷりと怒りながらも私を冷却し続ける白澤様。そのひやりとした冷気が身体に心地よい。どうやら自分が気づかないうちに逆上せていたようである。意識もはっきりしていたし特にそんな感じはしなかったのだが、疲労故に分からなかったのだろうか。なんて不甲斐ない…今日は一日白澤様のお世話になりっぱなしだ。非常に申し訳ない。
ありがとうございますとお礼を言い、白澤様から氷嚢を受け取ると額にのせる。ふぅと一息ついた所で今現在とんでもない状況なことに気付いた。私また全裸だ。またか!と思いながら白澤様にばれないよう、乳白色のお湯にゆっくりゆっくり沈んでいく。白澤様はまだ心配そうな顔をしていたが、必死に後少し休んだら上がるから大丈夫だと告げるとしぶしぶ店の中に戻って行った。
今日は本当に肝が冷える日だ。なんて濃厚な一日だろうと思いながら、少しぬるくなった氷嚢を頬に当てた。



「あ、名前ちゃん大丈夫?頭はぼんやりしてない?」
「白澤様!はい、白澤様のお陰で随分頭はすっきりしています」

あの後さっさとお風呂を上がり、ほてった体を冷まそうと少し夜風に当たっている所にお茶を持った白澤様が近づいてきた。はいどうぞと差し出されたお盆の上にはコップが三つ乗っている。よくよく見ると右端のコップには桃のマークがプリントされていた。これは絶対桃太郎先輩専用コップだ、使わないでおこう。桃マークがついている横のコップを取ると、中に入っていた氷がカランと音をたてた。

「今日は疲れたね」
「そうですね…なんだか色々忙しなかったです」
「急に身体の造りが変わっちゃうんだから、しんどいだろうねぇ」

白澤様はお疲れ様、今日は早く寝なよと言うと眉を下げて笑った。今日は本当に白澤様に迷惑をかけてばかりだ。しかしあまり謝り倒すと逆に気を遣わせてしまうだろうし、よりいっそう業務に真剣に取り組むことで恩返しをしよう。そう心に決めてコップの中のお茶を飲み干す。麦茶とも緑茶とも違う、少し不思議な風味のするお茶だった。おそらく白澤様か桃太郎先輩のブレンド茶であろう。

「でも、身体の使い方は何となく覚えてるのが不思議です」
「そればっかりは体に染みついてる、としか解釈のしようがないなぁ」

久方ぶりの人型だというのに、まるで兎で過ごしていた事が嘘のように人の身体の動かし方を覚えているのだ。適応力とは誠に不思議なものである。

「不便は無いのでいいんですけどね」
「確かにその姿でぴょんぴょん飛ばれたら困る」

名前ちゃんがジャンプして移動なんてしてたらおかしな眼で見られちゃうからねとカラカラと笑う白澤様。確かに人間が兎仕込みのジャンプで移動していたら絶対敬遠される。身体の使い方覚えてて良かったと心底ホッとした瞬間、台所の方からお盆を持った桃太郎先輩がこちらへ歩いてきた。良かったらどうぞと差し出された皿の上には小ぶりな草餅が幾つか乗っている。すんと匂いを嗅げば、草餅特有の青々とした匂いが漂ってきた。ものすごく美味しそうだ。草餅に誘われるがままに手を伸ばすと、それより先に白澤様の手が草餅を攫っていった。

「うん美味しい!さっすが桃タロー君、器用だねぇ」
「桃太朗先輩、お菓子作りもお上手なんですね!」

口に含むと、柔らかな餅と粒が残った甘さ控えめの餡子がいい感じに混ざり合ってとてもおいしい。それにどうやらヨモギだけじゃなく他の物も混ぜているようで、安らぐような心地よい香りが鼻腔をくすぐった。

「これ、ヨモギ以外にもすごく良い匂いがします」
「やっぱり兎なんですね。リラックス効果を目的にちょっと色々混ぜてみたんです」
「僕にはヨモギの匂いしかわからないけど…」
「本当に微量しかいれてないんですよ。気がついた名前さんの鼻が特殊というか…」

でも、気づいてもらえてうれしいですとはにかむ桃太郎先輩を見た瞬間、私のそこそこ利く鼻よくやったと賛美を送ってあげたい衝動に駆られた。おそらくリラックス効果を盛り込んでくれたのも、私が頭痛に見舞われた事を知っているからこその気遣いだろう。ありがとうございますと二人に告げれば、二人とも少し不思議そうな顔をしながらやりたくてやったのだから気にすることはないのだと言った。優しい人ばかりの職場で本当に幸せだなと思いながら、お二人の顔を見るとおいしそうに餅を頬張りながら星空を眺めている。自分もそれにならって星を楽しんだ。


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