「透様。私少し離れますね。あ、すぐ戻ります」
「分かった。あまり待たせるなよ」
透がプールの金魚に夢中になっているのを見て、遍は朧を追いかけた。
朧はまだそう遠くへは歩いていなかった。まばらに歩く人と人の間をすり抜け、朧の隣に肩を並べると、彼の方が目線は上にあった。透と歩くなら、透と同じくらいの背格好の自分なんかより、幾分か高いこの男の方が釣り合いそうだ。男として負けたように感じた遍は背筋を張って、彼の横顔を覗く。切れ長で一点の曇りもなさそうな眼が、こちらを見ていた。
「お前か」
「透様のことは、もういいのですか」
「お前こそ。透を一人にしていいのか。宣戦布告ならよしてくれ。俺はお前に勝てないさ」
「てんでダメですね」
「は?」
何も分かっていないらしい。思わず目元を手で覆って、はぁとため息をついた。これでは透と少しも変わらない。
透も誰から拍手喝采を受けるでもなく他人の幸せのために己の命すら潰してしまうような人物で、たった一つの幸いと言えばこの色男に長く慕われていることくらいだ。
まるで分からないという顔をしている朧に、遍は最後も切り札とも呼べるあるものを懐から出す。これでどうだ。遍の念願はようやっと叶って、彼はその端正な顔を思い切り引き攣らせた。
「おい、何でお前が持ってる」
透に届いた、朧の手紙だ。
「透様には見せてない」
「何!?」
デートの誘いを他人に見られたとあらば、男のプライドも傷ついて当然だろう。さぞ残念がるだろうとたかを括っていたが、しかし朧の一言で氷を頭からかぶったように心を冷やされた。
「透は見ていないんだな……よかった」
はあ、と心落ち着いたというように安堵のため息をついて、朧は胸を撫で下ろしている。信じられなかった。以前城で透に殺されかけたというのに、懲りずに文通を送ることから異常だと思っていたが。全く、欲のない男である。
「本当にわかってるんですか。私が透様にその手紙を見せていれば、あなたは今日一緒にこの祭りを歩けたかもしれなかった。けど私が見せなかったせいで、」
「わかってるさ。透は幸せそうだった。俺はそれを一目見れた。それだけでいい。十分だ」
透き通り凜とした朧の声が、祭りの喧騒をすり抜けて遍の鼓膜を震わせた。かける言葉もなかった。しばらく黙り込んでいると、背景だと思っていた蝉の声が、いつの間にか主役のようにステージに居座っていた。
遍は朧の妙に精悍な面持ちが気に食わなかった。彼が好きな女の気持ちを汲んで自ら身を引くような男だとは、分かっていたはずだったが。
「全く、あなたは思い通りに動いてくれませんね」
「そうか。それはすまないな」
遍は前々から、透を奈落から解放してやりたかった。それが透への恩返しだ。しかしこれでは自分のやったことが意味をなさない。朧が透を奈落から連れ出してくれるだろうと踏んでいた先程までの自分が愚かでバカバカしい。
ここで腹をくくる他、術はなさそうだった。
色々とこの日のために練った策が崩れ落ちた今、遍には正面衝突するしか残っていなかった。
自分の立場なんて知ったことか。こっちだって、あの人のためなら、幕府ひっくり返す覚悟だってできている。
「あなたに、頼みがあります。あの人のことを、自由にしてやってください。あなたがあの人を想うように、あの人もまた……あなたのことを想っている」
「................」
遍の伝えたいことはよく分かった。
お前を幸せにすることに命をかけた透のことを、次はお前が幸せにしてやれと言っているのだ。
「お願いします。朧様。透様の心は、あなたしか」
この男は少し大袈裟ではないだろうか。朧は目に涙をためる情けない男の、垂れたこうべを見つめていた。
透は今のままでも幸せそうに見える。彼女の幸せを壊してしまうようなことは絶対にしたくない。だから透の気持ちがわかるまでは、ひとまずこの話は保留にさせてくれ。朧は遍に考える時間が欲しいと伝えた。
しかし遍は、実はそんなことをしている場合ではないのだと、最後には汚い地べたに、頭を打ち付けて土下座した。
「この通りですから。一つ頼まれてはくれませんか。透様には、時間がないのです」
「あの子、トイレ遅くないか?」
「大丈夫だよ。便秘だから」
「ごめん、何が大丈夫だかさっぱりなんだけど」
狭いビニール袋の中で泳ぐ金魚を見つめながら、透は遍の帰りを待っていた。銀時の店は主張が弱すぎるせいか先ほどから一人も客が寄り付かない。
最近は元気でやってるのか。飯は食ってんのか。実家のおかんのように鬱陶しく話が途切れぬよう聞いてくる銀時に、透は相槌程度に返事をしていた。不思議なことに、銀時は奈落のことには触れてこなかった。攘夷戦争時代、吉田松陽を斬り、全ての因縁を切ったつもりでいた。しかし城での一件で、銀時は国賊として透の前に現れた。あの白夜叉が再び戦場に戻って来たのだ。守るものは昔から変わらず、松陽だった。
それを今のあの人が、虚が見たら何というだろうか。透は銀時に真実を知って欲しくないと思っていた。当然二人を会わせたくもない。他の弟子たちも同様に。いつかまた松陽として生まれるあの人を、できることなら会わせてやりたい。
「ケホッ、ケホッ」
「おい、透!大丈夫か!」
「大丈、夫」
「大丈夫ってお前、」
こんな情けないところは、弟弟子には見せられない。もう行くよ。金魚をビニールからプールに返してやると、金魚は水を求めて苦しそうに呼吸をしているように見えた。
私も同じように、ゼエゼエと焦る肺を抑えて歩き出す。銀時は追ってこなかった。ひどく安堵している。こんな血まみれの手を見せたら最後、地獄に道連れにしてしまうのだから。
この事実を知っているのは遍だけだ。早く彼と合流しないと安心できない。遍がいるのなら、いつどこで倒れてもいい。きちんと私を葬ってくれることを約束した遍によって、私はきっと報われるだろう。
でも、まだ死ぬわけにはいかない。正直、透はもう死んでもいいと思っていた。どうせ蘇るのだから次の自分に全てを託してもいいと思った。朧、信女。銀時、晋助、小太郎......弟子達と過ごした幸せは、私の願った彼らの幸せは、生まれ変わった私には引き継がれない。それでもよかった。彼らが虚とは縁もないところで幸せに暮らしていたらいいと思っていた。
しかし、そうする訳にはいかなくなった。
何かを守るために大勢を敵に回すような弟子達は、着々と虚の元へと近づき、絶望へと足を運んでいた。全く、そんなところは松陽そっくりだと思う。
だから、透は死んでも死にきれないのだ。
この時、まさか朧が私の秘密を耳にしていたなんて、私は信じたくもなかった。
「透様は吉田松陽の娘でも、何でもない、ただの人なのです。
あの人の体内の不死の血は、もうすぐ枯れ果てる」
30.10.5
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