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ふわりと宙を浮遊している様な感覚に、ニーナは静かに瞼を上げた。見上げた先には変わらず快晴が広がり、ザパンと響く波は耳を擽る。
浮かべた木片『クウイゴス』の小さな板の上で、ニーナは四肢を海に投げ出しながらぼんやりと空を見上げていた。
能力者であるニーナは、もし浮力を持つその板から落ちれば、そのまま抗う術もなく沈んでしまうだろう。もしほんの少しでも高い波が来たら、きっと投げ出されてしまう。
それでも、ニーナはその場所から動く気配は見せなかった。
海水に絡めとられる四肢から力が抜けていく。襲う倦怠感や脱力感に、マトモに力など入らない。ジワジワと泥の様な疲労が浸透していく感覚は、まるで本当に海に沈んで行くようだ。けれどそれが心地良い。
何時でもこの波でその命を飲み込んでやれる、と突きつけてくる海の声に、ニーナは静かに身を任せていた。
恐らく一時間程そうしてぼんやりしていただろうか。徐にニーナは起き上がり、怠い身体を駆使して、小さな木片の上に立ち上がった。
波に揺られる木片の上ほど足場の悪い場所は無いが、ニーナにとってはそれほど苦ではない。
背中に流れる髪をまとめ、海水を絞り出す。同じ様に、服の所々を絞って力を奪う海水を追い出すと、漸く使えるようになった能力で海面から浮き上がる。そうして最後に未だに浮かぶ板を掴むと、すぐ傍にある島へ向かって風を吹かせた。
***
コンコン、とノックの音がして家の主人、ディランが応対する。扉を開ければ、やはり、びしょ濡れのニーナがそこに立っていた。
「ただいま戻りました」
「ン。服は用意してあるから、さっさと風呂に入れ」
「はい。ありがとう」
ニーナの可笑しな趣味に、ディランは内心深くため息を吐いた。その心境が解らないでもないが、能力者でありながらこんな形で海を楽しむ者は、ニーナくらいだろう。
いや、楽しんでいると言っていいのかは解らないが。
「いつも思うが、そんなにいいものか?」
「……フフ。私も、ただの人間かもって思えるもの」
手早くシャワーを終えて出て来たニーナに、ディランはそれ以上の追求をしようとは思わない。
今のように僅かに寂しさの混じった目をした時は、この少女の好きにさせてやるのが一番だ。
「それと、ほれ。言われてた薬酒だ」
そういって部屋の隅に置かれた大きな徳利を指差す。それにニーナは嬉しそうな笑みを作った。
けれど、テーブルに用意されているバスケット一杯のクッキーを見た時の方が、瞳は一層輝く。
「わっ、美味しそう。いっただきま〜す!」
サクサクと口の中に広がる甘みを堪能していれば、バサリとディランが広げた新聞の記事が目に入る。
「あ、また何かやらかしたの?その新人(ルーキー)」
「なんだ、知ってるのか?」
「ええ、まあ。七武海への勧誘を蹴ったって、一時期本部じゃ結構な騒ぎで」
そういえばガープがいつになく妙に不機嫌だったが、何か関係があるのだろうか。
と考えれば、その時に他の中将と追いかけっこの最中、ガープに殴られたタンコブを思い出し、フルリと肩を震わせた。
「興味あるのか?」
「そりゃ、活きのいいルーキーは、こっちもワクワクしてくるから。思うままに夢一杯で海を謳歌なんて、羨ましいなあ」
目を細めてそう言う表情は変わらず朗らかだが、その声には何時もの弾みが無い。いや、そんな気がしただけかもしれないが、ディランにはそれだけではないことは解っている。
「……いいのか?あまり海賊に肩入れをして。先月も監獄送りだったんだろう」
「アハハハ。ま、まあ、それもそう、かな」
海賊への加担が目立ち、センゴクの一喝によって既にニーナはもう四回、大監獄を経験していた。三回目に入獄した時のマゼランのなんとも言えぬ顔は、いまでも覚えている。
「でも、海軍が怖くて海賊はやれないから」
「……まあ、お前の好きにすりゃいいがな」
「アハハ…… ン、やっぱり美味しい」
そのままニーナは再びクッキーを貪ることに専念した。