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「さァ、中へ」
ハンニャバルが牢の前で中を指し示す。そこもやはり、吹雪に苛まれる極寒の地獄と化していた。
「まあ監視は無いが、こうして私や他の看守が巡回するからな」
「はい。ご苦労様です」
「それでは」
ガチャン、と無機質な音が響き牢が閉められたのを確認した後、ハンニャバルは雪の中へと消えて行った。
その姿を見送り、ニーナは牢獄内の椅子に静かに座る。この地獄での強制労働はなさそうだ。囚人は、永遠に終わらない極寒に、体を震わせるしかないのか。
などと考えて腰を落とせば、どうやら先客が居たらしく、横でもっこりと膨らんだ影に、目を見開いた。
「わっ!?と……… あれ?もしもし」
雪が積もって見えなかったが、少し雪が落ちたその中から覗いた人の顔。咄嗟の事に驚くが、取り敢えず声を掛けて見る。のだが、一向に返事は返らない。
もしや、気を失っているのか。
寒さの所為だろう、と雪を払ってやると、予想外に別の場所から声が響いた。
「辞めときな、お嬢ちゃん」
「えっ?」
静止の声が響き、ニーナはその声の主を探す。すると、それは別の牢から聞こえたものだったようだ。
「新入りだろ。まあなんだってお前みたいなのがここまで来ちまったのか知らねえけどな。懸賞金ナンボだ?」
「あ、えっと…… 色々ありまして。懸賞金はかかってないですけど、ちゃんと海賊ですよ」
「あぁ?」
目付きは悪いが、どうやら悪意は無いらしい。訳が解らんと言いたげな男は、隣の牢獄で膝を抱えて寒さに対抗していた。
その横では苛立った様な男が氷の塊を投げ飛ばしている。
「ダァッ!馬鹿にしやがって。こんなんでどうやってパンを齧れってんだ」
「黙れよ。体力の無駄だ」
男が投げ飛ばしたものがニーナの足元まで転がる。どうやらパンが凍ったものだったようだ。
「こんな所にお前みたいなのが来る意味が解らねえけどな。取り敢えず、地獄の死体に若い女がそう触るもんじゃねえ。ここの奴らは大体が飢えてんだ。未練がましく、化けて出られても知らねえぞ」
「え、えっと…… ご忠告、ありがとうございます」
何やら不吉な事を言われ、ニーナは伸ばした手を大人しく引っ込める。が、その時に少し触れてしまったようだ。ドサッと音がして積もった雪が崩れ落ち、その下で凍った男が姿を鮮明に表した。
あちゃ、と折角の忠告が無駄になってしまい、ニーナは思わずどうしようか、と頬を掻く。すると、現れた男の手に乗るそれに、ニーナは首を傾げた。
「あれ?これって…… 鍵?」
どうみても、牢獄の鍵にしか見えないそれ。けれど、そんなものが何故ここに。
「ああ。ソイツが死ぬ前に隠してた奴だな。結局、使うことはなかったけどよ」
「折角なのに、使わないんですか?」
「枷を外して、牢を出て。それでどうする?ここは海底監獄。しかもマゼランやシリュウが居るんだ。逃げ場なんざねぇし、脱獄なんて不可能。第一、このフロアには軍隊ウルフが放し飼いにされてる。下手に檻から出ても寿命が縮まるだけだ。解ったら、お前も変な気起こさねぇで…… って、何やってんだ!?」
くわっ!と目を見開く男の前では、さっさと錠を外し牢の扉を開ける少女の姿。
「お、おい!聞いてなかったのか?お前じゃ軍隊ウルフに手も足も出ねェだろう!」
「そうですねェ。確かに、手は出せませんね」
そうだろう、と同意しようとした男だが、その前にニーナのとんでもない発言に遮られる。
「だって、軍隊ウルフ可愛いですもん。私、実は動物好きなんです。あんな可愛いコ達に、手なんて出せない」
「はぁ!?」
訳が解らない。この娘は何をする積もりなのか。そうやって唖然とする周りの囚人達を他所に、ニーナは窮屈だった海楼石からの解放感に思い切り伸びをする。
「やめとけって!脱獄でもしようってのか?無理だろうが」
「大丈夫ですよ。脱獄する積もりはありませんから…… まあ、海楼石外れたから、もう無理じゃないんだけど」
最後の方はボソボソと独り言の様に呟く。確かに、ニーナの能力にとって、海底監獄も脱獄を阻む壁にはならない。けれど本人にその積もりは微動も無かった。
「ちょっと気になることがあって。すぐに戻りますよ。忠告、ありがとうございます」
「おい!馬鹿か、お前。死ぬぞ!」
少し遠ざかった引き止める声に、ニーナは一瞬だけ反応を示す。
けれど、すぐにまた歩き出した。
「………………死ねるものなら」
一瞬脳裏に過った、まるで全てを見透かしたかの様なあの男。看守長シリュウの歪んだ笑みを、ニーナはすぐさま振り払った。
***
ニーナはあるものを探して、極寒フロア内をひたすら歩き回る。そして時折見掛ける牢獄に近付いては、中の囚人に聞き込みを続けていた。
「あァ?人が寄り付かねェ場所だ?」
「はい。このフロアだとしたら、何処ですかね?」
「なんだお前?隠れられる場所なんてある訳ねぇだろう!さっさと牢に帰りな」
またもや有力な情報は得られず、ニーナはまた獄内をキョロキョロとしながら歩く。
ひと気の無い場所を探して彷徨っていれば、何時の間にやら林の奥の方へ来ていたようだ。そして気付けば周りからにじり寄る幾つもの殺気。
「……やっぱり、このフロアならこの辺りかな」
自分を取り囲む軍隊ウルフの群れには構わず、ニーナは更に突き進む。
ガウッ!と牙を剥き出して飛びかかって来る狼をヒョイと避ければ、益々唸り声が大きくなった。
「おぉ〜い!居るなら返事下さ〜い!」
大声で誰とも知らない者に呼びかけてみるが、応答は無い。襲い来る軍隊ウルフを全て軽く躱しながら、ニーナは首を傾げた。
可笑しい。このフロアならば必ずこの辺りにあると思ったのだが。
猛獣地獄のマンティコアの巣で、そして焦熱地獄の業火の中で、確かに見た。まるで、地獄を彷徨う囚人を誘い込むかのような、小さな隠れた通路への入口。
どれも監視の目があり、しかも自分は特別囚人。あまり勝手をする訳にもいかず、そのままになっていたのだが。監視が無いというここなら今度こそ確認出来るかもしれない。
一体あれはなんだったのか、どうも気になってしまう。
まあ、完全に個人的興味なので、別にその通路の反対側に居る住人に迷惑なら諦めるしかないが。
まあ、これだけ探しても無いのだから、そろそろ今日は諦めて、また明日にでもしようか。
と来た道をクルリと振り返ったニーナはビクリと肩を揺らした。
「特別囚人……君を、招待する」
髪もコートも左右で違う色をした厳格な顔の男が、ワインを片手にその場に立っていたのだ。