05.道標を/1
エルヴィンが私に新たに与えた居場所は以前に居た環境と同じはずだった。美しい服を纏い、美しい物に囲まれ、食べるものにも困らない。兵団にいたときのような苦しいこともない。
女優に必要なことは、貴族の娘としての教養を受けて来た私には、思いの外容易にこなせることだった。ダンス、歌曲、社交界での立ち居振る舞い。兵士だったときと比べたら、ずっと楽で、取るに足らないことで。華やかで、美しい場所で着飾って、褒められ、認められて。まあ、多少の足の引っ張り合いはあるみたいだけど。
男たちの下卑た視線もエルヴィンのそれに比べたらずっと分かりやすく、対応しやすいものだった。皮肉にも彼が与えてくれた危機感は、同時に身を守る術となった。
それでもこの世界は以前よりもずっと色褪せて見えて、自分がどこでなにを、なんのためにしているのかさえ見失いそうになっていた。
彼の双眸の青だけが確かな色を持っていて、それが唯一の道標のような気がしていた。
たとえ彼に利用されているだけだとしても、それに縋り付くしかないのだ。
エルヴィンは住居や着るものは与えてくれたが、生活の世話をしてくれるわけではなかった。こじんまりとしているとはいえ、貴族の邸宅を維持するのは大変なことだった。
自分で他の庇護者を見つけろ、ということなのかもしれない。実際そういう風に生計を立てている女優はたくさんいる。彼の求める情報とやらも、そうすることによってずっと得やすくなるのだろう。
しかしそんなことはまっぴらごめんだ。半ば意地で、女優の傍ら半分使用人のように家事に励む生活を送っていた。
社交シーズン、貴族が多く住むこの街で早朝に出歩く者は多くない。大抵は貴族の家の使用人くらいだ。
何度か挨拶を交わしたことのある、この小柄な男もどこかの使用人だと思っていた。仕立ての良さそうな服に、上品なクラヴァットを身につけている。優雅な物腰というほどでもないが、下品という感じもなく、動作に無駄がない。立ち居振る舞いからして、下男ではなく、上級使用人だろうか。
身を纏う空気が他人を寄せ付けないように刺刺している一方で、意外なほど気さくに話しかけてくる。初めは驚いたが、いつしか彼に会うのが少し待ち遠しいような気さえしてきていた。
その男は私に興味があるような素振りを見せない。ただ淡々と、そこに存在する一人の人間として接してくれる。天気のことや季節の花のこと、そういうとりとめのない日常会話を少しだけ交わして、すぐに立ち去ってしまう。
女優という色眼鏡で見て、性急に手を出したがる男たちとは違う。
「良かったら、中で手当てしましょうか……?」
男の肩に血が滲んでいるのを見つけて、つい家に招き入れてしまった。こんなに酷い怪我をしているなんて、なにか訳ありなのだろうか? そう考えると彼の容貌はいかにも危険な香りがしそうな感じだと改めて思った。鋭い目付き、少し影のある表情。ちょっとまずかったかも、と後悔が頭をよぎるが、怪我人を放ってもおけなかった。
「傷口、出してもらってもいいですか?」
男を居間に通し、ソファーに座ってもらうと、急いで傷の手当ての準備を始めた。水の入った手桶と包帯を出してくる間に、男はカッターシャツを片袖だけ脱ぎ、傷のある肩を出した。今まで巻かれていた包帯を取り、傷口が露わになる。
「刀傷……?」
「ああ、これでも兵士なんだ」
血が滲むそこに布を当て、強めに圧迫する。出血はそれほど多くないようだ。華奢なように見えた男の肩は屈強な筋肉で覆われていた。兵士、というのも頷ける。内地を出歩く機会が多いということは、憲兵団か、他の兵団の幹部以上のはずだ。
「手慣れているんだな」
手当てを終えた後、彼の指摘にどきりとする。かつて兵士だった頃に習得した技術だったが、慌てて誤摩化す。
「一人暮らしなので、何でも自分でやりますから。ちょっと器用なだけで」
「それで、いつも庭に?」
「ええ。それだけじゃありませんよ。お掃除も、お洗濯も」
「確かに、貴族の邸宅にしては掃除が行き届いていないようだ」
男は部屋をちらりと見やると、呆れたように溜息を吐きながら呟いた。
確かに雑然としている。昨夜の公演で客から貰った花束や贈り物が床に散らばっており、脱いだ服もソファに掛けっぱなしだった。
「すみません。一応掃除はしているんですけど」
「見ず知らずの男に、一人暮らしだと洩らすのも迂闊だな」
「……、すみません。でも、見ず知らずじゃありません」
肩をすくめながら、彼の方を見ると、少し微笑んだように見えた。その表情を見て、ほっと胸を撫で下ろす。
「でも、こんな酷い傷、一体どうして……」
「この間、壁の外に行ったときに。まあ自分でうっかりやったんだがな」
「調査兵団……!?」
知らない顔だった。調査兵団はそれほど人数も多くないし、こんな特徴ある人物を覚えていない訳がないと思った。だとしたら私が調査兵団を去った後に入団した人物だ。一人だけ心当たりがあった。
「もしかして、リヴァイ……兵士長……? ですか?」
「なんだ、知っていたのか」
「だって、有名ですから」
外側の壁から離れた内地でも、その英雄のことは話題になっていた。小柄で華奢な体格ながら、その戦力は一個旅団並みと言われ、人類最強とまで謳われている。突然現れたその英雄の存在と、ウォールマリアの壁が破られたという情勢もあり、調査兵団に期待をする世論も高まっている。
堂々とエルヴィンの傍らに立ち、腕を振るう兵士。実力も申し分ないのだろう。
以前居た筈の場所なのに、とても遠い場所に感じられる。結局一度も壁外に行くことなく、どういうわけかこんなところに身を置くことになってしまった。もう少し兵士として実力があったらこんなことにはならなかったのだろうか? あの時落ちなければ、看護兵に襲われなければ、エルヴィンに助けられなければ、こんなことには……
「花、生けなくていいのか?」
「……あっ!」
ぼうっとして、籠いっぱいに摘み取った薔薇のことを忘れていた。あわててボウルに水を入れ、そこに浮かべる。
男の人なのに花のことにまで思考が行き届くなんて、案外繊細な人なのだろうか。彼はいつの間にか薔薇を一本取り、目に近付けて興味深そうに眺めていた。絵になりそうなその姿に、思わずどきっとしてしまう。
「ずっと気になってたんだ」
彼はそう呟くと、その薔薇を私の結った髪に刺した。何が気になっていたのだろう。薔薇が? 私が?
「綺麗だ」
彼はやはり淡々と言った。お世辞でも、駆け引きの道具でもない、飾り気のない言葉で。
「今日は助かった。また来てもいいか?」
彼は視線を合わせず、呟くように言った。
(2013.12.4)
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