07

 なまえが気付いたときには、ベッドで柔らかな枕に頭を沈め、ブランケットに包まれていた。身体は重く気怠いが、ここはとても心地が良い。このまま目覚めたくなくて、目をつぶって懸命に考えていた。この間まで幸福だったときのことを。


「おはようございます。なまえ様」

 いつものようにエルヴィンの声が、なまえを呼んだ。以前と少し違うのは、厚いカーテンが閉まったままだということ。
 エルヴィンが手に持つランプの光が煌々と室内を照らし、さながら真夜中のようだった。

「まだあなた様の身体に日の光は酷でしょうから。でもそのうちに慣れますよ」

 なまえにはエルヴィンが何を言っているのかさっぱりわからなかった。なまえには昨日と変わったことなんてなにもないというのに。
 エルヴィンに促され仕方なく身体を起こして枕にもたれ掛かる。大きなサイズのベッドには、横に誰かが寝ていたような形跡があった。

「ああ、ご主人様はもう起きて仕事をなさっています。本当に、ワーカホリックな方ですよ。今も、昔も」

 エルヴィンはワゴンに乗せて運んできたティーセットで紅茶を入れながらそう教えてくれた。

「……人のこと言えないと思いますけど」

 無意識になまえの口をついて出た言葉に、エルヴィンは少しだけ目を見開いた。

「やっと、私のことを思い出しましたか?」
「……え?、私今、何を言って……」

 おろおろと混乱しているなまえに、困ったようにエルヴィンは微笑み、手に紅茶のカップを手渡した。エルヴィンと出会って1カ月の間に慣れ親しんだ紅茶の芳醇な香りは、もう生活の一部になって、なくてはならないような気さえしてくる。

「リヴァイの名はすぐに思い出したというのに、……妬けるな」
「……え?」

 なまえが紅茶を口に含もうとした瞬間、エルヴィンが間近に迫って、それを奪った。その瞬間、どういうわけかなまえはとてつもない焦燥を感じる。

「や、返して……」
「もうコレ無しでは生きられない身体になってしまったのですか? でも、こんなものよりもっと美味しいものが傍にあるではないですか」

 なまえから奪ったカップの中身を口に含み、エルヴィンは彼女に口移しした。エルヴィンの口から直に流れ込むその液体は、丁度人肌くらいの温度に冷めていて、昨日の血の味と驚くほどよく似ていた。

「……んっ、はぁ」
「吸血鬼は血液を得られないとき、代わりのもので飢えを凌ぐのです。それは人によって違うようなのですが、リヴァイ様はそれが紅茶だったようです。その眷属である、あなたも、私も」
「変なの、身体が。おかしくなりそう……」
「大丈夫。私が治してあげますから」

 エルヴィンはループタイを緩めると、首元まできっちりと止めていたシャツのボタンを一つ二つと外して、自らの首元を露わにした。それに誘われるようになまえはエルヴィンの首にしがみついて、そこに唇を這わす。

「ほら、ここを思いっきり噛んでご覧」

 躊躇い、僅かに震えるなまえのうなじを持って支えて、エルヴィンは諭すように言った。言われるがまま、意を決して彼の首に齧り付く。しかし昨夜リヴァイにされたように、牙は深くは入り込まない。申し訳程度に付いた傷跡から流れ出るエルヴィンの血を、ぺろりと舐めては、音を立てて啜った。
 たまらなく美味しい。
 口から入る彼の血と共に、身体の中心が熱を持ってくるようだった。もっともっとと、彼の血を身体が欲していた。
 人でないものになってしまったことを、自覚するより先に。

「ふふ、そんなにがっついて。あなたが望めばいくらでも差し上げるのに」
「ふ、あぁ……ん」

 エルヴィンが首元にしがみつくなまえを少し放して顔を見れば、口元は血で紅く染まって、瞳は潤み、息も上がっていた。それが男の――魔性に堕ちた吸血鬼の欲をどれほど煽るものか本人は気付いていないのだろう。

「最初からそんなに飲むと、後が辛いですよ。それより……」

 とん、となまえの肩を突き飛ばし、再びベッドに沈める。それに覆い被さるようにエルヴィンは彼女の顔の横に両手を付いた。

「私も楽にしてください。何百年も待ったんですから」





「っ、エルヴィンさん……?」

 間近に迫る青い瞳を前に、なまえは漸く我に返ったようにはっとして、近付いてくる彼の胸元を必死で押し返した。いつの間にされたのだろう、左手の薬指にプラチナの指輪が輝いているのがちらりと目に入った。昨日の出来事が甦ってくる。鋭い目をした、夫となったリヴァイという人が。

「私のことが好きなんでしょう?」
「……っ、それは」
「リヴァイ様も承知の上です。……そういう契約ですから」
「どういう……、んっ」

 煩いと言わんばかりに、なまえの言葉をエルヴィンの唇が遮った。呼吸すら困難になるほど深く重ねられ、隙間から入り込んだ舌が口内を蹂躙していく。やっと離されたころにはなまえは息も絶え絶えだった。
 朦朧としている隙に、エルヴィンはなまえに馬乗りになって夜着の首元のリボンを解いていった。そのことに気付いたなまえは、必死でエルヴィンの手を止めて抵抗した。

「や……」
「いつからそんなに生意気になったんですか? まさかリヴァイを好きになったんですか?」

 エルヴィンのあまりの威圧感に、なまえは言葉も出なかった。エルヴィンの手を止める手が震える。

「ああ、あなたは修道女になっても構わないほど信心深い方でしたね。例え意に染まぬ結婚でも貞操は守らなければならないと?」

 なまえはなんとかエルヴィンを止めたくて、必死で何度も頷いた。

「こうなった以上、既に神に背いていると同然なのに、可愛い方ですね。わかりました」

 柔らかく微笑んだエルヴィンに、肩を掴んで身体を起こされると、安心したのかなまえがほっと息をついた。しかしその瞬間、突然反転させられて顔を枕に押さえつけられる。両手を取られて後ろで纏められ、何か柔らかい紐状のもので拘束された。
 そして恐ろしく冷たいエルヴィンの声が頭上から降ってくる。

「あなたは心無い執事に拘束されて強引に犯される、可哀想な人妻です。あなたは何も悪くない。これでよろしいでしょう? なまえ奥様」

 
(2014.11.3)
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