03

 三重の壁の中では最も狭いと言われるシーナでも、町屋敷のある王都から、スミス家の領地のあるという東部の外れまでは、移動に多くの時間がかかるという。
 出発は早朝だった。
 用意された馬車になまえは乗り込んだ。長旅に備えて馬車の中はたくさんのクッションや毛布が備えられ、快適そうな空間になっていた。
 続いて執事のエルヴィンが乗り込み、下座に座った。

「申し訳ございません。介添え役の女中がお世話をするのが本来なのですが……」
「ううん、エルヴィンさんの方がいい」

 今更他の人と長時間同じ空間で過ごすよりは余程いいだろうと、なまえはそういう意味で言ったはずだった。しかしよく考えれば、まるでエルヴィンさんに好意を寄せているとも取られかねないとんでもない発言をしてしまったと、後から赤面してしまった。
 同時にこれから屋敷に着くまで、エルヴィンと二人きりだということを自覚してしまったことも、それを加速させる一因になった。

「今っ、変なことを言ってしまいました……気にしないでくださ……」
「いいえ。とても嬉しゅうございます」

 恐る恐るエルヴィンの方を見ると、にこりと微笑んでいる。まるで天使のような、表も裏もなにもない、慈愛に満ちた表情で、なまえに優しく眼差しを落としていた。
 何もかもを失い、途方に暮れていたときになまえを助け、導いてくれたのは顔も知らない婚約者ではなくエルヴィン自身ではなかったか。それに昨日、彼が言ったこともなまえの心に引っかかっていた。

「……私、本当にこのままでいいのか、とても不安です」
「どうして?」
「財産も何も持たない私が、このまま顔も知らない婚約者にお世話になってしまうなんて。私は良くても、相手の方にとっては何のメリットもない結婚でしょう。いつか後悔するんじゃないかと」
「そんなことはありません。それに、主人はあなたをとても愛しておいでですよ。血眼になって探させていましたから」

 エルヴィンにそう言われるのは今のなまえにとって衝撃だった。心臓にチクリと小さな破片が刺さったように、じわじわと痛みが広がっていく気がする。

「……愛してるなんて。会ったこともないのに」
「主人に会えば、きっと心が変わると思いますよ。今は愛のない結婚に怯えていても」

 堪えきれなかった涙がなまえの頬を伝っていった。

「この辺りは道が悪くて、馬車が揺れますね。クッションをもう一ついかがですか?」

 エルヴィンはなまえの前に跪くようにしてクッションを差し出した。

「ああ、こんなに泣いて。何も怖がることはないのに」
「でも、どうしたらいいか分からないんです。頭の中がぐちゃぐちゃで」
「大丈夫ですよ。最初から相手を愛そうなんて思わなくても。愛情は自然と芽生えるものですから」

 後から後から伝うなまえの涙を、エルヴィンは手袋を外して、素手で拭ってくれた。その思いの外ひんやりとした感触が火照った頬に心地よく、混乱した心がだんだん鎮まっていくような気がした。
 自然と生まれるものが愛ならば、それはもう既に育っているのをなまえは自覚していた。それでも今ここで告白することはできなかった。

「エルヴィンさんは、ずっと私の味方でいてくれる?」

 苦し紛れの、でもなまえが口にできる精一杯の言葉だった。

「もちろん。さあ、朝も早かったことですし、お休みになってはいかがですか? 到着までまだまだ掛かりますから」
「そうね。泣いたら眠くなっちゃった」


 馬車の揺れも眠りを誘った。クッションに体重を預け、なまえが眠りにつくのにそう時間は掛からなかった。
 なまえの頬に残る涙の跡に、エルヴィンはそっと唇を寄せた。

「……甘い。なんて甘美な味なんでしょう」

 くく、と堪えた笑いが、エルヴィンの表情を静かに歪めていった。


(2014.10.29)
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