02

「おはようございます。なまえお嬢様、朝ですよ」

 その声を合図に厚い天鵞絨のカーテンが容赦なく開けられ、差し込む光になまえは強引に微睡みから覚醒させられる。
 ベッドの真横に立って覗き込むエルヴィンの姿を認めて、なまえは飛び起きた。

「……エルヴィンさんっ、朝起こしにくるのはやめてくださいって言ってるのに……!」

 ひとりで起きられます。と小さく自信なさげに続ける恥ずかしそうななまえの姿に、エルヴィンは目を細めた。

「そうはおっしゃいましても、当家の町屋敷は人手もない上に、お嬢様のスケジュールも詰まっておりまして……なにより定刻通りに起きられた試しがないではありませんか」

 極めて丁寧な言葉遣いながら痛い所を容赦なく突いてくるエルヴィンの言葉に、なまえはますますしゅんと縮んでしまった。
 なまえが王都にあるこのスミス家の町屋敷で暮らすようになって既に一カ月ほどが経っていた。ここへ来てからというもの、朝早くから夜遅くまで婚礼の準備だ、礼儀作法の勉強だと分刻みのスケジュールを組まれてしまっている。
 婚約者だというスミス家当主は、事業や領地経営で忙しく、本邸である領地の屋敷を離れられないという。婚礼前の準備は執事のエルヴィンに一任されているそうで、「私に全ての責任がかかっていますから」と一切手の抜く気のないエルヴィンになまえは逆らえないでいたのだった。

「さあ、朝のお紅茶をお召しになってください。それから入浴をなさって、お召し替えの後、朝食を」

 なまえは差し出された繊細な造りのティーカップを手に取り、こくりと口に含んだ。ふと窓辺に立つエルヴィンを見やると、彼の伏せられた睫毛の奥の瞳が光に透けて、見とれてしまいそうなほど綺麗だった。しかしその透明な色彩に何故か既視感があるような気がする。

「私の顔になにか付いていますか?」

 なまえの視線に気付いたエルヴィンが、なまえのほうを窺うように微笑んでみせる。そのことに何故か急に気恥ずかしくなって、紅茶を煽るように一気に飲み干してしまった。

「当家の主人は紅茶が大変お好きでして、大層こだわっていらっしゃいます。今朝の紅茶の種類は解りました?」
「……!?」
「はぁ……仕方ありませんね。おいおい、覚えていきましょう」

 呆れたように呟くエルヴィンに、なまえもまたため息を吐いた。

「本当に結婚なんてできるんでしょうか。旦那様になる方のことは何も解らないし、なにより一度も会ったこともないのに」
「貴族の結婚とはそういうものです。しかしきっとお二人はいいご夫婦になられると思いますよ。それにお会いしたことだって……」
「……え?」
「あ、そんなことを話している時間はなかったのでした。湯浴みの後、お召し替えをしなければ」

 お召し替え、という言葉になまえは敏感に反応した。

「あの、今日は一人で出来ますから」
「なりません。この間何十分も掛かったじゃないですか。湯浴みだってお手伝い差し上げたいくらいなのに」
「……ひっ! 分かりました」

 なまえは慌てて逃げるように浴室に駆け込んだ。
 服ぐらい一人で着られると思ったが、今までに着たこともないような繊細な縫製のドレスに思いの外苦戦してしまって以来、必ずエルヴィンが着替えの手伝いをすることになってしまった。せめて女性の方に、と頼んだものの聞き入れられなかった。なまえの身辺の世話はすべてエルヴィンがするように、と主人からきつく命じられていると。そもそもエルヴィン以外の使用人をこの屋敷で目にしたことがなかった。

 入浴を終え、脱衣場に揃えられた下着を身につけて恐る恐る外に出ると、エルヴィンが待ち構えていた。
 クローゼットの扉を開いて、彼が見繕ったドレスが既に数着ピックアップされている。

「今日はこちらのベビーピンクのドレスがよろしいかと思いますが、いかがでしょう」
「少し、可愛すぎませんか……? そちらのシンプルなベージュのほうが……」

 なまえの要求が聞き入れられることはごくごく稀だった。

「いけません。なまえお嬢様の美しさが引き立つものを、と主人から仰せつかっておりますので」

 見下ろすエルヴィンの瞳には威圧感がある。とても逆らえる雰囲気ではない。
 渋々身につけていくと、エルヴィンがそれを手伝った。

「下着が……少々ずれております。失礼」

 断りを入れてはいるが、素肌に触れられることもある。その都度、どきりとして身体が震えてしまいそうになるのを必死に堪えた。こんな時、婚約者というものがありながら他の男性に肌に触れさせていいものなのだろうかという倫理観がなまえの頭を掠めた。しかしひょっとしたら最近の上流階級ではこんなことが普通なのかもしれない。世間知らずななまえはエルヴィンに抗議をする術を持っていなかった。
 背中のホックをはめていきながら、エルヴィンは不意になまえに話しかけた。

「どうして他の男になんて着替えを手伝わせるのか? と我が主のことを不思議がっていますか?」
「……え?」
 
 考えていることを見透かされたことに驚きで何も言葉が出なかった。エルヴィンは背中まで伸ばされたなまえの長い髪を一つに束ね、一方の肩へと寄せた。

「絹のように滑らかな肌ですね」

 露わになったなまえの首筋に指を沿わせて、うっとりと見つめながらエルヴィンは言った。今まで必要以上には触れてこなかった彼が、わざと触れてきた瞬間でもあった。ぞくりと電流が走ったような痺れる感覚に、なまえは抗議も抵抗もできず、ただ動けないでいた。

「エルヴィン、さん?」
「お嬢様の素肌を、私以外の他の者に見せるな、という主人の命令なのですよ。私には見せびらかして、楽しんでいるのです」

 彼の纏う空気が一気に張りつめ、冷たいものになった気がした。

「私があなたへ向ける想いを知った上で、さらに私が主人に逆らえないのを知った上で。悪趣味でしょう? でも、それが私に定められた運命ですから」

 なまえにはなんのことか解らなかったが、胸の奥がきゅんと締め付けられるような想いがした。

「明日、本邸へ参りましょう。婚礼もそちらで。晴れてあなたはスミス家の女主人です」

 エルヴィンは跪いて、なまえのドレスの端に恭しく口付けた。


(2014.10.28)
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