01

「なまえお嬢様」

 執事のエルヴィンは、なまえをそう呼んでいた。
 執事といっても彼女の執事ではなく、正確には彼女の夫になる予定の人物の執事であった。
 そう呼ばれることが照れくさく、くすぐったかったなまえが、エルヴィンに特別な感情を抱くようになるのにそう時間はかからなかった。
 




 なまえが突然の不幸に襲われたのは半年前のことだ。両親を事故で同時に亡くしてしまった。不慣れな運転の暴走車に両親がはねられてしまったのは、時代の変わり目の真っ只中、自動車の実用化が図られて間もない頃のことだった。取り締まる法もなければ、それを保障するような制度もない。
 両親の死を悼む間もなく、なまえは途方に暮れることになった。落ちぶれた貴族の家に生まれ、財産も碌になく、明日の生活にも事欠くような事態になってしまった。生まれ育った家は既に両親の借金の抵当に入れられており、すぐに出て行かなければならなかった。持ち物は鞄一つに入る分だけで、親戚の家を転々としながら仕事を探す日々が続いた。
 そんな時、エルヴィンはなまえの前に現れたのだ。


「なまえ様でいらっしゃいますか?」

 いつものように、仕事を探そうと街に出ていたときのことだった。突然後ろから名を呼ぶ声が聞こえ、振り返ると仕立ての良い漆黒の上下を纏った品の良さそうな男性と目が合う。思わず見入ってしまいそうなほどの深い泉のようなブルーの瞳が大きく見開いたかと思うと、恭しく頭を下げられた。

「やっと……、やっと見つけることができました。なまえ様」

 やけに感慨の籠った言い方だった。
 エルヴィンと名乗ったこの男性の説明によると、なまえの生まれ育ったみょうじ家と彼が仕えているというスミス家は古い付き合いだったそうで、生まれる前から婚約が決まっていたという。なまえが結婚出来る年齢になるまで待っていたところに予期せぬみょうじ家の没落の混乱で居場所が分からなくなり、必死で探していたらしかった。

「とにかく、もう生活の心配はいりませんよ。すぐに我が主の屋敷で暮らしましょう」

 なまえが話す前からエルヴィンは何もかも解っているという口振りだった。たじろぎながらも小さな声で尋ねる。

「どうして、……知ってるんですか? その……、私のことも、家のことも……」
「スミス家の情報網です」

 エルヴィンは白い手袋をした人差し指を唇に当て、少しおどけたような表情をしてみせた。

「怪しいと思われておいでですか? それも仕方のないことなのですが、賢いあなたならお分かりでしょう」

 エルヴィンの綺麗な青い瞳が探るように向けられる。心の内を暴かれるような、そんな心地がした。なまえにも分かっていた。今差し伸べられているこの手を取らなければ、もう行く当てはない。
 こくりと頷くと、エルヴィンの口の端が少し上がった。

「さあ、まいりましょう。なまえお嬢様」
「おっ、お嬢様!?」
「私のお仕えする方の婚約者なのですから、あなたも私の主人です」

 そういってエルヴィンは微笑むと、右手を軽く折り曲げ、エスコートをする仕草をしてみせた。

「さあ。あちらに馬車を待たせてあります」

 戸惑いながらも彼の腕にそっと手を添える。彼の言うことへの不安が払拭された訳ではなかったが、なにもかもを無くしたなまえにとっては計り知れないほどの安堵を感じた。

「ありがとう、ございます」
「お礼を言われるようなことなど」
「私、もう修道女になる他に道は残されていないと思っていました」

 真っ直ぐ前を見て歩いていたエルヴィンは、なまえの方を見下ろし、少し目を見開いた。

「修道女? それは……、そうなる前で本当に良かった」

 教会に迎えに行くのは少々難儀そうですから。
 エルヴィンが続けた言葉は、街の喧噪に紛れてなまえの耳には届かなかった。

「え? 今なんて?」
「なんでもありません」

 前を向いたまま唇の端を上げたエルヴィンの顔は、その穏やかさとは裏腹に少し影を宿しているように見えた。


(2014.10.27)
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