目の前には、月を背にした青年が1人。
逆光を浴びて、表情の細部まではわからないものの、笑っていることだけはわかる。

それはこちら側にならどこにでもあるバイクに跨った、どこにでもいそうな"ちょっとハンサム"な男の子。

だというのに────それが空を飛んでいるからだろうか。あるいはそれがシリウスだからだろうか、なぜか彼の姿はとても神秘的な"何か"に見えた。

青黒い夏の空。ぼんやりと霞む星をまとって、彼はここに降りてきた。
大きなオートバイはまるで黒い馬のよう。そのヘルメットとゴーグルはまるで舞踏会の仮面のよう。

彼のお母さんが何かひとつでもシリウスの何たるかを理解していたのだとしたら、それはきっと彼の"名前"だったのだと思う。

一番明るく輝く星。尽きない命を燃やし続け、朧な夜空に燦々と明かりを注ぐ星。

彼は太陽より月の似合う人だった。うなじを焦がす灼熱の光も確かにシリウスらしいけど、それより今の、人々が寝静まった密やかな暗闇の中でそっと手を差し出してくれている彼の姿の方が、余程"彼"という存在を艶やかに、そして克明に描いている気がする。
全てを覆い尽くす闇の中でも、ただ一点だけ静かに明かりを灯すものがあった。闇に紛れながらも、決して闇に呑まれることはない希望の光。それが、シリウスだった。

「今の音、マグルに聞かれたらどうするつもりなの! 空を飛ぶオートバイだなんて、見られた日にはおしまいだわ!」

私より先に現実に戻ってきたのはリリーだった。私と同じように一瞬目の前の光景に見惚れ(というより、この言い方だと単に信じられないものを見てしまった驚きだろうか)、そしてすぐにいつも通り怒った声をヒソヒソとシリウスに投げていた。

「バカだな、僕が何も考えてないわけないだろ」
「普段何も考えずに動いてばかりいるから言ってるんでしょ」
「マグル避けの魔法はかけてあるよ。それに音なんて、聞こうと思った奴にしか聞こえない。魔法の存在を知らない、信じようともしないマグルの耳になんて入るものか。実際ほら、僕がここにこうしていたって、誰も窓を開けて外を見ようともしないじゃないか」

言われてみて、窓から身を乗り出し周りのアパートを見る。確かに誰も私達のように窓を開けて外を確認している人なんていなかった。最初の轟音を限りに、夜はまた静寂を取り戻していたのだ。

「そういうわけで、ちょっと僕だけ前乗りして、姫を夜のデートに誘おうかと思ってね。エバンズが今日帰るって聞いてたもんだから────あー、悪かったよ。タイミングを間違えた」
「ええ、良いわ」

リリーは肩をすくめていた。「もうこの人には何を言っても無駄」と諦めているのがありありとわかる。

「何も言わずにイリスとお別れするのは寂しいから、朝までには一度帰るって約束して。それさえ守ってくれるなら、どこへでも好きな所に連れ去ったら良いわ」
「リリー、良いの?」
「どうせ寝てるだけだったしね」

リリーは悪戯っぽく私に笑ってみせた。それから私にしか聞こえないように、「夜空をバイクでお散歩だなんて、ちょっとロマンチックじゃない?」と囁いた。

「じゃ、行こうか。ほら、手を取って」

彼女がそう言ってくれるなら、と私は窓の桟に足を掛けた。4階にも及ぶ十分な高さに、一瞬下を見て寒気がする。ここから落ちたら死ぬのかな。

でも、前を見て────笑っているシリウスがこちらに差し出している手を見て、そんな恐怖など夜風に吹かれて消えて行った。
怖くない。この人と一緒なら、怖いものなんて何もない。

私はしっかりとシリウスの手を握った。まるで重力さえ無視するかのように、ふわっと私の体が浮き上がる。

とても不思議な感覚だった。足に小さな羽根が生えたみたいだ。窓の桟を小さく蹴り上げた途端、私の体は簡単に宙を待っていて────そして、そのままバイクのシートに音もなく、衝撃もなく跨る。

「音は意外と静かなんだけど、揺れは結構あるからな。しっかり捕まっておけよ」

バイクに触れた瞬間から、先程まであんなにうるさく響いていたエンジン音が遠くに聞こえるようになった。音自体は聞こえるものの、遥か先の山で地鳴りでもしたのだろうか、と思うくらい。お陰でシリウスの声の方がよっぽど近くで鮮明に聞こえてしまって、私はそちらにドギマギしてしまった。

きゅ、と足を締め、言われた通りシリウスの腰にそっと体を預ける。初めてのバイクに緊張しているのか、回した腕が微かに震えていた。それを感じたのか、シリウスがとんとんと私の腕を優しく叩き、「怖くないよ」と囁く。そんな微かな声でさえ、私の耳にはきちんと入って来た。

「気を付けてね」とリリーが言っているのを、口の動きだけで察する。
向こうの声は、もう聞こえなくなっていた。まるでこのバイクに触れた人にだけ魔法がかかって、周りの音を一切遮断しているみたい。

「それじゃ、上昇するぞ」

その声と共に、バイクが上に上がった。相変わらずエンジンの音は遠い山鳴りだ。
5分も経つ頃には、私達は民家が小指の先ほどもないほどの小ささに見えるところまで上昇し、どこにいるのかもわからないままにまっすぐ滑空していた。

「良い景色だろ」

シリウスが満足げに言う。

その通りだ、と思った。
空に浮かぶ星々は、心なしか地上にいた時より近いものに感じる。相変わらず薄靄に包まれており、鈍い光で地上を照らしている。
対して地上の民家の明かりは、これもまた星の明かりとよく似ていた。まだ電気のついている家や街灯、信号機など、下の世界はこんな夜でも光に満ちていた。空の星よりずっと明るくて、こっちの方が本物の星空なのではないかと錯覚してしまうほどに。

上を見ても、下を見ても、星空。そして抱きしめている目の前のこの人は、そんないつ消えるとも知れない明かりなんかより一等際立って眩しい、唯一の星。

私達はまさに、"星の中"を走っていた。

「こんな感覚なんだね、空飛ぶバイクって。話には聞いてたけど、本当に誰もこっちを見ようともしない────」
「そう。だからお忍びには最適なわけだ。まあ、魔法使いに見つかったら罰金くらいは食らうだろうけどな」
「罰金!?」
「はは、大丈夫だよ。この辺は飛び慣れてるから、危険エリアはわかってる。僕だって一応、ロンドンの退屈な街に16年住んでるんだからさ」

ここにいるのに、誰も私達の姿を見ない。
こんなにうるさいのに、誰も私達の音を聞かない。

透明マントを最初に被った時にも、周りが全くこちらを見ないことに不思議な感覚を抱いていたが、今はそれに近い気持ちを味わっていた。しかも、空を飛んでいる限り誰かとぶつからないよう気を遣う必要もないのだ。

私達は、自由だった。
誰にも見つからず、誰にも存在を知られず、それでも堂々と空を闊歩している自由の鳥のようだった。


「シリウスはいつからこれで遊んでたの?」
「ホグワーツに入った年だよ。たまたま見つけて、改造してたら飛べるようになったんだ」
「そんな昔から…!?」
「これについてはリーマスが結構助けてくれたんだ。マグルの雑誌とか持ってきてくれてさ」

楽しそうに昔の思い出を語るシリウス。表情は見えなかったけど、まるであの頃のやんちゃ坊主に戻った時のような声をしていた。
────いや、今もそんなに変わらないか。

「もう少し行った先に、ちょっとした山があるんだ。昔は展望台もあったりしてそこそこ人気があったらしいんだけど、今はその道の真ん中でがけ崩れを起こしたせいで誰も行けなくなってるところがあってさ。そこで少し休んで、家に帰るって感じで良いか?」
「うん、ありがとう。でも大丈夫かな、人が誰もいない山なんて…獣とか…」

人の手に負えないような野獣が出て来たら、魔法も使えないのにどうするんだろう。
そう思うと心配になってきてしまったが、シリウスはただ大きく吠えるように笑うだけだった。

「何言ってるんだよ! デカい死神犬を連れてるくせに!










シリウスがバイクを停めた場所は、確かにちょっとした展望台といえるような広場だった。山の一部を整備して、高い柵をつけた崖の下には、またも地上の星が見下ろせるようになっている。
周りは彼の言った通り、人の気配がひとつとしてなかった。ここに来る直前、事故直後の現場を見せられているのではないかと思うほド派手な土砂崩れの跡が見えていたので、おそらく誰も来られないというのは本当のことなのだろう。

「今シリウスはジェームズの家にいるの?」

去年のクリスマス、本格的に家を出てきたと言ったシリウス。それから成人するまではポッター家にお世話になると言っていたので、その言葉が本当なら今2人は一緒に暮らしていることになる。

「そう、君とエバンズみたいにね。────プロングズがさ、君達が魔法を一切使わずに生活してるって知って、僕らもやりたいって言って聞かないんだ。おばさんは"僕達にやらせるより魔法に頼った方が私自身もずっと楽だ"って言ってるのに」
「…でもあのジェームズが…折れるわけないよね? 結局2人で全部やることになった?」
「ああ、その通り。でもひどいもんさ。飯は食べられたものじゃないし、洗濯や掃除もろくにできない。プロングズは両親が甘やかしだし、僕の家にはしもべ妖精がいたからね。まあ…自分達がいかに大人に依存して生きていたか思い知る良い経験にはなったよ。食事の度におじさんが"そろそろユーフェミアのご飯が食べたい"って泣き言を言うんだ」

容易に想像ができてしまって、つい私は声を上げて笑った。シリウスも同じように、笑っていた。

「成人したら、家はどうするか決めてる?」
「ああ、ロンドンの…前の家から少し離れたところに、空き家が一軒あるんだ。────叔父がこの間亡くなってさ、その遺産が全部僕のところに来たから、その安家を買って、細々と暮らすよ」
「……ご愁傷様です」

とんでもなく窮屈であっただろうブラック家の中で、数少ないシリウスの味方でいてくれたというアルファードさん。できることなら、一度会ってみたいと私も思っていた。
シリウスに自由を与えてくれた人。亡くなってなお、シリウスに自由を与え続けてくれた人。想像でしかないがきっと、アルファードさんもシリウスと同じようにいつも目をキラキラさせて、新しいものやユニークなもので遊んでは吠えるように笑う朗らかな人だったのかもしれない。

「ところで、プロングズから聞いてるか? 不死鳥の騎士団のこと」
「ああ、うん」
「実は僕も、卒業したらそこに入ろうかと思ってる」

住む場所はひとまず確保されたことがわかったところで、卒業後の進路のことを尋ねようとした時、先にシリウスからそんな話が振られた。
何も卒業した後の身の振り方を考えているのは私だけじゃない。昨年の進路指導を終えて、みんな頭のどこかで、卒業後のことを考えるようになっていた。

「就職はしないの?」
「まあ、どこかで働いても良いんだけどな。幸い叔父の遺産が莫大に入って来たから、遊び歩いたりせず慎ましやかに生きていれば一生暮らしていける分はあるんだ。楽しいことは好きだし、遊ぶのも好きだけど…酒とか女みたいな、大人がやってるようなつまらない"遊び"には興味がない。だったら、僕は収入がなくても"本当に世が必要としていること"のために働きたくてね」

────本当に、世が必要としていること────。

「同じ"働く"なら、条件がどう違ったって、自分のしたいことをするのが一番だろ?」
「そうだね────そう思うよ」
「君はどうするんだ? 国際魔法協力部?」

皮肉っぽい笑みを浮かべながらシリウスが揶揄う。もし私が本心から魔法省への入省を希望していたら、きっと彼は真面目に応援してくれていただろう。でも彼は、そんなものはただの"出任せ"だとわかりきっている。だからこそ、こうしてまだ本音の進路が定まっていない私を笑うのだ。

「────私もさ」
「うん」
「去年の進路指導で、マクゴナガル先生に"不死鳥の騎士団に入りたいです"って言ったの」

シリウスは切れ長の目を見開いてぱちくりと瞬きすると、急に大きな声で笑い出した。

「ちょっと、そんなに笑わなくても!」
「まさかプロングズ以外にそんなことを真面目に言う奴がいるとはな! 僕でさえ無難に"闇祓い"とか言っておいたのに!」
「え、シリウスは絶対ジェームズと同じことを言うと思ってた!」
「バカ。15、6のガキが"不死鳥の騎士団"なんて言ったところで取り合ってもらえるかよ」

あまりにも正論だったので、私は項垂れるしかない。
ひとしきり笑った後で、シリウスはまるでそれを詫びるかのように優しい態度を見せてきた。

「それで? イリスはなんで不死鳥の騎士団に入りたいと思ったんだ?」
「…私の嫌いなものに真っ向から反対する最も誇り高い組織だから」
「…ってプロングズが言ったのに感化されたんだな」

全て見抜かれていたらしい。力なく頷く私に、シリウスはまた笑う。

「────今、外で何が起きてるか知ってるか?」
「予言者新聞に書いてあることしか知らない」

知ってるのは、それだけ。淡々と、"事実"として表れているものだけ。
誰が死んだ。誰が行方不明になった。誰がいつから別人になってた。
暗いニュースはそれだけ重く私の身にのしかかるけど────でも、それに対する実感としての悲しみや怒りは、湧かない。

私はひょっとして薄情な人間なんだろうか、と悩んだ時もあった。
でもシリウスは、私のそんな素直な答えに「僕もだ」と簡単に答えるだけだった。

「僕もそれしか知らない。僕はまだ、外の世界で"本当のところ何が起きているのか"は知らない」
「本当のところ?」
「だって考えてもみろよ。予言者新聞が語れることなんて、せいぜい"誰が死んだ"とか、"今世界は混乱してる"とか、誰もがわかりきってる無難なことだけだろ? ヴォルデモートが今何をしようとしていて、どれだけの魔法使いがあいつに頭を垂れて、どれだけの魔法生物があいつに与してるか、一体誰が知ってる? これから起こりうることとして今誰が危険に晒されていて、誰がその手に掛かろうとしているのか、一体どれだけの人が予想してる?」

────彼の言うことは、真実をついていた。

そうだ。新聞じゃ、終わったことしか語られない。起きたことしか知ることができない。
私達は、リアルタイムで今何が起きているのかを、知らないんだ────。

「過去を追うだけじゃダメだ。かといって、根拠もないことに怯えてたって仕方ない。僕は、真実を知り、予想しうる未来に備えて、戦いたい。君と同じだよ、イリス。僕だって、僕の嫌うものに真っ向から反対したいんだ。確かに不死鳥の騎士団が具体的に何をしてるのかは知らない。でも、何をしたがっているのかはよくわかってる。だから僕はあそこへ行くんだ。せっかく生まれてきたんなら、僕が良いと思う世界を取り返すために、僕の命を使いたいんだ」

ジェームズと、同じことを言う。

「…不死鳥の騎士団が何をしてるのか、よくわかってないのに?」
「マクゴナガルの前で堂々と入団希望した奴のセリフとは思えないな。言ったろ、騎士団が何を目指してるのかだけは知ってるって。その理念に賛同していれば迷うことなんて何もない。それに、不死鳥の騎士団はアルバス・ダンブルドアが指揮してる。僕にとっては、それだけでもう十分な理由なのさ」

夜の涼しい風が、私達の髪を舞い上げた。
シリウスは遠い遠い地上を見ていた。その灰色の目が映しているのは、どこの誰とも知らない平和な家の、平和な家族の夜の時間。シリウスの知らない、そんな温かい光を守るために、彼は"命を使う"と言った。迷いもなく、陰りもなく。

「────シリウスに、あんまり危ないことをしてほしくない」

つい、ずっと思っていたことがぽろりと口から零れ出た。
シリウスのことが好きだと気づいてしまってから、ずっと思っていたこと。

敵を作ってほしくない。怪我をしてほしくない。杖を上げないでほしい。
────死なないでほしい。

シリウスは民家から目を逸らし、私の方を見た。

「────危ないこと?」
「シリウスは勇敢だと思う。私が言うよりずっと、"嫌いなものに反対する"って言葉にも…説得力があると思う。シリウスなら、きっとそのために本当に全力を懸けられるんだと思う。そんなシリウスのことを、私はずっと…ずっとずっと、尊敬してきた。でも…」
「しょうもないところで僕が死んじまいそうで、怖いか?」

答えられなかった。
シリウスが、死ぬ?

誰かが死ぬなんて感覚、よくわからない。
戦争がどれだけ恐ろしいのか、ヴォルデモートがどれだけ脅威なのか、私はよく知らない。

でも、いつかシリウスが戦禍に身を投じて、あの無機質な黒インクで朝に"シリウス・ブラック 死亡"なんて────誰も目に留めないような片隅に書かれておしまいになってしまうなんて────それこそ想像ができなくて、それが私には無性に苦しかった。

だって、今彼はここにいるのに。私と2人きりで、ここに立っているのに。
不死鳥の騎士団に入るって、どういうことなんだろう。
軽々しく口にしてしまったけど、闇の魔術と戦うって、どういうことをすれば良いんだろう。

「イリス」

シリウスがそっと私を呼んだ。知らない間にすっかり私は俯いてしまっていたらしい。顔を上げると、すぐ傍にシリウスの顔があった。

夜の闇の中でも決して光を失わない、大きく輝く一等星。
灰色の瞳は空と地、両方の明かりを集めて、キラキラと輝いていた。

「"自分の安全"だけを考えて、毎日ダラダラと"平和な日常"を送ってる僕と、"自分が信じたもの"のために、多少無茶をやらかしても"エキサイティングな日常"を送ってる僕。僕にとって、どっちの方が幸せだと思う? どっちの僕の方が、自由だと思う?」

思わず、唇を噛み締めた。
ずるい。どうして、そんな訊き方をするの。

シリウスは一度も"自分の安全"なんて考えたことがなかった。
誰よりも広きを、誰よりも遠きを見通すことができる頭を持っていながら、いつだって彼は目先に輝くガラクタばかりを追いかけていた。

決められた通りに生きるなんてつまらない。決められたものをひっくり返しての人生。
いつだったか、彼自身がそんな風に言っていたことを思い出す。

そんな彼に、どうして私が"別の答え"を言い出せようか。

「────自分の信じたもののために生きてるシリウスの方が、ずっと幸せで、自由だと思う」
「よくわかってるじゃないか」

満足そうに言うと、彼は私の腰をぐっと持ち上げた。一瞬、シリウスより目線の高くなった私が、彼より高い視点から世界を見下ろす。

「僕は、僕らしく生きるよ。そしてそんな僕を好きになってくれた君に、いつだって誇れる僕であると約束するよ」

そんなに軽いものでもないだろうに、彼はいとも容易く私を持ち上げて、まるで何か眩しいものでも見上げるようにそう言った。

「────シリウス」
「子供の戯言だと思って聞いてくれて良い。僕はまだ、騎士団がどれだけ危険なことをしているのかを知らないし、世の中がどれだけ脅威に晒されているのかも知らないんだから。でも────たとえ何を知っても、僕のやることはきっと何一つ変わらないだろう。そして、その先で僕はどれだけ危険を冒そうとも、何を知ろうとも、必ず最後には君のところに帰るよ。何年もかかってようやく僕の手を取ってくれた君のことを、離したりはしない。それだけは約束する」

なんて拙い約束なのだろう、と思った。
こんなに風の強い夜では、そんな小さな囁きなんてあっという間に空の彼方へと吹き飛ばされてしまう。こんなに木々のざわめく山の中では、そんな儚い言葉なんてあっという間に暗闇の中へと紛れ込んでしまう。

それでも私は、シリウスの額に自分の額をくっつけた。
それはまるで、小さい子供が交わすおまじないのようなもの。
魔法を知った今では、何の加護にもならないことなんて、とっくにわかっている。

わかっていても、そうせずにはいられなかった。
約束と言うにはあまりに脆いその糸を────いつかどこかで、友人が目の前で切ってしまったのを見たそんな"人との繋がりの糸"を────今度こそ、自分だけは、切らしてしまわないようにと。

「────ついて行くよ、シリウス」

私と彼の見ている未来が同じものだと言うのなら。
私と彼が目指す自由が、同じものを指していると言うのなら。

私は、ただ彼の帰りを待つだけの無力な女にはならない。
私だって、何を知ろうとも、何をすることになろうとも、自分の信じたもののために────目の前に輝く一等星のために、この命を使ってみせよう。

「イリス」

シリウスが、もう一度名前を呼ぶ。地面に下ろされた私と彼の身長差は、5年前よりずっと大きくなってしまっていた。
シリウス、一緒にいる間にこれだけの差ができてしまっていたなんて。

でも、今、彼の顔がこちらにゆっくりと近づいていた。
生まれた差を埋めるように。私と彼の、遠のいていく視線を合わせるように。

────そうして私達は、星々の見守る中で、小さく唇を重ね合わせた。
脆い約束を、呑み込むように。果てない未来を、誓うように。



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