泣きたいときは、タマネギを刻みなさい。そうすれば、他の人には泣いていることが分からないから。
 幼い頃、母に教えられたのは、ただそれだけだった。彼女はいつもタマネギを刻んでいた。
 常に仕事人間の父のことを、理解しがたい人、なんて呼んでいた。まさにどこから本心なのか分からない、タマネギのようね、なんて涙が滲んだ目で微笑んでいた。
 そんな母のことを思い出しながら、私はタマネギの茶色い皮を剥く。上下を切り落とし、包丁の根本で皮の端をめくった。くるりと回して、白い肌を見る。
 縦半分に切って、左右上下に切り込みを入れて、私は一息を吐いた。
 切り込んだ側から包丁を動かす。タマネギはみじんになっていく。微かな痛みを目に感じてから、涙が滲んだ。引き金か、否か。粒となった涙が頬を伝う。
 包丁に左手も添えて、まな板のタマネギを叩く。もっと細かく、もっと微塵に。
 それでも足りなくてまた残り半分のタマネギを手に取った。同じ行程を繰り返す。涙でぼやけた視界は、右袖でふき取った。
 そうして、ぼやけた向こうに彼を思い出す。
 父に無理を言えず進んだのは電車で一時間半かかる少し離れた大学だった。そんな大学で、出会った彼はいつも人に囲まれていた。とても楽しい人だった。
 私もそんな人になりたくて、憧れて。
 付き合ってほしいと告げて、軽く頷いた彼は、私の初めての恋人になった。
 でも深く付き合いが始まっても、彼の本心は見えてこなかった。いつも楽しそうなお調子者、そんな彼がふと厳しい目をしていて、動揺することもあった。
 そう、彼もまた『タマネギ』であったのだ。
 どこまで剥いても、どこまで深く付き合っても、彼の本心は見えてこない。私に好きだよとかけてくる言葉さえ、本当なのか嘘なのか、曖昧な意味合いを含んでいるように思えたのだ。
 はっと気づく。ぐるぐると回る思いをよそに、三つのタマネギが細かなみじん切りになっていた。これ以上は考えるのも泣くのも止めるよう言われたような気がするほどのたくさんのタマネギのみじんぎり。
 私はもう一度、息を吐いた。
 そう、彼をタマネギだと思うのなら、最初から合ってなかったのだ。私が彼に泣かされ続ける必要はないのだ。
 そうだ、タマネギといえば、新タマネギの方が涙は出にくいらしいと聞いた。要するに、出会うのが遅かったということなのだろう。
 私は気を取り直すよう自分を戒めて、袖をまくった。
 フライパンを出して、三分の二のタマネギを炒める。飴色、という色合いは未だによく分からないけど、ほのかに透き通るおいしそうな色合いは分かる。そこまでフライパンの中のタマネギを木ベラでぐるぐるかき混ぜる。
 ぐるぐる。その動きを見ているうちに、頭の中に焼き付いたあの映像が、浮かび上がってくる。
 通学に時間がかかるから遅くまでは遊べない。それは前々から言ってあったことなのだけれど、少し不満そうな顔を見ることはたびたびあった。
 あの日、教授に呼び止められて遅くなった日に私が見たのは。
 他の女の子と楽しげに腕を組んで歩く彼。二人は頬が擦るぐらいに、顔を近づけていた。
 映像を振り払うように頭を振った。炒めあげたタマネギの半分をボウルに、半分を鍋に移す。ボウルのタマネギは冷ますために置いておいて、火の上の鍋に移したタマネギの上にコーンクリーム缶を空ける。牛乳を取り出して、鍋にそれも注いだ。木ベラでまたぐるぐる。頭の中にもまたぐるぐる。
 あの女は何なのだろう。二人は恋人のように見えた。
 彼は私の恋人ではなかったの。遊ばれていただけなの?
 問うことも出来ず、ただ彼を避け始めた。取っている講義が違うため、思わず鉢合わせすることは少ない。通学時間を言い訳に、終わりを告げるチャイムを聞くとすぐに地元に帰ってきていた。
 ぐるぐる。一人で思い悩んだのが駄目だったのか。
 木ベラをかき回しながら、またぐるぐると考える。
 今日、彼が私に告げたのは別れだった。
 私の顔を見て軽く手を上げたまま、告げられた言葉に上手く返せなくて。
 どうして、とだけ呟いた私に、重たいとか避けてるとかつまらないとか。
 あぁ、私が悪いの。
 浮気したあなたが悪いのではないの。
 それともあれは浮気なんて重たいものではなかったと言うの。
 ぐるぐる。言いたいことがまとまらなくて、半端に開いた唇のまま、黙った私に向けた背が遠ざかる。
 楽しくて、明るくて、軽くて。
 そんなところが好きだったのに。
 そんなところに苦しめられた。
 はっと気づく。鍋の中のスープが、ふつふつと静かに沸騰していた。慌てて火を弱めて、砕いたコンソメと塩こしょうで味を付けた。一口味見をしてから、火を止める。
 置いておいたタマネギの入ったボウルに、ひき肉と卵、牛乳に浸したパン粉をぶちまける。それをビニール手袋をした右手で粘りの出るまで混ぜ合わせる。
 ぐちゃぐちゃねちゃねちゃ。私が真に受け過ぎなの。他の女の子と遊んだぐらいで、浮気なんて思ってしまったのは、重いの。
 二人を目撃してしまったのも、それを自分の中でぐるぐると考えてしまったのも、彼を避けてしまったのも。
 言い募って、粘ったら良かったのか。
 彼はそんな私に、別れは告げなかっただろうか。
 首を振って、粘り気の出た肉の団子を指で割る。左手にも手袋をはめて手に取った塊を両手で投げあった。
 そう、会話していたら良かったのかもしれない。
 誤解だったかもしれないし、私もそう重い女にならなくて済んだかもしれない。
 今更言ってもどうしようもないのに。
 自嘲を含んだ笑いをこぼして、丸くした塊をパッドの上に並べていく。
 両手のキャッチボールで出来たそれらを、油をひいたフライパンに滑らせたら、ジュウと音を立てた。肉の焼ける匂いにお腹が鳴って、気分が紛れた。
 あぁ、明日は大学を休もう。都合の良いことに、講義はひとつだし、休んでもまだ大丈夫な部類の講義だ。
 気分を変えよう。美容院へ行こうか、長い髪が好きだと言っていた彼に合わせて伸ばしていた髪をばっさり切ってしまおうか。
 これでいい。自分に言い聞かせる。
 肉塊を焼いているフライパンを横目で見ながら、残しておいたタマネギのみじん切りにお酢と塩、オリーブオイルをかけて、混ぜ合わせる。ボウルの中をかき回しても、もうあの映像は浮かんではこなかった。
 冷やしたトマトを串切りにして、その上にかけた。
 フライパンの中の肉は、腹の虫の目を覚ますように香っている。私は火を止めた。
 これでおしまい。
 悩むのも、考えるのも、もうなしだ。
 もう一度、自分に言い聞かせた。


 チャイムが鳴る。
 ドアスコープものぞかないで、扉を開けた私は固まった。幼なじみの友達を呼んだはずなのに、そこに立っていたのはその兄だ。
 正直、男の人には今日は会いたくなかったのに。
 彼は少しばつの悪そうな表情を浮かべて、笑いかけて来た。
「あいつ、今日どうしても外せない用事が出来たんだってよ。俺はその代打」
 おじゃまします、とやけに礼儀正しく、それでも無遠慮に私を押し退けて中に入ると、靴ひもを緩めた。
「ちょ、ちょっと待って」
「飯」
 靴を脱いで上がった彼は、振り返る。伸ばした手を思わずひっこめた。
「食わせてくれるんだろ? 腹減ってんだ」
 話はそれから、と聞いたのかどうなのか分からないニュアンスで言われて、私は彼の後をついて部屋に戻る。
 幼い頃から兄妹そろって遊びに来ていたから、勝手知ったる何とやら。迷いなくダイニングにたどり着いた彼は、これまた勝手に手を洗いテーブルに着いた。
「ハンバーグ、か」
 匂いで分かったのか、呟くのが聞こえた。私はフライパンからその肉塊を皿へと移す。
 私がテーブルに皿を並べていく間、料理を凝視していた。並ぶやいなや、いただきますと呟いて箸をとった。
 私はため息をつきながら、彼の目の前に座った。黙々と何も言わずに、それでも美味しそうに箸を進める様子を見る。
「冷めないうちに食べてしまえ」
 箸も手にしていない私を見て、彼は続ける。腹が減っていると余計なことを考えるぞ、と。
「……知ってるの」
 小さな声で問うと、しまったと思ったのか、目が泳いでから、妹から聞いたと告げられた。私はそっと息を吐いて、下を向く。
「馬鹿だよね、私。彼と親しい女の子なんてもう既にたくさんいるのに。憧れて近づいて、無理してて」
 クルトンを乗せたコーンスープが見える。
「女の子と腕組んで歩いてただけで、浮気なんて思っちゃって。私が彼にふさわしくなる前に、お似合いの女の子と知り合っちゃってるのだもの」
 出会うのが遅すぎたのね、と私は呟く。そう、涙の出やすいタマネギのように。
「そうだろうなぁ」
 思わず顔をあげた。ハンバーグを箸で掴んでいるのが見える。
「お前にはふさわしくなかったんだろうなぁ」
「そう……だよね」
「あ、でもお前が駄目だとかじゃないから」
「え?」
 思わず、箸に挟まれた肉が彼の口の中に呑み込まれていくのを、見ていた。
 彼はそれを咀嚼して飲み込んだ後、もう一度告げた。
「お前とその相手が合わなかっただけだろ」
 最後の肉を豪快に食べ、コーンスープを飲み干す。よくお前さ人をタマネギに例えるけどさ、と続けられた。
「新タマネギってのは、早くに収穫したのもあるけど、種類自体違うものもあるんだよ」
 たまねぎも色々、男も色々ってことだ、と告げて、たまねぎの乗ったトマトを箸ですくい上げた。
「一切涙の出ないよう改良されたたまねぎも研究されてるらしい」
 出回ってないけどな、と完全に箸を持ったまま止まった私に向かって笑う。
「お前を泣かすことのない男と今後、出会うかもって思ったら気が楽になるだろ」
 私もつられて笑う。別の意味で、涙が出そうだ。
 初めて付き合った男は散々で、痛い涙を流させられた。でも今、自分を卑下しなくていいと思ったら、力が抜けた。
「ありがとう」
 彼の言葉を噛みしめて、もう一度笑った。それから気分を変えるように、明るく言う。
「そう思ったら、お腹空いちゃった」
「おう、早く食べろよ」
 そうして、私は涙を流すために刻んだタマネギをすべて胃に収めるため、箸を取ったのだ。


 ちなみに、その後私が『涙の出ないたまねぎ』を手に入れたのは、別のお話である。


執筆野菜:タマネギ
『泣きたい時はタマネギを刻みなさい』 ―藤原 湾 様

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