ふふ。
 思わず笑みをこぼしてしまう。
 彼女は気付いたのだろう。今食べているプレートの上にいる天敵を。
 満足げな表情が、その存在を認めた瞬間に眉を寄せ口を尖らせる。もごもごと動かす口の中で、それは暴れているのだろう。
 ふふ。
 もう一度、俺は笑った。


 近くに大学群のある町の一角に、親しみやすい喫茶店を開いてから、数年。
 この店にランチを食べにくる学生達の中に、彼女はいた。
 最初に目を引いたのは、彼女の食べっぷり、そして満面の笑みだった。大目に盛ったライスですら、ぺろりと平らげる彼女はいつも会計の時に嬉しそうに笑うのだ。
「ごちそうさまです!」
 一五十センチもない小さな体に、ふわふわした髪の毛を揺らすその姿が目に焼き付いた。
 それから毎日、彼女はランチを食べに来てくれた。こっそり付け合わせを大目に盛ってあげたりしていると、それに気付いて嬉しそうに笑うのを見ることが出来た。
 その表情を見ているだけで、満足だったのに。
 あの日。
 今でも覚えている。その日の日替わりランチのメニューを。
 ピーマンの肉詰めだ。
 いつもにこにこしていた彼女の表情が、初めて曇るのを見た。眉をしかめる、口の端が下がる。
「……どうされましたか?」
 思わず声をかけてしまうと、はっとした顔で俺を見上げた。
「ぴ、ピーマン……」
 皿の上の青い野菜を指さす。それで悟った。
「ピーマン、苦手なんですね」
 他のものと替えましょうか、と言いながら踵を返そうとするところ、袖を掴まれた。
「大丈夫です! そもそもちゃんと日替わりのメニューを確認しなかった私が悪かったんです……」
 語尾が消えそうになりながらも、涙目になりながらも、彼女は箸を手にしている。
「本当によろしいんですか?」
 俺のその言葉にも、必死にうなずいている。いつもは豪快にそのまま何でも口に運ぶのに、ピーマンの肉詰めを小さく切り刻むように端を動かしている。
 ああ、可愛いな。
 ふと浮かんだ思いを払いのけた。何を言っている。人が困っているのを見て、可愛いなどと。
 その後、大きいグループの客が入り、気にする間もなかったが、彼女が退いた席の皿を片付ける時に気付いた。
 いつも通りの綺麗さっぱりとした皿。食べ残しはおろか、かす一つ残っていないその皿は、あんなに嫌っているピーマンを食べ切ったことを知らせていた。
 どんな顔で食べていたのだろう、困り顔だろうか、泣きそうな顔だろうか。
 見たかった。
 そう思った俺は、頭が沸いていたのかもしれない。いや、今もなおそうなのだろう。


 今は農業を営む元学友は、野菜の入った段ボールを置きながら、俺を一刀両断した。
「頭、大丈夫?」
 ため息までつかれる。
「いや頭だけじゃなくてさ、そんなの店の評判にも差し障ることでしょう? 信じられないわ」
 しかも近所の大学の子なんでしょう悪評言い触らされたら商売上がったりじゃない、と詰られた。
 あれから度々ピーマンを料理に混ぜては彼女の顔を見つめていた。そんな悪癖を相談したら、このざまだ。
「いやさあ、そんなにピーマンってだめなものか? もっと癖の強い食べ物なんて、たくさんあるだろうに」
 彼女が届けた段ボールからトマトを取り出して、冷蔵庫にしまいながら、つぶやく。
「子供の時の嫌いな野菜首位を独走してるといえば、そうだけど。苦いのと青臭いのとがだめな子は多いみたいだね」
 横に並んで段ボールからキュウリを取り出している彼女が、意地悪そうに笑う。
「まあ、ピーマンはお子ちゃまには不釣り合いなのかもねぇ……」
 その瞬間、ドアベルが鳴った。
「すみませ……」
 まだ開店時間ではないと告げようとして振り返ったそこにいたのは、当の本人だった。
 小さな肩を震わせて、涙を瞳に貯めて、口の端を思い切り下げて。
 まだピーマン料理を出したわけではないのに、その時と同じような表情を浮かべた彼女は、その場に立ち尽くしていた。
「あの……」
「ごめんなさい!」
 声をかけると、はっと気付いて瞬く間に扉の向こうへと消えていってしまった。俺もまた、呆然と立ち尽くす。
「……もしかして、聞かれてた?」
 後ろから学友が声をかける。その言葉に顔が青ざめていくのを感じた。
「――まずいことになった」


 あれから一週間。
 噂など流れていないように、店の客の入りは相変わらずだ。
 ただひとり、彼女を除いて。
 思えば、彼女が初めてこの店を訪れた時から、ほぼ毎日のようにランチを食べに来てくれていた。俺があんな意地悪をしていても、必ず料理を食べ切ってくれて、あの笑顔でごちそうさまですと告げてくれていた。
 他の客がかけてくれる声は嬉しい。おいしかった、また来る、ごちそうさま。彼らが告げる満足な声は、俺にも満足を与えてくれるはずだった。
 それでも、何かが足りなくて。
 あの笑顔でいい。
 あの笑顔がいい。
 もう一度、彼女がこの店を訪れるのをただ待っていた。


 例の学友は定期的に野菜を届けてくれる。その決まった日に、彼女は妙なものを持ってきていた。
「この間、ピーマンの苦味の話してたでしょう?」
 持っていたビニール袋から出したのは、赤、黄などの鮮やかな色合いの野菜だった。
「何、パプリカ?」
「違うわよ。これはピーマン」
 いつもと違う色のそれを見つめる。
「まあ赤ピーマンとかあるけどさ……」
「最近ね『虹色ピーマン』って言って、カラフルなピーマン、流行ってるのよ」
 これはそうやって大々的に売り出しているやつじゃなくて、うちで出荷するには熟れすぎちゃっただけのピーマンなんだけどね、と付け加える。
「普通のピーマンより甘味が強いし、火を入れれば青臭さも減るから、これ使ってみたら?」
 俺はその言葉に手渡されたピーマンを握りしめる。
「……それがさ、彼女はあれから来てないんだよ」
 そんな俺に、事もなげに告げられた。
「そこの公園にいるよ?」
「は?」
「いやー店を遠くから見てたから、あなたを連れてくるから公園で待ってたら、って言ってあるの」
 へらへらと笑いながら言う学友の頭を思わず叩く。
「早く言えよ!」
 カウンターにピーマンを置いて、俺は外へ飛び出した。


 すぐ近くの公園で、ベンチに座った後姿を見つけた。声をかけようとして、彼女の名前すら知らないことに気付く。少し悩んで、お客様、と声をかけた。
 ゆっくり振り返ろうとした彼女は、俺の顔を見るなり、顔をまた前に向けてしまった。その背中に話しかける。
「先日は、申し訳ありま……」
「ごめんなさい!」
 大きな声で彼女が立ち上がった。こちらを向いて頭を下げてくる。
「ごめんなさい、わたし本当に、思い上がっちゃってて」
「――え?」
 俺の意地悪に怒っているのではないのか。彼女が下げた頭のつむじをじっと見つめてしまう。
「あの、話が見えないんですが」
「わたし、あなたのご飯が大好きです。どんな料理も美味しくて、ピーマンが入っていても、苦いんだけど、大嫌いなんだけど、美味しくて」
 顔を上げた。涙が浮かんでる。
「自意識過剰だったんです。なんだかあなたの視線を感じる時があって、わたしがご飯を食べているのを見られてる気がしてて、でも友達に聞いてもそんなことないって言うから……」
 気付かれていたのだ。俺が見ていたことを。俺が意識していたことを。そしてまさか彼女も。
「でも、あの女の人と親しげにしてて、お子ちゃまなんて言われて、わたしなんて意識なんてされてないって思ったら、悲しくて」
「それはそういう意味で言ったんじゃなくて!」
 というより、俺の台詞でもないし! と手を振り頭を振り全身で否定する。混乱する。
「俺に、意地悪してた俺に、怒ってて、店に来なかったんじゃないの?」
 敬語もかなぐり捨てて出した言葉に、彼女は首を横に振る。
 よかった。そう思った途端、力が抜けてしゃがみこんだ。
「あの、大丈夫ですか?」
 心配そうに覗き込む彼女を、俺は見上げた。
「――ねえ、意識していいの?」
 恐る恐る、問いかける。意味が分からないように首をかしげる彼女に畳みかける。
「俺の料理を美味しそうに食べる君が、好きって言ったら、君は困る……?」
 食べたことのない料理をゆっくり咀嚼するように、彼女は俺の言葉を反芻してから、頬を真っ赤に染める。
「こ、こ、困ります」
 いきなり言われても、名前も知らないのに、などとモゴモゴ言っている。困った時に出る眉を寄せる癖が見える。
 ああ、困った顔も、泣きそうな顔も、可愛い。
 でも一番、笑った顔が好きだ。満足そうなごちそうさまが聞きたい。
「また俺の店に来てくれる?」
「……行っていいんでしょうか?」
 遠慮がちに問う彼女に、俺は逆に尋ねた。
「こちらこそ、ピーマンを嫌っているの知っているのに、料理に混ぜるなんて意地悪をしてたけど、また来てくれる?」
「? ピーマンはわたしが克服できるように入れてくれてたんじゃないんですか?」
 意地悪のほうは届いていなかったらしい。


 開店時間になった。
 彼女は時間すぐに店を訪ねてくれた。注文はいつもの通り、日替わりランチ。
 俺はもう一皿、日替わりランチのプレートに深めの皿を乗せた。
「サービスです」
 カラフルなピーマンの細切りが山になっているのを見た彼女は少し引き気味に尋ねてくる。
「……これは?」
「ピーマンのお浸し。熟すのを待ったピーマンは甘味が強いらしいし、火を入れると青臭さが減るから、これなら君も食べれるかと思って」
 横に細く切るのもいいんだよ、と付け加えた。それを聞いて、彼女は微笑んだ。
「ありがとうございます、わたしのために……!」
 丁寧にいただきますと言ってから、箸を取って一口運ぶ。小さく噛みしめる音がした。
「――食べられる。すごい、これ、苦くない。……美味しい」
 彼女は嬉しそうに満面の笑顔を浮かべる。
 俺もその表情を見て、ふふと笑う。
 これが見たかったのだ。今、自分も満足そうな顔をしているだろう。
 他の客もほどなく、店に入ってきて、俺はその接客に回った。
 ふと、彼女のほうを見た。嬉しそうに食事を頬張っている彼女が見える。気付いたのだろう、彼女もまた俺を見て、笑った。


 今はまだ苦味のない関係に、それでも近づいたそれに満ち足りている。
 でも俺は『お子ちゃま』じゃないから、苦味を求めてしまうかもしれない。また彼女に意地悪してしまうかもしれない。
 その時は彼女がそれを『甘い』と感じる関係になれたらいいのにと、レジスタの前でごちそうさまと告げる彼女を見ながら、そう思った。
 
 俺と彼女がピーマンのように苦くて甘い関係になるのは、しばらくしてからの別のお話である。


執筆野菜:ピーマン
『ピーマンはお子ちゃまには不釣り合い』 ―藤原 湾 様

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