五感を刺激するものたち



「伊地知、何か言いたそうだね」
「ひぇ!?いえ!別に何も!」

隣でチラチラと視線を投げかけてくる男を軽く小突くと、怯えたように身動ぎしてからおずおずと口を開いた。

「名字さんが、領域に引き込まれたのって…」
「…お前の想像通りだよ。高専時代から見てるんだから分かるでしょ」
「名字さんは分かってなさそうでしたけど」


少しだけ口許を緩めた伊地知をサングラス越しに見下ろすと、慌てて両手で口を覆っている。
だけど、こいつの言う通りだ… 名前には全然伝わっていない。

「名前ってさ、真面目なのにどこか変じゃん?」
「同期としてあまり頷きたくはないのですが」
「頑張りが思いっきり空振ってたりしてさ、それが昔は妙に目に付いて苛々してたんだけど」

いつの間にそれが放っておけなくなって…
いつから護りたくなったんだろう。


「五条さん、昔から名字さんのこと追ってましたもんね」
「ハァー!?追ってたわけじゃないですけど!?」
「だ、だって… 名字さん見ると大体近くに五条さんがいて…他の人たちだって気付いてましたよ」
「……」


それでか。
名前の脚の写真をメールしたとき、硝子からの返信の最後に書かれていた一文の意味を理解した。

【見てるだけじゃなくてしっかり囲っとけ】


頭を抱えて溜め息を吐くと、隣で伊地知が警戒しながらこちらを観察している。

「あの、とりあえずもう一泊押さえてありますけど…どうします?今からなら新幹線に間に合うかと」
「帰るって言うと思う?」
「や、でも… 名字さんは温泉入れないし…ここにいても可哀想じゃないですか」

なんでお前がそんなに名前のこと気遣ってんだよ。
そんなことまで考えずに事後処理やっとけ。
…という視線に気付いたのか首を竦める伊地知の肩に、自分の腕を回した。

「こんなオイシイ状況、わざわざ切り上げるわけないでしょ。名前と手繋いで東京戻るから祝杯の準備しとけよ?あ、くす玉も忘れずに」
「…罪は犯さないでくださいね」
「五条悟、今からビンタやりまぁす」
「ひぃ!では!私はここで失礼します!!」

物凄いスピードで去っていった伊地知を見送り、男湯とかかれた暖簾をくぐりかけたところで思い直し、一度フロントへ向かった。
こちらに気付いて恭しく頭を下げるスタッフに「聞きたいんだけど」と声をかければにっこりと微笑まれる。
その後ろの壁にかけられた時計は、17時ちょうどを指していた。
明日の新幹線、何時にしてもらおうか。









パチッと音がして、急に眩しさを覚えたので目を開いた。
私、また寝てたのか。
テーブルに突っ伏していたので首を動かすとコキコキと音がする。

「結構食べたね〜」
「あ、五条さんおかえりなさい」

テーブルに散らばった温泉まんじゅうの包み紙を見て笑う五条さんは、お風呂から戻ってきて電気を付けてくれたところだったらしく、自身の服をハンガーにかけている。

「もうすぐ夕食だけど、お腹に入る?」
「余裕です!ここのご飯美味しかったのに昨日は食べそびれましたから!!」

グッと気合を入れれば、五条さんはさすがだねと優しく微笑んだ。
その笑顔があまりに柔らかく、まるで愛おしいものを見るかのようだから胸がドキドキと音を立てる。

「デ、デザート、くれる約束覚えてます?」
「覚えてるよ」

誤魔化すようにして、一昨日の約束を蒸し返せば五条さんはよっこらしょとその長い脚を折り曲げて私の隣に触った。
広い部屋なのに何故あえてここに座るのか…。

「約束といえばさぁ、昨日僕とした約束覚えてる?」
「え、しましたっけ…昨日のいつ?」
「仕事終えてここに戻ってきたとき」
「…それ、私の意識飛びかけてるときじゃないですか。そんなときに約束って」
「分かりましたってしっかり頷いてたよ」
「あの、写真のこともそうですけどタイミング悪すぎでは?」
「頑張って耐えてねって言ったでしょ」
「その辺の記憶もすでに曖昧です」
「それは名前の努力不足だね!」

ムカッとするけど言い返したって仕方ない。
たしかに、五条さんがいなければ私は死んでいただろう。
悔しいけれど、どんな約束をしたのかを訊ねた。

「今日、夕食の後ちょっと出かけるよ」
「へ?それが約束ですか?」
「んー、約束に繋がるからさ」
「なんですかそれ」
「ま、楽しみにしててよ。ごはんはおいしく食べたいからね」


よく分からないけれど頷いて、部屋に備え付けられた風呂場で軽くシャワーを浴びた。
包帯の巻かれた脚にかからないように気を遣いながらはなかなか疲れたけれど、さっぱりして脳もだいぶクリアになった。
浴衣に袖を通すとき、少し脚のことが気になったけれど足首から下は包帯も無いし目立たないだろう。

時間を確認するためにスマホを手に取ると、伊地知くんからメッセージが届いていた。
明日の新幹線の時間などの連絡の最後に

【最後まで気をつけて帰ってきてください。あと、頑張って】

と書かれていた。
これ以上私に何を頑張らせる気なんだと不審に思いつつ、夕食を要求するお腹の音に耐えかね、さっさと身支度を整えることに専念した。





夕食を終えて部屋に戻れば、五条さんがクローゼットから羽織りを取り出してこちらへ投げてきたので、不思議に思いながらもキャッチする。

「なんですか?」
「それ着て、ちょっと外行くから。直ぐ近くだから浴衣で大丈夫」
「え、出かけるのに着替えないんですか?」
「すぐすぐ〜」

五条さんも羽織を着て部屋を出ようとするので、慌てて後を追う。走ろうとするとちょっとだけ左脚の皮膚が突っ張った。




フロントのすぐ横を通ると、外と繋がる渡り廊下が現れた。
和風の柱や屋根、石畳で作られたその空間は、足元に所々置かれた行燈によって趣のある造りになっている。

「こんなところあったんですね、綺麗」
「ね。僕もついさっき知ったんだ」
「この先は何があるんですか?」
「行ってみてのお楽しみ」

ふふんと笑う五条さんについて廊下をしばらく歩くと、その先にもくもくと白い靄が見えてきたので一瞬立ち止まる。
あれって

「湯気?ですか?」
「正解」
「え、てことは温泉?こんなところに?」
「うん。温泉だけど、これは足湯」

竹を組んで造られた低めの扉を開けば、檜の香りがぶわりと鼻腔を掠めた。
香りの正体である檜造の湯船は浅く広い作りで、その周りには座るスペースが用意されている。
誰もいないその足湯は、見た目も香りも、そして周りに植っている木々の揺れる音も全部が美しかった。

「足首までなら、入れるでしょ?」

五条さんが私の足元を見て微笑んだのを見て、彼の意図が分かった。
温泉に入ることが出来なくなった私のために、ここへ連れてきてくれたんだ。
ぎゅうっと胸が締め付けられるような感覚と、なぜか鼻の奥の方が痛い。


「あ、ありがとうございます…」
「ほら、貸切にしてるからゆっくり温まろー」
「え、貸切!?」
「うん。お願いしたら出来た」

あっけらかんと言ってるけど、絶対その裏で何かが動いている…。
脳内で大量の紙幣がひらひらと舞い落ちていく光景を、頭を勢いよく振って見なかったことにする。
せっかくの好意だ、今回は甘えてしまおう。

これまた檜で造られた腰掛けに膝を立てて座り、ゆっくりと足先からお湯に浸していく。
ここへ来るまでに冷え固まった足がじわじわと解されていくのが分かった。

「うぅ…気持ちい…」
「はは、溶けそうな顔」

五条さんは私の左側に腰を下ろすと、同じように足湯に浸かった。
長く息を吐いているところを見ると、きっと五条さんもこの温かさを堪能しているのだろう。と思えば…




「助けに行くの遅くなってごめんね」
「えぇ!?なんで五条さんが謝るんですか!?」

いきなり謝るものだから、足湯の中に落っこちるのではないかというくらいに驚いてしまった。
五条さんって謝れるんだ…と妙に失礼なことを考えつつも、きっと私の怪我を気にしているのだと気付く。

「私、五条さんが来てくれなかったら死んでましたよね?」
「あー、うん。そうかも」
「命の恩人に謝られる筋合いないです」
「大袈裟だなぁ」

困ったように笑う五条さんに、大袈裟じゃないと念押しする。

「私、まだ2級になったばかりだし、今回の任務は完全にオマケみたいな存在でした」
「…」
「だから、これからはもっと強くなりますよ。そうしたら今度は『名字名前』として任務に行きます」
「どういうこと?」
「女性だから、じゃなくて私個人の力で任務に行って、私が呪いを祓うんです」


七海さんに「女性だからです」と言われたことを実は根に持っている。
もちろん七海さんが意地悪を言ったのではなく、女性が必要で私が駆り出されたのは事実だから。
もし今回の任務に女性という縛りがなかったらきっと私に声はかかっていなかっただろう。
そんなのってやっぱり悔しい。

その意思が伝わったのか、五条さんはなるほどと手を叩いてから何度も頷いた。

「さすが僕の後輩。格好いいね」

その言葉が嬉しくて、くすぐったくて、緩んでしまう口許に気付かれないように下を向いた。
それきり五条さんも黙ったので、辺りはまた静寂に包まれる。









名前の横顔を盗み見れば、幸せそうに力の抜けた表情をしていて胸まで温かくなった。
そして同時に、昨日のことを思い返す。
怪我を負い、さらに無量空処の影響で意識が混濁した彼女を抱えたとき、僕を見上げた名前がにっこりと微笑んだ。

「五条さんが来てくれるって信じてました」

その時、遅くなって悪かったと謝った僕に一瞬驚いていたようだけれど、脚の痛みに一瞬顔を顰めた後で

「私、忍耐力はあるので頑張って待ちましたよ」

と少し悪戯な笑顔を見せるものだから思わずその身体を抱き締めてしまった。

幸か不幸か、名前はそのやりとりを全て忘れているようだ。
だからその後にした約束も覚えていなかった。
うっとりとした顔で、湯の中の足をゆらゆら動かす名前を呼ぶ。


「名前、昨日の約束なんだけど」
「え?あ、そうでした。何の約束したんでしたっけ」
「話したいことがあるから、真剣に聞いてくれって約束したんだよ」

そう伝えると、名前の緩んでいた表情が途端に引き締まった。
丸めていた背中もぴんと伸び、小さな手はぎゅっと握って太腿の上に揃えられる。
生真面目すぎる態度に笑そうになるのを堪えて、サングラス越しに彼女の目を見つめた。

「は、話ですか?約束なんてなくてももちろん聞かせていただきます!」

そうやってこちらを真剣な眼差しで見つめ返してくるこの女の子は、今からする話を何だと思っているのだろう。
先輩から大事な話と言われれば、名前の性格上おそらく仕事や高専に纏わる話を想像していると思う。
そんな彼女の硬い表情が、今からぶつける一言によってどう崩れるのか、少し楽しみになってしまった。




「名前のことが、好きだよ」



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
210425

*
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -