自ら創り出した黒

あぁ、相手が五条さんとはいえ、先輩に対してあんな態度を取ってしまった…。
脱衣場への外扉をくぐり、女性側の内扉を開く頃には既に後悔の念に苛まれていた。

大きなため息をそのままに脱衣場に足を踏み入れると、まず目に付いたのは大きなバスタオルだった。
床に無造作に投げ捨てられていて首を捻る。
なんで床に?
そう思って次に私の視線が捕らえたのは、扉が開かれたままのロッカー。

手首に付けるゴムバンドがついた鍵は、扉に挿しっぱなしになっている。
そういえば、私たちが温泉に浸かろうとしたとき、奥の方にいた若いカップルが出て行く後ろ姿を見た気がする。
まだ脱衣場にいたのか…それにしてもバスタオルを床に置いてロッカーも開けっ放しって?
急にトイレに行きたくなったとか?
思いついて御手洗と書かれた扉を見ても、鍵はかかっておらず電気も付いていない。

人が少ないとは言え無用心じゃないかと不思議に思いつつ、とりあえず自分も早く着替えてここから出ようと決めた。
待合室には彼氏の方がいるだろう。そこで聞けばいい。
ロッカーを開き、バスタオルを体に巻き直す。


ぞくり。


まさに言葉通り…そんな感覚だった。
同時に自身の間抜けさに舌打ちしてしまう。どうして気付かなかったのか。
こんなにも恐ろしい気配が身近に迫っていたのに。
色々と考えすぎていたせいか、感覚が鈍ってしまっていた。


まずいと思ったときには、足下にぽっかりと大きな穴が開いていた。
とっさにロッカーの中にあるコートを掴む。私の使う呪具はそのポケットに入っている。
そしてなす術もなくそのまま暗闇に吸い込まれた。
真っ暗な視界の中で浮かんだのは、五条さんの微笑んだ顔だった。













着替えを済ませて脱衣場を出ても、名前はまだ待合室にいなかった。
代わりに1人の若い男が手持ち無沙汰にソファに腰掛けている。
喉を潤そうと、ソファの横にある自販機に向かえば、男はチラチラと女性側の脱衣場を見てため息をついた。

「…どうかしました?」

つい声をかけてしまったのは、僕もほんの少し寂しかったからかもしれない。
名前にきついことを言ってしまったし、自分の気持ちが伝わっていなかったショックも地味に尾を引いている。

「あ、えーっと、彼女がなかなか出てこなくて」
「あー。女の子って身支度に時間かかるからねぇ。うちの子もそうなのかな」

今朝、名前はあっという間に着替えなどを済ませていたことを思い出した。
ま、温泉ならそのあと化粧直しくらいするよね。

「もしかしたら、怒ってて出てこないのかも」
「ん?」
「ちょっと俺、調子乗っちゃって彼女のこと怒らせたから」
「あらら」

なんだか不穏な表情だ。ここは同じ男として話を聞いてやろうではないか。
名前を待つ間の暇つぶし…いや、人助けに。
男の隣に腰掛けると、チラッと僕の方を見てから少し俯いて話し始めた。

「彼女には何回も何回も告白してOKもらって、付き合って3年の記念日に旅行にきたんです。それで昨日の夜にプロポーズして…」
「おぉ、やるね」
「プロポーズ成功して、浮かれすぎてたのかさっきの混浴で結婚したらどんな家庭にしたいかみたいな話で白熱しちゃって」

くしゃりと髪を掴み、恥ずかしそうにする男を横目で見下ろす。不器用そうな、けれど真っ直ぐな人間なんだろうと思った。

「彼女、すげー可愛いから今までもモテてたし、他の男に取られるんじゃないかってずっと不安で、人妻になったからって安心できないし浮気すんなよみたいなこと色々言っちゃって…」
「う、わー」
「そしたら機嫌悪くなってなんとなく会話がないまま…」
「そりゃ怒るよ…結婚の約束して次の日にそんなふうに言われたらさ」
「ですよねぇ…あー、もう俺いっつも余計なこと言って怒らせてる…」


お兄さん、格好良いしそんな失敗とかしないですよねぇと苦笑いされ、こちらも微妙な笑いになってしまった。
さっき怒らせたばかりだよ、しかも付き合うことすらできていない子を。

「出てきたらすぐ謝ります。疑ってるとかじゃなくて、本当に好きってだけだって」
「だねぇ、ストレートに言わないとだめだよねぇ」

そうだ、真っ直ぐに伝えなければ。
この僕が怖がって上手く告白すら出来ないなんて、名前は知りもしないだろう。












落下の衝撃からなんとか受け身を取って辺りを見渡すと、所々に岩や水溜りのある洞窟のような場所だった。
暗さに目が慣れてきたところで歩き出す。
一瞬地底のようなところに落ちたのかと思うが、おそらくここは誰かの領域だ。
こんなに広い領域を作れるなんて、一体どんな呪いなんだろう。

タオルを巻いただけの身体にコートを羽織って呪具を取り出した。
領域内だからか、呪いの気配はあちこちにあって油断できない。
素足にひんやりとした土の感覚が伝わってくる。

少し進んだところで、蔦が巻きついた大きな岩の陰に何かがいるのがわかった。
構えながら近づくと、そこにいたのは啜り泣く女性だった。

「あの、大丈夫ですか?」

そう声をかけた途端、身体を大きくびくつかせて悲鳴を上げたので、口を押さえるようにして彼女のそばにしゃがみ込む。

「敵ではありません、あなたさっき温泉にいましたか?」
「…き、急にここに落ちて…」

やはり脱衣場にあったタオルの持ち主だろう。生きていたことに少し安堵しつつ、下着姿の彼女に自身の羽織っていたコートを脱いで被せた。

「大丈夫。出られるから心配しないで」

暗闇で伝わるのか分からないけれど、微笑みかけた。
ぶるぶると震えているのも無理はない。
何とかして脱出しなければ。

「で、でも…さっき死体が…」
「…!」

行方不明になっていた人のものだろうか。
やはりこの領域の持ち主が、私たちの探していた呪い。
祓わなければ。他の人たちが生きていればいいけれど…
とにかくこの人だけでも助けよう。

「私、あなたを助けるために来たの。だから心配しないで」
「…怖い、怖い!タツヤはどこにいるんですか?」
「タツヤって…彼氏さん?」
「そう、結婚するんです!昨日、プロポーズしてくれて」
「…大丈夫。ちゃんとタツヤさんのところに送り届けますから」

涙を拭った瞬間、ビリビリと地面が揺れて爆音が響いた。
頭を抱えて蹲る女性の肩を支え、音のした方を見れば、トカゲのような形の呪霊が私たちの方へ向かってきていた。
見た目はトカゲでも、大きさは牛よりもひと回り程大きい。

「な、なにあれ!?ここって何なの!?」
「落ち着いて。あなたはここを動かないで」

呪具を握りしめて立ちあがる。岩に巻かれていた蔦を引きちぎり、身体に巻いたタオルが邪魔にならないよう固定してから、勢いをつけて飛び出した。

「来い!お前を祓う!」

おそらく先程の悲鳴を聞きつけてこちらにやってきた。
近づいて見てみれば、深海魚のような目をしているので視力はあまりないのだろう。
それならば術式が使える。

自身の術式で、空中に光を灯した。
突然スパークさせることで不意をつく作戦だったけれど、想像通りこの呪霊にはそれ以上の効果があったみたいだ。
暗いところに慣れている深海魚のようなその目は光に弱い。
声をあげ、驚いたように怯むのが分かった。
その隙に呪具である短い剣を振り翳して飛びかかる。
鱗が固く、あまり深い傷は与えられなかった。

耳か鼻か、私の動きを感知して攻撃してくるのをギリギリで躱していると、呪霊は何やら声を上げながら先程女性と隠れていた岩に向かって進み出した。
彼女がいることに気付いたのか、急いで後を追う。
しかし突然歩みを止めた呪霊は、唸り声をあげてその場で足踏みを始めた。


恐ろしさに泣き叫ぶ女性を抱えるようにして距離を取る。
明らかにこちらへ来ようとしているのに、呪霊は立ち止まっていた。
なぜ?この女性を狙っているのは明らかなのに。
ふと視線を移せば、女性の腕にきらりと光るものが見えた。もしかして…

「その腕につけてるの、どうしたんですか?」
「え、あ。これ、さっき神社で彼が買ってくれたんです。婚約指輪は温泉に入るのに付けてたら失くしそうだって言ったら、代わりにこれ付けてって」

やっぱりそうだ。
神社の力が籠っているブレスレットが抑止力になっている。

「タツヤさん、ナイス!」
「え?」
「それ外さないでくださいね」

恐らく彼女の周りのみ、結界のようにして守られている。
そこから離れれば相手は攻撃してくるけれど仕方ない。
剣に呪力を送り、光を纏わせてその形を変え、もう一度攻撃すれば先程よりダメージを与えられたようだ。

しかし、相手の攻撃が私に当たらないのは何故だろう。
領域内にいるのだからもっと向こうに有利になってもいいはずだ。
それに、この呪霊はそもそもこんなに大きな領域を作れるほどのレベルとは思えない。


まさか、と思ったと同時に左脚に激痛が走って蹲った。
後ろから攻撃されたことが分かって振り返れば、やはりそこにはもう一体…いや

「呪詛師…」
「私の領域へようこそ」

女の呪詛師が立っていた。







「この呪霊を使って何をしているの」
「使ってなんかいないわ。私が彼を育てているのよ」
「彼…?育てる?」
「そう。人間を食べさせて、彼を人間に戻すの」
「一体、何の呪い?」
「こんな見た目だけど、彼は私の恋人だった。呪いで、呪霊になってしまったのよ」
「呪いって…誰が」
「私がかけた。わざとじゃない。だから彼を人間に戻したいの」

少しだが状況が読めてきた。
呪霊は、この呪詛師によって造られたものだ。
それを人間へと戻すために、この女は領域を用意して若者たちを引き込んでいる。
そんなことが出来るとは思えないけれど、女の顔は狂気じみていておそらく本気なんだと、唾を呑み込んだ。


「若者を惹きつけるようなパンフレットを作った目的は?」
「愛される若者を呼ぶためよ」
「愛される?」
「彼は愛されている若者を飲み込むことで本来の強さを取り戻す。愛されることが条件なの」
「…理解できない」
「それならいい。呪術師が入り込んだのは誤算だったけれど、取り込めばいいだけだから」

猟銃のようなものを構える女。
私の左脚はあれに撃たれたのだろう。ズキズキとした痛みが太ももの方まで広がってくる。
呪力が込められているのが分かる。

背後の呪霊の方はそこまで強くないし知能もない。
問題はこの女の方だった。
領域に知能、明らかに私より上の存在だ。力量の差は歴然としている。
呪詛師にしておくなんて勿体無いほど。何が彼女を狂わせたのか。


それでも、勝利は確信していた。
五条さんがいる。
きっと異変に気付いてくれる。
だから私は自分にできることをやらないと。
五条さんが来るまで絶対に死なないし、死なせない。



座り込んでしまっている女性の方を見れば、まだ呪霊は近づけないでいるようだ。
あのブレスレットにどのくらいの力があるのかは分からない。効果が途中で切れないとも限らない。
守れる範囲で戦わないと。

「あのブレスレット、彼が怖がって近づけないのよね」
「…あなたたち、この土地の神が怖いんでしょう?だから神無月を狙って、神社から距離のある場所を根城にしてる」
「へぇ。弱いけど馬鹿じゃなさそうね」
「あなたはいつ呪咀師になったの?それほどの力があるなら呪術師でもかなり良い待遇で雇われたはず」

間合いを取りながら問えば、少し遠い目をした女が自嘲するような口調で話し始めた。

「元は呪術師だった。彼は非呪術師よ。
彼のためなら呪術師も辞める覚悟だった。
けれど、彼は私の愛を重いと言って私の前から去って行ったの…他の女がいたのかは知らない。
愛して愛して、愛していたから、彼を呪ってしまった。そして殺してしまった。殺してすぐに後悔したわ、だから彼をこの世に留めようとしたの。
そうして私は呪詛師となって彼を縛り付け、彼は呪いに変わった。
見た目は変わったけれど、私はまだこの人を愛しているの。だから、愛されるという幸せを彼に直接与えて、思い出させるのよ。そうすればもう私から逃げたくなんてならないから」

いつの間にか表情は恍惚としている。
この人は、呪術師としても人としても一線を越えて行ってしまったんだ。

呪霊はブレスレットに近づけない苛立ちが溜まってきたのか、大きな声を上げて暴れ始めた。
これでは直接彼女に近づけなくても、周りの破壊によって攻撃が届いてしまう。
左脚を引き摺って、砕かれた岩の破片が飛んでくるのを打ち払った。

「私の呪いは愛。ねぇ、あなたもこの領域に引き摺り込まれたということは、知ってるんでしょう?
愛される悦び、愛する幸せ。そしてそれが憎しみに変わること…!」

何発も呪力の籠った弾がこちらへ向かってくる。
それを光と剣で避けながら隙を窺った。
この勢いならば女の呪力切れは期待できそうもない。

でもまだ諦めない。あの人は必ず来るから。


「…さっきから、愛愛うるっさい!」

一瞬の不意をついて、弾の流れが止まったところで間合いを詰めた。
目眩しをして怯んだところに斬りかかる。
しかしもう少しのところで、呪霊の尻尾に捕まってしまった。

「くそ!」
「ほら、彼は私のことを本当は愛しているのよ!だからあなたを取り込んで、私の元に帰ってくるわ!」

ギリギリと身体が締め付けられる。
先程斬り込んだときに踏ん張った左脚はもう感覚がない。
大きな口が側まで来ているのが分かるけど、希望は捨ててない。

「あんたさっき、分かるでしょ?とか言ってたけど、全く分からないから!」

なんとか尻尾から引き抜いた右腕に呪力を全て集めて、呪霊の口へ突っ込んだ。
バチバチと火花を散らす腕に、呪霊は驚いて私を離そうとするけど、相手の舌を掴んでそれを阻止する。

「生憎、私はずっと恋人いないし愛される悦びとか言われても全然ピンと来ない!
 だけど、あんたみたいに他人の命を使ってまで留めなきゃいけない愛なら、私はいらない!」

「…負け組が、偉そうに!」
「負け組で結構!アイアイアイアイ言ってお猿さんになってるあんたよりずっと人生楽しんでるから!」
「なんだと!?」
「尻尾が長いんだろ?お目目が丸いんだろ?お猿さんがよ!」
「クソガキが…」

銃口がこちらを向いた。
恐らく何発も弾が向かってくるだろう。
受けたらタダじゃ済まないけど、絶対にこの呪霊の舌は離さない。道連れにしてやる。
時間はだいぶ稼げたはず…後はお願いします。


勢いよく銃声が何度も響いた。
反射的に目を閉じてしまう。
私の視界は再び暗闇だ…。
高専生だった頃着ていた制服みたいに真っ黒。

さっきまでの威勢も、気概も、失いそうになる。
私みたいに弱かったら、生き抜くのは無理だったんだ。
呪術師として間違っていない、お似合いな最期だろう。
だけど
最期くらい、黒じゃない綺麗な光が見たかった。
あの人の瞳のようにキラキラと眩しい光が。




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