憧れと畏怖

五条さんに褒められて、素直に嬉しかった。
しかし、特級呪術師に認めてもらえたというだけでこんなに嬉しいわけではないことは自分でも分かっている。
五条さんだから嬉しいんだ。

高専生だった頃、体術の訓練で思うように動けず地面でうつ伏せになってへばっていたときのことを、ふと思い出した。
あの時、「大丈夫〜?」と声をかけてくれた硝子さんに対して五条さんは「弱い奴なんてほっとけ。自分に甘いからそうなるんだよ」と冷たい声色で吐き捨てるようにしていなくなった。
弱いのは事実だし、体力作りをサボりがちだったことは自分でもよく分かっていて泣きそうになったけど、泣いていたって始まらない。
自分に甘い…それが胸に刺さり、それからは七海さんに付き合ってもらいながら体力向上に励んだ。


「随分と忍耐力がつきましたね」
「…そう、ですか?息切れすごいんですけど」
「体力じゃなくて、忍耐ですよ」

七海さんはあの時、ヘトヘトになっている私に言った。

「体力はまだまだですが、戦おうという意志は消えていません。もうダメかもしれないと考えないことも強さのひとつです」










「さ、それじゃあここから一番近いところに行きますか!」

五条は名前に背中を向けて軽やかに歩き出したので、物思いに耽っていた彼女は慌ててその後を追いかける。
いつの間にか地図が再び五条の手に渡っていることに気づいて名前は問いかけた。

「一番近いところって…」
「ん?混浴温泉!」
「…え」


一番近いと言っても、神社からはそれなりに距離がある。
温泉巡りを楽しむ観光客らの間を縫って、その長い脚でさっさと進んでいく五条は機嫌が良く、一方で名前は彼程のコンパスが無い上に気持ちが乗らずにトボトボとついて行く形になっていた。

「ほらほら名前、念願の温泉だよ?テンション上げてこ!」
「…私の求めていた温泉とは違います」
「えーどこが?」
「ひとつ、源泉でないこと。ひとつ、混浴であること」

名前の歩幅に合わせて隣に並んだ五条は、身を屈めて彼女の耳元で囁いた。

「せっかくカップル設定なんだから、混浴楽しもうね」
「!!」

語尾にハートマークが付いているような喋り方に、名前の背中はぞくりと粟立った。
文句ひとつ言えずにぱくぱくと口の開け閉めをする彼女を盗み見て、溢れる笑いをなんとか抑えた五条は時折地図を見ながら考える。
さすがにこんな展開は想像していなかったが、思いがけずラッキーな状況かもしれない。

「棚ぼた〜」
「なんですか?」
「いや、独り言だよ」







新しく建てられたとあって、綺麗な建物だった。
レトロな構えは確かに写真映えする。昔の温泉宿を彷彿させるデザインの入口から建物内に入れば、券売機式になっていた。

「タオルとか無かったしここで借りればいいね!」
「五条さん、本当に入るつもりですか?」
「ん?当たり前じゃん」

いざ現場に到着したところで名前は怖気付いてしまった。
呪いにではなく、この状況にである。
任務とはいえ、五条のいるところでほぼ裸に近い格好になるのは心底嫌だ。
何か別の手立ては無いかとここへ来るまで必死に考えを巡らせたものの、結局何も浮かばずに着いてしまった。

「私は外を調べるので五条さんだけで中に入るとかどうですか!?」
「…あのね、混浴温泉に男が1人で入ったら他のお客さんに警戒されるでしょ?盗撮目的とかさ。さすがのナイスガイ五条さんだって」
「う…そうなんですか…」
「じゃあ名前が1人で行く?痴女と思われていいならだけど」
「…ふ、2人で行きましょう」
「はいはーい。じゃあ後ほど」

あっという間に支払いを済ませた五条は、名前を残し、男性側の脱衣場に行ってしまった。
名前も気乗りしないまま、任務のためと自身に言い聞かせて脱衣場へ足を踏み入れた。



脱衣場に並ぶ鍵付きのロッカーをぐるりと眺めると、数人は先客がいるようだった。
しかし昨晩の旅館と比べても人は少ない。
やはり普通の温泉と違って、カップルや物好きな人間しか来ない場所なのだろう。
見た目は全体的に新しく綺麗なので、混浴という点さえ気にならなければかなり楽しめるに違いないのに…と、名前は大きなため息とともにコートを脱いだ。










よし、と自分に喝を入れて念入りにタオルを身体に巻きつけてから、風呂へと続く引き戸を開いた。
露天風呂しかないので冷たい風が急に身体に吹き付けてきて身震いする。
五条さんはまだみたいだ。ホッとする反面、早くこの1人の状況から脱したいとも思った。

もくもくと温かそうな湯気が上がる様子を眺めれば、その奥に2人の人影が見える。
仲睦まじそうに時折笑う声がして、少し羨ましい気持ちになった。


「うわ、うなじセクシーだねぇ」

つん、と首の後ろを突かれて変な声が出そうになった。
五条さんは、私が高い位置で髪を結ったことで露わになった首筋になぜかご満悦だ。

「ご、五条さん」
「お待たせ」

み、見れない。
一瞬ちらりと目に入ってきてしまった上半身の記憶を消すようにぷるぷると頭を振っていると、「どしたの?」と不思議そうな声を出された。

「ほ、ほら、早く調べましょ!」
「この辺りは何もなさそうだね。奥の方行ってみようか」

ひんやりとする石畳を素足でペタペタ歩き、脱衣場との扉から離れたところまでやってきた。
そこにも1組のカップルがいて、静かに湯を楽しんでいるようだ。

「なぁ、なんでそんなに離れてんだよ」
「別に」
「あ、照れてる?」
「うるさい!」

若い男の子が女の子を揶揄う様子が、なんだか甘酸っぱい。
って、私は調査をしにきているのになぜさっきから他人の恋愛事情ばかり観察しているのだ…。 
虚しくなる心に気付かぬよう、彼らから視線を逸らして辺りに意識を集中させた。


「この辺も何かがある感じはしませんね」
「そうだね、ハズレかな」
「そ、それじゃあ次の場所行きますか!」

なるべく早く戻りたいという気持ちが乗ってしまった言葉が浮つく。
それに気付いたのかは分からないけど、五条さんはケラケラと笑って私を絶望させた。

「何言ってんの、せっかくだから温まらなきゃ損でしょ」






特級呪術師が入湯料の数百円くらいで何が損だ。
それに気付いたのは、もう湯に沈んだ後だった。
混乱していたせいか、上手いこと口車に乗せられる形で私はお湯にしっかり肩まで浸かっている。
湯船の中でタオルを身体に巻くのは御法度なので、絶対にこっちを見ないように何度も言い聞かせてから勢いよく濁ったお湯に飛び込んだ。
この際、源泉じゃないことなんてどうでもいい。しっかりと色が付いているお湯にこんなに感謝したのは人生で初めてのことだった。


「いやー、癒されるね」
「…」
「癒されるね!」
「ソウデスネ」
「うーん、堅苦しい」

五条さんは大きな身体を伸び伸びと広げている。
男の人は隠す部分が少なくて良いよな、なんて横目で睨む。
こんなところでもサングラスをしているので、レンズが曇っているみたいだけどいいのだろうか。

「何?五条さんの入浴姿に見惚れちゃった?」
「ば!」

視線に気付かれ、サングラスを少しずらして見つめてくるので顔が一気に熱を持った。
熱い、けどすぐに出て行ったら負けな気がする。
だってこんなの、私が意識してるってバレバレだ。
悔しい。昨晩、夕食のときに言われた台詞がこんなときに頭に浮かんだ。

『好きなんだよね』

きゅん、と胸の奥が疼く感覚が信じられなかった。

頭の中で警告音がする。
これ以上、五条さんと一緒にいたらいけない。
本当はどんどん惹かれている。
子供じみた悪戯も、時折見せる大人の男の余裕も、先輩としての頼りがいある姿も。
ダメだダメだダメだ。
こんな人、好きになってはいけない。
意識してはいけない。


「考え事?」
「ひゃあ!!」

きゅっと耳朶を掴まれて、肩が跳ねる。
勢い余ってお湯から飛び出しそうになるのをすんでのところで堪えた。
くすくすと笑う五条さんを見て、驚きと羞恥が怒りへ変わってくる。

「可愛いなぁ名前は」

脚の長さ故に、立てた膝がお湯から顔を出している。
それを台に頬杖をつき、目を細めて笑う五条さんはあまりに色っぽく、そして、意地悪な顔だ。

「ば、馬鹿にしないでくださいっ…」
「ん?」
「さっきから、ずっと揶揄ってるじゃないですか」
「え?そんなことないよ」
「昔からそうですけど、私、五条さんの玩具じゃありません!何が楽しいんですか?驚いた顔、そんなに可笑しいですか?」

恥ずかしさによって湧いた私の中の怒りという感情が、震える声に乗って五条さんへ届く。
子どもみたいに怒って、きっと涙目になって、情けない。
でも、さっきまでときめいてしまっていた自分が馬鹿みたいで悔しくて仕方なかった。

私の言葉が途切れたところで、五条さんは頬杖をやめてため息をつく。
思わず俯いた私の耳には、ちゃぷんと静かに水音が届いた。

「名前、あのさぁ。僕が名前のこと、本当に玩具扱いしてると思ってんの?」

その声色がいつもと違って低いものだったから、心臓が大きな音を立てた。
お風呂の中で身体は温まっているはずなのに、頭の中からスゥッと冷たいものが身体を駆け巡る。
こわい。五条さんが怒っている。

「…だって、いつも揶揄って、私の反応楽しんでるじゃないですか」

それでも抵抗したくて、恐怖で目も合わせられないくせになんとか言葉を紡いだ。

「ねぇ、昨日の夕食のとき言ったこと聞いてた?」
「!…あ、あれは、デザート奪うための…」
「僕がそんなくだらない手を使うと本気で思う?」
「…」

その声に、今度は脳が沸騰するかのようにジンジンと熱くなってきた。
五条さんが私に言った『好き』という言葉は本当だった…?
信じられない。信じたくない。信じないようにした。
だって、信じたらもう、私は…。




「も、戻れなくなるのは嫌です」
「戻る?」

唇が震える。目頭は熱くなって涙が勝手に溢れてきた。

「ご、五条さんみたいな人が私なんかを好きだなんて、信じられないっ。無理です!嫌です!」
「… 名前」
「そんな声で呼ばないで!」

耐えられない。
耳も、目も、五条さんという存在を感じるほどに自分の気持ちが加速していくのが分かる。
この人を好きになってはいけない、頭の奥でずっとそうやって私を押さえ込んできた理性が今にも崩壊しそうだ。

そうだ、私は昔から五条さんに憧れていた。
呪術だけじゃなくて心も強い。
彼は向かう所に敵なしなんだ。私なんかが横にいて良い存在じゃない。
好きになるのは、すごく怖い。









「先、上がります!」

名前は勢いよく水飛沫を上げると、素早くタオルを巻いて脱衣場へ行ってしまった。
ちらりと見えてしまった白い背中が赤く染まっていて、五条はこんな状況にも関わらず不謹慎な気持ちになった。

「うーん、確かにちょっかい出しすぎたかな」

混浴温泉でひとりごとを呟くのはなんだか虚しい。
彼女が取り乱した理由は大体理解した。
嫌われているわけではない…いやむしろ…。

「じゃ、正攻法でいきますか」

迅る気持ちを抑えるため、しばらくしてから脱衣場へ向かうことにして、肩までしっかりと湯に浸かった。

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