聖母マリアの黄金の花



気持ち良さそうに水を被るオレンジのそれを見て、視線を持ち上げる。

びゅう、と風が吹いてキラキラと輝く飛沫と、去年より伸びた髪の毛先が揺れる様子が眩しくて目を細めた。


「、コボレダネ…か?」

少し暮れてきた陽の光のせいか、輝いて見えるその髪の持ち主に後ろから問いかけてみると、少し目を見開いた状態で振り返った彼女は、フェンスに凭れかかってしゃがんでいる自分を見つめると、少しだけその目を細めた。

「うん…よく覚えてるね」

今年も咲いたね、と小さくこぼした言葉は、俺に対してか。それとも彼女の足下で嬉しそうにしているオレンジの花々に対してか。

ぽたり。

ホースの先端についたシャワーから水滴が垂れている。

それを見ながら立ち上がって、彼女の隣へ歩みを進めた。

「マリーゴールドだろ?」

「すごい、名前まで覚えてるの?」

それだけな、と鼻の頭を掻きながら答えると、隣でくすくすと甘い声で笑いながら、少し離れた水栓へと向かって行く。

スカートが地面につかないように膝の裏に挟みながらしゃがんで、蛇口を捻ってから南京錠をかける小さな頭にまた声をかける。

「今年はまだなのか?帽子」

「ん?あぁ、そろそろ渡されるだろうねぇ」

空を見上げてキュッと目を閉じてから立ち上がると、用務員さん心配性だから…と笑って、今度はその用務員とやらが常駐している部屋へ向かう。

「鍵返しに来ましたー」

「あぁ、名字さん。今日もお疲れ様」

チャリ、と鈴のような音を立てた鍵は、小さく白い手から、年季の入った黒い手に移動する。

開け放たれた扉から生温い風が入り込んだのか、ため息をついたこの部屋の主は、夏だねぇと伸びをして

「そうだ、明日からはまたこれ、かぶりなさいね」

と、壁にかけられた麦わら帽子を指差した。

それは彼の手と同じように年季が入っていて、しかしどこか自分の出番を待ちわびていたようにも見えた。



「早速言われちゃった、帽子」

「だな」

嬉しそうに、そして少し悪戯に笑いながら校門を出る彼女は懐かしいねぇ…と呟く。

きっとその頭に思い浮かべているのは1年前の夏。

一方で俺は、それよりも前のことを思い浮かべていた。






高1の9月だった。

スランプ、と周りの奴らは言うけれど、そんな大それた言葉で表現するほど自分を高く評価していない。

メキメキと頭角を現す幼馴染みに焦りを感じていたのは事実だった。

「岩ちゃーん!行くよ!」

そんな幼馴染みの力強いサーブ練習を何度か受けていたのは、体育館の外。

部活の休憩時間に少しでも、と2人で練習をするのがいつのまにか日課になっていた。

体育館の中で出来るほど俺たちはまだ偉くない。

外の方が涼しいし丁度いいと半ば無理やり納得して、人気のない体育館の裏でボールと触れ合った。


「あ!ごめーんちょっと強い!」

「ボゲ!これじゃアウトだろ」

及川の放ったボールは勢いよく俺の頭上を越して飛んでいく。

と、同時に小さな悲鳴が聞こえてきて、俺たちは無言のまま青ざめた顔を合わせた。

どちらともなく、走ってボールの行方を追った先では、両手を胸の前で握り締めて立ち尽くす女子生徒がいた。

その視線の先には、バレーボール。

そして、バレーボールの下には、小さなオレンジの花が横たわっていた。

「ご、ごめんなさい!怪我はない!?」

珍しく慌てた様子の及川が少し離れたところから女子生徒に声をかけた。

そこでやっと俺たちに気づいたのか、少し怯えた目をこちらに向け、それでも小刻みに頷く。

「私は、大丈夫、です」

よかったぁ〜と胸を撫で下ろす及川を横目に、俺は彼女の言葉を頭の中で反芻した。

ー私"は"ー

大丈夫じゃない者が存在したのでは、そう問いかけようと口を開いたところに、体育館の方から3年生が俺たちを探す声が飛んでくる。

「やば!岩ちゃん行こう!本当にごめんなさい!」

及川は急いでボールを手に取り、くるりと方向転換して走り出した。

それを追いながら、ちらりと後ろを振り返る。

彼女はもうこちらを見ていなかった。

その視線の先にある花の様子が気になったが、何も言えなかった俺の時間は、彼女と交わることなく過ぎていった。






壁に張り出された名前はすぐに見つかった。

こういうとき、己の名字に感謝しつつ新しい教室の扉をくぐる。

見知らぬ顔がちらほらと見える中、自身の席を見つけてそちらに足を向けようとしたとき、目に入った横顔に思わず立ち止まった。

「うお、急に止まるなよ岩泉!」

「あ、わるい」

後ろから来ていた去年からのクラスメイトが俺の背中に鼻を打ちつけたことを抗議する大きな声に、先ほど見つけた横顔が、こちらを、向く。

「…!」

やっぱりそうだ。

去年、あの花壇の前に立っていた女子生徒だ。

大きくも小さくもないその目が自分に向けられていることに気付き、俺は思わず俯く。

そしてそのまま足早に席へと向かった。

同じ学年だったのか。そして同じクラスになったのか。

2年に進級した日、去年を思い出して胸がキリリと音を立てた。






「じゃあ次は美化委員なー」

新しい担任は、黒板を一瞥してから俺たち生徒をぐるりと見回した。

どこのクラスでも同じことが起きているだろう、ホームルームの時間は係や委員会決めに当たられた。

早々にクラス委員となった人気者が、黒板を背にチョークを摘んで待機している。

シンとした空気は、保健委員・図書委員決めのときから変わっていない。

誰も手をあげないので強制的に担任に押し付けられる形で先程の委員たちは決定した。

次は誰が選ばれる…担任と目を合わさないように身構えるクラスメイトたちの中に、ひょろりと小さく白い手が持ち上がった。

「あの、やり、ます」

途切れ途切れの言葉で少し頬を赤らめながら手を挙げたのは名字名前という女子生徒だった。

「あ」

つい開いてしまった俺の口から漏れた声は、静まっていた教室の中で響いて、クラスメイトたちの視線が彼女から俺に移る。

「どうした岩泉。美化委員やりたかったか?」

謎の解釈をした担任にブンブンと首を横に振るが、丁度いいや、お前は体育委員な〜とついでに押し付けられてしまった。

ぷ、と吹き出す音の主は、おそらくいや絶対花巻だ。

後で蹴ろうと思いながら、ため息をついた。

美化委員: 名字名前
体育委員:岩泉一

クラス委員のやや右あがりな字で書かれた自分たちの名前が隣に並び、何故だか脈が速くなった。






その日の放課後は、いきなり全委員会がそれぞれ集められた。

部活に遅れることは花巻が伝えてくれるだろう。

ニヤニヤとして俺の肩を叩いてから教室を出て行った後ろ姿に舌打ちをして、指定された教室へと向かう。

その途中で名字の後ろ姿を見た。

一緒にいるのは去年の担任だった。生物担当の。

「今年も美化委員か」

「はい」

「去年も大変だったのによくやるな」

「なんだか、愛着湧いちゃって」

えへへと笑う姿を初めて見た。

どこにでもいる女子高校生。

制服の着こなしも、髪型も、ありふれている。

地味なわけでも目立つわけでもない。

それなのにどうしてこんなに気になってしまうのか。

「じゃあまた1年、花壇の世話お願いな」

「はい」

少し上擦った嬉しそうな返事が耳に残った。

あぁ、美化委員が花壇の手入れをしていたのか。

それであいつは、あそこにいたのか。





6月になるとまだ朝晩は冷えるが、部活中は暑く感じることが増えてなんとなく外に出る。

梅雨の時期にしては珍しく晴天が続いていて、久しぶりに乾いている地面を踏みしめた。

花壇に近づいていたのは無意識だった。

じゃり、と乾いた土が音を立てて、それに気付いて花壇の前で振り返ったのは、やっぱり名字だった。

きょとんとした顔で俺を見つめる。

気まずい感情を堪えながら近づき、まずは謝罪をした。

「あの、すまなかった」

「…え?」

口を開けて心底訳がわからないといった顔をしている名字は、相変わらずどこにでもいる女子高校生だ。

この2ヶ月教室で見つめて分かったこいつは、普通に友達を作り、普通に授業を受ける、本当に普通の高校生。

ただ、他の女子高校生よりも花が好きなのだろうか。

時々、朝早くに登校して教室に花を飾ったり、花瓶の水を替えている姿を目撃していた。

そんなことを脳裏に浮かべながら、謝罪の続きをする。

「去年、ボールを花壇にぶち込んだ」

「え?あ、あのときのって岩泉くんだったんだ」

あっけらかんとした態度に拍子抜けしてしまった。

てっきり恨まれていると思ったのに。

なじられる覚悟で声をかけたのに。

「その、花は、大丈夫だったのか?」

ボールの下敷きになっていたオレンジの花が思い出されてまた胸が痛んだ。

すると名字は微笑んで、これ見てと花壇を指差すので、その指先に釣られて視線を落とすとそこには緑色をした小さな苗が、空に向かって伸びていた。

「これ、去年のマリーゴールドの零れ種で芽が出たんだよ」

「マリーゴールド?コボレダネ?」

呪文のような言葉に、つい顔を顰めてしまった。

すると名字は少し困ったような顔で笑って、この苗、マリーゴールドっていうのと教えてくれた。

「オレンジの花が、咲くのか?」

「そう、去年咲いてた花からこぼれた種がね、今年になって芽を出したんだよ」

「そうなのか…」

「うん。だから、去年の子は大丈夫だったよ」

子。

そうやって花を呼ぶやつを初めて見たかもしれない。

細めた目は、去年のマリーゴールドを思い遣っているのだろうか。

まるで友達のように、自分の子供のように、愛おしそうに花を見つめる目の前の女子を、綺麗だと思った。

「岩泉くん?」

何も言わずに名字を見つめていたことに気づき、慌てて目を逸らす。

「もしかして、ずっと気にかけてくれてたの?」

去年から…と名字が少し上目遣いに尋ねてくるので、顔に熱が集まるのを感じた。

「や、その…花が潰れちまったように見えたから。それに謝れなかったし」

「謝ってくれてなかった?」

「あれは及川、あー、一緒にいた奴が」

「あぁ、及川くんだったんだ。友達がファンなんだけど、どこかで見た顔だなって思ってたんだ」

別のクラスの幼馴染みのことはどうやら知っているらしく、なんとなくモヤモヤとした気持ちになる。

「ありがとう、岩泉くん。心配してくれて。ちゃんと元気だよ」

きっとまた、夏に花が咲くよと笑うと、名字は花壇の花たちに向かってホースから水を放った。






それから、梅雨が明けてからは毎日名字は水やりをしていたようだ。

たまに体育館から出て花壇の方へ行くと、花の世話をする姿を見かけ、向こうも俺に気づくと小さく手を振ってくれた。

教室ではほとんど話さない俺たちが、唯一目を合わせて、一言二言のコミュニケーションをはかる場所になっていった。

だいぶ日差しが強くなったなと思いつつ、ドリンクを片手にまた花壇の方へ向かう。

すると花壇に向かってしゃがみ込み、何やら土いじりをしている背中が見えた。

そしてその小さな頭には見慣れない麦わら帽子が乗っている。

「名字?」

少し戸惑いつつ声をかけると、くるんと麦わら帽子が振り返り、その下で少し影になった名字が破顔した。

「岩泉くん!咲いたよ!」

何が、とは聞かなくてもわかった。

名字の手元には、小さなオレンジ色の花があり、誇らしげに真っ直ぐ上を向いて時折吹く風に頭を揺らしている。

「去年よりちょっと小ぶりだけどね、可愛いでしょ」

花が可愛いかはよく分からないけれど、とても嬉しそうな名字を見ていると心が温まって、何とも言えない感情が腹の中をぐるぐると駆け巡る。

「帽子」

つい口にした見慣れないその麦わら帽子に、名字はきゅっと口を閉じてから、照れ臭そうに笑ってその鍔を両手で掴んだ。

「あのね、いつも水栓の鍵を用務員さんから借りるんだけど、日差しが強くなってきたからかぶりなさいって渡されたの」

病気になっちゃうよって、優しいんだよと、はにかみながら身体を揺らす名字が、何とも愛らしい。

頭に乗っている麦わら帽子は、ホームセンターにあるような地味な作りで、おそらく女子高生が身につけると想定して作られたものではない。

しかも用務員が使っていたのだろう、年季が入って決して綺麗とは言えなかった。

それなのに、なぜだろう。

なぜ…。


「なんか、似てるな」

「ん?なにが?」

「名字と、マリーゴールド」

「えっ…」

明るいオレンジの、暖かくてふわふわとした花が、目の前の麦わら帽子をかぶった小柄な女子と似て見えた。

「あ、わるい。花に似てるとか失礼だったか」

思わず出た言葉に後悔し、慌てて謝罪の言葉を口にするが、名字はそれに反してぶんぶんと両手を振って答えた。

「ぜんぜん!むしろ、嬉しいよ。嬉しい。大好きな花なの」

「、そうなのか」

「うん。あったかい色で、好き」

そう言って笑った名字と、俺の間を夏の風が吹き抜ける。

目の端でゆらゆらと揺れるマリーゴールドの気配を感じながら、目の前の麦わら少女から目が離せない。

この日、夏の青い空の下で、俺は名字名前に恋をしたのだった。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
200825
今さら某曲に胸キュンした結果がこれ。
思ったより長くなってしまって焦る。

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