聖母マリアの黄金の花2



「寒くなってきたね」

「そうだな」

「受験が近づいてくる〜」

「…言うな」

ひんやりとした空気が、辺りを引き締める。

寒がりのこいつは早々にマフラーをして登下校していた。

その隣を歩きながら、また、言えなかったと心の中で自分にため息をつく。

部活を引退して、進路を考え、スポーツ学科のある大学を目指すことにした。

そしてその後の目標もはっきりとしたのだが、なかなかそれを彼女に伝えられない。

率直に言って、恥ずかしいのだ。夢を語るのが。

夕焼けで逆光になった名前の、少し先を歩くシルエットを見つめる。

寒さに身体を縮めているのだろうか、いつもより小さく見えるその姿がやはり愛らしい。

まぁ、いいか。

もう少ししたらきちんと伝えよう。どんな夢を語っても、笑う人間じゃない。

エースとして戦い抜いた時間、その多くをずっと隣で支えてくれた彼女の、ふわふわとしているようで強さを持った芯の部分が特に好きだ。

隣にいるだけで、いろいろな不安から解き放たれていくように思えた。

「はじめくん?」

縮こまったシルエットが近寄ってきて、俺は手を伸ばした。

その冷えた手を取って自分のポケットにしまうと、少し固くなったその手がおずおずと俺の手を握り返してきて、口から笑みが溢れる。

「相変わらず、優しい手だね」

マフラーに埋めきれなかった赤い鼻先を、空いている片方の指で軽く弾いて、また俺は1年と少し前のことを思い出した。









2年の夏休み。

朝から暗くなるまで部活に励む日々がスタートした。

各々ストレッチして流れ解散という合図を受け、暑さのあまりに体育館を出て柔軟をしていると、サラサラとした水音が耳に届いてきた。

まさかと思いながら、その聞き覚えのある音の方へ向かうと、予想通りに名字がいた。

「あ、岩泉くんお疲れ様」

手に持ったシャワー付きのホースから、水飛沫が虹を作っていて思わず見惚れる。

「夏休みも、来てんのか?」

「もちろん。夕方にお水あげるの。昼間だとお湯になって花が可哀想だから」

「毎日か?」

「うーん、雨の日は来ないし当番制だけど…まぁ結構頻繁に来るよ。あ、暇人と思った?」

唇を突き出しながら、ちゃんと友達と遊んだりする予定はあるんだからねと言い訳し、水遣りを終えたのか水栓の方へ向かおうとする名字をつい呼び止めた。

「聞いてるか?」

「なにを?」



今朝、監督から告げられた情報があった。

隣で女子バレー部にも伝達されていて、彼女たちは男子バレー部より早く部活を切り上げて全員帰宅していた。

『まぁ、お前ら男子バレー部にはよっぽど関係ないと思うが』

隣で苦笑いするコーチを肘で軽く突いた監督が、目の前に並ぶ長身の男子生徒たちをぐるりと見回す。




「ち、かん?」

「あぁ、最近この辺に出てるらしい」

監督曰く、夏休みの部活帰りの高校生を狙った不届きな人間がこの学校の周りに出没していると。

下校時は複数で行動するようにとのお達しだった。

『俺みたいな美青年は危ないよね〜』

なんて呑気な声を出す180センチ越えの男はすぐに蹴飛ばしたが、気になるのはそいつよりもずっと小さな、目の前にいる女子。

「こわいね。夏だからかな」

「なんだそりゃ」

「一応気をつけて帰るね!教えてくれてありがとう〜」

じゃあまたねと手を振って去ろうとした名字を、今度は先程よりも慌てて、腕を掴んで引き留めた。

「ちょちょちょ!待て!」

「え?」

「だから、話聞いてたか?危ないから複数で帰れって」

「あの、お恥ずかしながら水やりは1人なの。早足で帰るし大丈夫だよ!」

「お前はアホか」

「えっ…」

初めて向けられた暴言にショックを受けているのが表情から分かったが、その言葉を訂正するつもりはない。

「俺がいるだろ」

「え?え?」

「一緒に帰るから、15分…10分待ってろ」

「え、あの?」

「そこ動くなよ!動いたらぶっ飛ばす」

「はい!」

名字が背筋を伸ばしていい返事をするのを横目に、体育館へ向かって駆け出す。

そんなに急いで着替えてどうしたの〜?と呑気に声をかけてくる及川を無視して、大雑把に汗を拭いて勢いよく制服のシャツを羽織る。

「やだ岩ちゃん、汗臭い」

「!」

イラッとしながらも、今回は暴力を振るわずに心の中で感謝し、もう一度ロッカーを開けて普段はあまりこまめに使わない制汗スプレーを取り出して全身に吹きかける。

隣で咽せている幼馴染みに、じゃーなと言い残し、また駆け足で部室を出た。





それから夏休みの間、水やりで名字が現れると、帰路を共にした。

時には事情を知ったバレー部の連中と一緒に帰り、コンビニでアイスを買って食べたりもした。

「名字が花好きだったの知らなかったわ」

「私も、花巻くんが甘党だって知らなかったな〜」

「俺は岩ちゃんが紳士なのも初めて知ったよ!」

「うるせえ!」

「あ、これ2人の通常運転だから気にしなくていいから」

「松川くんは冷静だね…」

大男に囲まれたことや、及川の無駄に綺麗な顔面に、最初は怯えていた名字だったが、段々と笑顔が増えていく。

気の利く花巻と松川が、騒がしい及川の首根っこを掴んで引きずりながらジャーネ!と帰っていく後ろ姿に軽く片手をあげ、名字を待たせている図書室へ向かうことも多かった。

【明日、当番なので学校行きます】

【了解。図書館で】

【ありがとう】

お互いにシンプルな文面で行われるやりとりは、松川が『夏休み中送るんなら連絡先交換しておけば?』とアドバイスをくれたことで始まった。

夕方に隣を歩く名字は、意外と饒舌だった。

よくそんな細かいことまで覚えていられるな…と思うような花の情報を教えてくれる。

自分よりもずっと小さな存在で、語りかけても答えてはこない生き物たちに丁寧に丁寧に愛情を注ぐ姿を単純に綺麗だと思ったし、尊敬もした。

そんな俺たちの関係が少し変わったのは、夏休みが明けてからだった。

9月になってからは夏休み前と同じようなサイクルになり、自然と一緒に帰ることはなくなった。

夏休みの間が特別だっただけで、元の生活に戻っただけだったが、教室で見る名字の横顔は、どこか遠い存在のように思えて心が疼く。

「名字、おはヨ」

「あ、おはよー花巻くん」

自然に挨拶を交わす花巻が羨ましいのに、なぜだか俺は話しかけられない。



部活終わりに、及川がギャラリーに囲まれている横をいつものように通り過ぎようとすると突然誰かに腕を掴まれた。

驚きながらその手を目で追うと、選択の授業で同じだった女子がいて、俺はさらに目を丸くする。

頼まれるままについていくと、体育館の裏に連れてこられて、突然告白された。

及川目当てではなかったのかと驚いたけれど、まぁ、もちろん定番の文句でお断りをさせてもらい、相手もそれなら仕方ないよねと納得してくれた。

『好きな人がいるから、ごめんな』

自分がこんな言葉を使うことになるとは、少し前まで想像もしていなかった。

頬を赤らめながら、時間とってくれてありがとうと頭を下げるその女子を見おろしながら、こちらこそと礼を言っている俺の耳に鈴のような音が聞こえた…気がして、反射的に顔を上げる。

何度も聞いた甲高い音。

そうだ、鍵だ。

脳がその音の正体を思い出すのと、視界に名字が飛び込んできたのはどちらが先だったか分からない。

こちらを見ながら、少し慌てた様子で気配を消すように素早く校舎の影に隠れるように戻ってしまった名字は、一体何を思っていたのだろうか。

まだ残っている夏の暑さに少し首部を垂れ、水分を待つ小さな花たちを見ながら、なんとなく罪悪感のような胸の燻りを抱いた。誰に対する罪悪感だったのだろうか。






「い、岩泉くん」


名字が薄暗くなった校門の前に立っていたのは次の日だった。

部活が終わって、いつものメンバーで学校を出たところに名字から声をかけられて肩が跳ねる。

「あれー名字ちゃんじゃないの!久しぶり〜」

「あ、及川くん久しぶり」

「なになに?岩ちゃんに用事?」

「えと、うん…ちょっとね」

「あっそっかー!じゃあ俺たちはこの辺で!バイバーイ」

「及川わざとらし」

「同感…」

いつもよりずっとオーバーなリアクションでくるくると回りながら去っていく及川と、その後ろで背中を丸めながらポケットに両手を突っ込む花巻と、目を細めて大袈裟なため息をつく松川。

3人は長い足をさっさと動かしてその場からいなくなったので、俺はあれからずっと黙っている名字に視線を落とし、歩くことを促した。

「おい、行くか?」

「へっ?あ、ごめん、どうしよう。3人から引き離すつもりじゃなかったんだけど…」

「よくわかんねーけど気にすんな。こんな遅くまで待っててくれたなら送るし」

「ご、ごめんね」

「だから謝んな」

恐縮しっぱなしの名字の頭を撫でそうになって、慌てて手を引っ込める。

自分でビビった…無意識に触ろうとしてた。

そんな行動や胸の高鳴りに気付かれないように、前を向いて少し大股で歩き出すと後ろから早足になった名字がついてきた。




しばらく黙って歩き、静かな住宅街になる。

もうすぐこいつの家だ。

ほとんど黙ってばかりでどうしたのか気になるけど、無理に促すのも憚られて俺も黙ったままで、でも何か言いたいことがあるなら聞きたい。

「あの、送ってもらってごめんね」

「ん?」

「大丈夫だったかな…その、カノジョ、とか」

「カノジョ?」

「ごめんなさい、昨日花壇のところで見えちゃって」

昨日、花壇のところとは俺が告白されていた現場のことだろうと合点し、小さく頷く。やっぱり見られてた。

「それがどうかしたのか?」

「私、一緒にいたらまずいのかなって」

「あ、あー…。つ、付き合ってないから」

「えっ!あ、そうなの?よかった。ん?よくはないのか」

名字は俺の言葉に1人で安堵したかと思ったら、あの女子をを思い遣って慌てて首を捻っていて、その様子に思わず笑い声が漏れた。

そんな俺をチラリと上目で見てから、名字は深呼吸する。

「あのね」

ざあ…と2人の間を風が吹き抜けて名字の髪を揺らしたので、少し前に揺れていたマリーゴールドを思い出した。

「私、9月になって岩泉くんと帰らなくなってね。なんか、すごく…すごく…えと」

「…ん」

一生懸命話そうとして、自分の両手を組みながら下を向く名字がなんだか可愛く見えて、思わず見つめてしまうと、名字はその視線に気付いてますます縮こまる。

「すごく、さ…ささ」

「!?」

冷静に見ていたのはそこまでだった。

「さ」という言葉を何度か繰り返す名字の両目からポロリと水滴が溢れたからだ。

「あ、うわ…ごめんなさい!」

「だ、大丈夫か?」

慌てて両眼を擦り、涙を収めようとするのにうまくいかないのか、その肩が震えてきて、ついに名字は両手で顔を覆ってしまった。

何があったのか不安になる。俺が原因で泣いたのか?それとも他に何か辛いことがあったのか?

「落ち着いて話せ」

少し身を屈めて名字の顔の高さに合わせたところで、パッと顔を隠していた両手が離され、その潤んだ瞳に俺の顔が映ったのが見えた。

「寂しいの」

「さ、みしい?」

「岩泉くんと、もっと一緒にいたくて」

「!」

「夏休みが特別だっただけって分かってるんだけど…でも離れたくない」

涙は止まっているが、また今にも溢れ出しそうなその目が俺をじっと見つめていて、金縛りにあったかのように動けなくなる。

「ごめんね、こんな変なわがまま」

岩泉くんは優しくしてくれただけなのに、調子に乗ってごめんなさいなんてまた泣きそうになる名字に堪らなくなって、その小さな身体を壊さないようにそっと抱き寄せた。

「い、わいずみくんっ」

腕の中で名字が硬直するのが分かって、より胸が熱くなるから、慌てているこいつを離さずそのまま抱きしめていた。







「はじめくん?」

「ん?」

「考え事?」

「あー、まぁそんなとこ」

顔の前で名前がぶんぶんと手を振っているのに気づいたときには、もうこいつの家の近くまで来ていた。

あと何回、こうやって一緒に歩けるのだろう。

そう考えると迫りくる卒業が、何か得体の知れない怪物のように感じて不安になる。

だいぶ暗くなってきて、2人の影も先ほどより伸びていた。

「見て」

そう言って名前はふたつの影が寄り添うように、俺の方へと身を寄せた。

「影がラブラブ」

「ラブラブって…」

お前たまに変に古いよなと笑うと恥ずかしそうに拗ねてみせるその小さな身体を、もっと俺に近づける。

「わ、びっくりした」

小さな生き物たちを大事に扱うその小さな左右の手を、正面から両手で握ると不思議そうに、少し頬を染めてこちらを見上げてくる。

手を握ったまま、腰を少し折り曲げ首を傾けて、自分の顔を彼女の顔に近付けると、キョロキョロと瞳が動き回った。

「え、はじめくん?え?」

「目、閉じろ」

「っはい」

ぎゅ、眉間に皺が寄るほど強く閉じられた目を見て、笑いそうになるのを鼻から呼吸することでなんとか堪えながら、小さな唇にキスを落とす。

言葉では伝えられない分の想いが届くように。

片目を薄ら開けて見ると、相変わらず必死に閉じられた目元を飾る睫毛が小刻みに震えているので、結局笑みは堪えきれずに溢れてしまった。

笑いに気付いた名字が、さっきよりも顔を赤くして怒っているけど、握った手は離さない。

今度は身体を抱き寄せてしまおうか、そうすればきっとまた赤くなるだろうと喉の奥で笑いながら、また、小さな手を握り直した。








☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
200902
本当、今更でした。

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