かみさまとわたし.後編
「なんかすげー声聞こえたけど」
幻聴かと思って振り返ると、そこには私が毎日背中を拝み続けた神様が、紙パックのジュースを片手にこちらへ歩いてきていて、パニックになっている私は身の程知らずも甚だしい勢いで岩泉くんに縋り付いた。
「いっいわ!むむむむむしがせなかに!」
もう日本語すら危うい状態で彼のシャツの胸元を掴むと、岩泉くんは私の奇行に驚きながらもすぐに私の肩から背中の方を覗き込み、手を伸ばした。
「カミキリムシじゃね?」
ひょいと指で摘んで見せられた虫のあまりにグロテスクな見た目に、私はその場で腰を抜かして尻餅をついた。
「あ、悪い。大丈夫か?」
掴んでいた虫を遠くへ放り投げると、岩泉くんは座り込んだ私に合わせて屈んでくれる。
岩泉くんの顔を見たら急に安心して、身体がぶるりと震えたと思ったら大量の冷や汗が出てきた。
同時に目からも汗が出てきたみたいで、視界が歪む。
「うぉ!?名字?どっか怪我したかっ?」
目の前で突然泣き出した女に動揺したのか、岩泉くんが肩をポンポンと叩いて顔を覗き込んでくるから私は顔を隠すためと、更なる安心感を求めて思わず彼の胸に飛び込んでしまった。
まだまだ外は暑いのに震えが止まらない。
恐怖と安堵が同時にやってきて私の精神は完全に限界を突破したようだ。
そのまま泣きじゃくる私を、岩泉くんは突き放したりせずに片手で受け止めてくれた。
背中を撫でながら「大変だったな」「もう大丈夫だから」と声をかけてくれて、ものすごくホッとしてくる。
嗚咽と震えがおさまる頃には、いつのまにか隣で騒いでいた先程の男子はいなくなっていて、昼休みの残り時間も本当に僅かになってしまっていた。
「ご…ごめんなさい!」
自分の大それた行動に、いっそ気を失いたいと思いながら、私は岩泉くんの胸から離れる。
「おー。大丈夫か?」
「だだだ大丈夫、です。やだもう…ごめんね」
わ、岩泉くんのシャツを濡らしてしまった!
しかもお昼休みを奪ってしまった!
「あー、とりあえず保健室行こうぜ。その顔じゃ教室戻れねーだろうし」
「え、どんな顔?」
「…なんか悲惨な顔」
「うぇ!?」
やだ見ないでください!と顔を両手で隠すと、岩泉くんの笑い声がしたので指の隙間から覗いてみる。
「嘘だよ。でも目も鼻も真っ赤だし、少し休んどけ」
「…う、うん。岩泉くんもシャツ…」
「すぐ乾くだろ。あ、鼻水じゃねーよな?」
「ち!違う!…と思う」
「ははっ。別にどっちでもいーけどな」
ほら行くぞ、と私の手を取って立ち上がらせてくれれば、長いこと座り込んでいたこともあって脚に力が入らずぷるぷると震えてしまう。
「生まれたての小鹿か」
「ううっ…」
「おぶってやろうか?」
「け、結構です!!」
「だろーな」
さっきからちょいちょいと弄ってくるのは、彼なりの優しさなんだろう。
醜態を曝した私がこれ以上落ち込まないように、引っ張り上げてくれているんだ。
あぁ神様、彼の格好良さを止めてください。あ、違う、岩泉くんこそが神だった。
結局私は、お腹と頭が痛いと訴えてその後1時間は保健室のベッドで休ませてもらって教室へ戻ると午後の最後の時間はHRで、なんと席替えの時間になってしまい地味にショックだ。
くじ運も今日は味方してくれなくて、黒板に記された岩泉くんの席と私の席はあっさり離れてしまっていた。
荷物をまとめて新しい席に移動しようと立ち上がると、前にいた岩泉くんがちらりと振り返る。
「新しい席では泣かないようにな」
周りに聞こえないようにボリュームを下げた声で笑いかけられて、私は耳まで赤くなってしまっているだろう。
「な、泣かないです!」
ムキになって同じく小声で反論すれば、岩泉くんはまた楽しそうに笑って、じゃー達者でな、なんて新しい席へと移って行った。
岩泉くんの席ばかり見ていたせいで、移動した先に仲の良い女の子たちが固まっていたことにやっと気がついた私はみんなに「そんなに顔赤くするほど私たちと一緒で嬉しいの?」とからかわれ、苦笑いする。
隣の席になった男の子に「よろしくな」っていつものようにさらりと挨拶する岩泉くんをそっと拝んで、また友達との談笑に戻った。
これから起こる、神様との奇跡なんてまったく予想もしないまま。
お弁当を忘れた友達に付き添って、購買に並んでいると少し離れたところから私の名前らしきものが聞こえた気がして首を動かした。
「やっぱり。愛しの名前ちゃんだぜ?」
知らない男子がニヤニヤとしているのを見つけて、その隣の人物に目線を滑らせると、あの虫事件以来やりとりをしていない他クラスの男子だった。
彼は一瞬私と目が合うとすぐ友達に向き直る。
「いや、もうそういうんじゃねーから。なんか、思ってたよりつまんねー女だから連絡取るのやめたわ」
「そーなん?」
「え、名前なんか急にフラれてるけど、あれ誰?」
彼の言葉が聞こえたらしく、どのパンを買おうかなーと微笑んでいた友達が憐んだような顔で私を見つめる。
うふふ、どうしたんだろうねー。
と、言いたいけれど私はそこまで大人じゃない。
むしろ、あの事件で助けてもらえなかったことを逆恨みしている。
「さぁ、よく分かんない。私、鑑賞用のイケメンか、いざというとき助けてくれる男前以外に興味ないから」
思ったより通ってしまった声に、少し恥ずかしくなるけど下を向いたら負けだと本能が呼びかけてきてなんとか堪える。
「な、なにそれっ…」
友達が半笑いで私の背中を叩いてきて、私もそれに笑顔で応えた。
彼の反応は興味もないから見なかったけれど、これであの時の恨みは晴らしたからな…と、我ながら蛇のようにしつこく思う。
この性格がまずいのかと過去の反省例を思い返していると、後ろから「ぶほ!」と聞いたことのある破裂音がした。
「マッキー汚いよ。鑑賞用のイケメンに唾飛ばさないでくれるー?」
「えー岩泉奢ってくれるのーうわー男前ー惚れちゃーう」
「急にどうした松川」
背の高い集団がいることに気がついていなかった私と友人は振り返ったまま硬直する。
彼らはそんな私たちを見てニヤニヤとし(岩泉くん以外)、ちらりと横を見ていた。
「名字サン?結構こわいね」
「大人しそうな顔してたまに毒吐かれるから注意な」
及川くんと花巻くんの言葉は私を赤面させる。
幸い、周りの人たちはほとんど気にすることなく買い物を済ませて散って行った。
バレー部4人組も何事もなかったように列に並び、去り際にじゃーねーと手を振ってくれて少し圧倒された。
「名前、急にわけわかんない人にフラれたかと思ったらバレー部に声かけられて…あなたの身に一体何が起きたの?」
「私にもよく分かんない…」
2学期の中間テストが近づいてきた頃、友達に誘われて教室で居残り勉強をすることにした。
まだテスト週間に入らないため、あっという間に教室からは人がいなくなって友達と2人きりになり少し開放的な気分だ。
「ね、生物のこれ分かる?全然分かんなくて進まないんだけど」
問題集を差し出されるけれど、私はまだそこまで到達していないのでさっぱりだ。
「無理。そもそもまず数学クリアしてからじゃないと生物なんて取りかかれない」
「うー、先生に聞くかぁ。あの人話長いもんなぁ」
「待ってるから大丈夫だよ。理解できたら今度教えて」
「はーい、じゃあ行ってくる」
問題集と筆記用具を抱えて友達が出て行くと、シン…とした教室になんだかそわそわとした気持ちになる。
今のうちに数学やらなきゃ、と対策プリントに向き合っていると、ガラリと扉の開く音がしたので私はそのまま声を出した。
「あれ、先生いなかった?」
しかし返事がないので顔を上げると、そこにいたのは友達ではなく
「い、岩泉くん」
「おす。ひとりか?」
制服姿の岩泉くんだった。
バレー部はまだ引退していないはずなのに、どうしてこんな時間にこんな場所に?
「ぶ、部活は?」
「今日はミーティングだけ。ちょっとボール触ってきたけどな」
彼の言うちょっと、がどれくらいなのかよく分からないけれど、きっと私のちょっととはだいぶレベルが違うのだろう。少し暑そうだ。
「そうなんだ、お疲れ様」
「げ、もう勉強してんのかよ」
ふらりと近寄ってきた岩泉くんは私の手元を見て眉をひそめた。
「凡人はこれくらい早くから動かないと間に合わないので」
「凡人…」
私の言葉をオウム返ししたかと思ったら、そのまま自然と私の前にあった椅子を引いて座り、プリントを覗き込んだ。
「相変わらず綺麗な字だな」
「へっ?」
突然呟かれた言葉がすぐに理解できなくて、岩泉くんの顔を見つめた。
「席替えする前、こうやってちょっと振り返ると名字の字が見えて、綺麗だなっていつも思ってた」
「え、え…知らなかった」
私が岩泉くんを見ていたように、岩泉くんも私を見ていたのか。いや、彼が見ていたのは私の字なんだけれど。
「…あ。ここ、違ってね?」
「んん?」
硬直している私を他所に岩泉くんはトントンとプリントを人差し指で叩いた。
「これ、途中からマイナス無くなってる」
「え?あれ?本当だ!」
よく気づいたね、と消しゴムを取り出して時間をかけて解いた計算式を途中まで消していく。あー、勿体無い。
プリントの上に散らばる消しカスを机の端に寄せようと手を動かしたら、勢いがつきすぎて少し岩泉くんの膝に落ちてしまった。
「わ!ごめん!」
慌てて手を伸ばしかけてぴたりと思い留まる。
いくら男の子でも膝を触ったらセクハラか?
「…名字さ」
「ひえっごめんなさい!」
急に落とされた声色に反射的に謝罪した。
しかし岩泉くんはそれをスルーしたのかそのまま言葉を続ける。
「前、中庭にいたやつって彼氏、だった?」
「…へ」
中庭?彼氏?なんの話?いや、分かるよ。分かるけど。
「かかか彼氏なんかじゃないよ!友達!…っでもないけど」
「なんだ。…あー、よかったわ」
「えっ?あ、もしかして気遣わせちゃった?大丈夫!彼氏じゃないから、なんか急にいなくなってたけど、岩泉くんのせいで喧嘩になったとか…そういうことも一切ないからね!?」
安心したように息を吐く岩泉くんに、勘違いさせてごめんと捲し立てると彼は少し笑った。
「それもあるけど。いや、もう一個聞いていいか?」
「な、なんなりと」
「今付き合ってるやつ、いる?」
「ふぇ!?い、いないよ?えっなんで急に恋バナ?」
世間話だって大してしたことないのに、急に女の子同士でもちょっと緊張するような話題を振られてしまって妙な汗が出てきてしまう。
いくら岩泉くんが誰とでも話せる人だからって、いきなりテーマが際どすぎないかな?
「そうか」
「うん、へへへ」
照れ隠しのために怪しい笑いを浮かべていると、岩泉くんが私を呼んだので彼の目を見る。
「俺と付き合わねー?」
「…」
ん?
あれ?
なんか、幻聴…?
「おい、固まりすぎ」
「…え、えぇ!?」
「声もデカすぎ」
「へっ、あ、ごめん。つ、付き合うって聞こえて…あれ?どこか行きたいところある感じ?ついて来い的な?」
「ちげーよ。お前のこと好きだって言ってんだ」
「…」
嘘だ。
これは嘘。それか夢。
だって、私はスクールカースト真ん中の人間で、岩泉くんはそれすら超越した存在。神ポジションなんだもん。
私は真ん中で、同じ真ん中の男の子と上手く付き合うこともできず、よく分からないままなぜかフラれてるような、平凡な平凡な高校生で。
本来なら岩泉くんとか、バレー部の男の子たちと話ができるような立場じゃなくて、ひっそりと友達とワイワイしながらこのまま学校を普通に卒業していく人間で。
「無視すんな」
「ひゃあ!だ、だって!」
額をぐんと指で押されて我に帰ると、私は早口になって先程脳内でつらつらと考えていた、自分の立場はあなたとは違うということを必死に伝えた。
「よく分からん」
「だ、だから!私はフツーの人間であって、岩泉くんみたいにすごい人にすすすす好きとか言ってもらえるような立場じゃなくって…!」
「俺は、字が綺麗で、毎朝きちんと挨拶してくれて、大人しそうに見えるのに赤くなったり驚いたり表情がやたらと変わって、勉強熱心で、虫くらいですげー泣くくせに嫌味に負けない強さがあって、笑った顔がめちゃくちゃ可愛い名字名前が、フツーに好きなんだよ」
絶句。
言葉が出ない。
何を言われてるのかもよく分からなくなってきたけど、とにかく顔が熱い。むしろ全身が熱い。
岩泉くんも少し赤面して俯き加減だ。
いつも堂々と顔を上げている岩泉くんが、こんな表情するんだ…しかも、私がこんな表情にさせてるなんて…。
「い、いわいずみくんは、私にとっては神様みたいに超越した存在で」
「…おう」
「すっごく格好良くて、男前で憧れで…」
「…おう」
「羨ましいなと思うところがたくさんあって…」
「…おう」
ぎゅっと目を瞑る。
本当は気付いていた。
どの男の子もピンと来なかったのは、私の理想の人がもう既にいたから。
でも、自分とは別世界の人だからとその気持ちには蓋をして見えないように、感じないようにしていた。
彼のせいで、他の男の子はみーんな霞んでしまうし、比較しちゃってダメなところばかり目に付くんだ。
そうだ、本当は、本当は私はずっと前から…
「…大好きでした。岩泉くんのこと」
「…でした?」
「う、大好き…です」
「っしゃ」
耐えられない。
恥ずかしさと、緊張と、そして幸せの重さに。
プリントがくしゃくしゃになるのを無視して机に突っ伏した。
そんな私を見て岩泉くんが笑うから、私も半分泣きながら笑った。
「私、初めてだよ。廊下で立たされたの」
「だーかーらー!ごめんって言ってるじゃん!」
「私も聞きたかったなー岩泉くんの告白」
「いや、実際聞くと結構ダメージ大きいよ。ひとり身には」
「うーんまさか名前があの岩泉くんの彼女になるとはね…」
「ね。でもまぁ、笑った顔めちゃくちゃ可愛いもんね」
「うん、めちゃくちゃ」
「もうやめてえええええ」
頭を抱えて縮こまると、背中や肩をつんつんと友達に突かれて身を捩る。
体育館で、体操着で、バドミントンのラケットを抱えたまま自分のゲームが回ってくるのを待っている間、私は彼女らの良いおもちゃとなっていた。
「あ、ほら大好きな岩泉くんが試合するよ」
「本当。顔上げて!」
「あなた方そんなに意地悪でしたかねぇっ?」
顔を上げると、スパァン!と風を切る音ともにシャトルが床に叩きつけられる。
うん、格好いいです。
「名字、この次ゲームだぞ」
「あっ、う、うん。ありがとう」
圧勝したことを気にも留めない様子で岩泉くんが近寄ってきて少し緊張してしまう。
「そうだ、今日も残ってくか?」
「あー、うん。そのつもり」
「じゃあ一緒に帰ろうぜ」
「ふぇっ」
「あ、友達と帰るか」
「ううんー!一緒には帰らないから!」
「名前のことよろしくお願いしまーす」
「ぎゃあ、やめて!」
こんなとき妙に息ぴったりになる女子たちに背中を押されて悲鳴を上げると岩泉くんが少し照れたように笑った。
人にはそれぞれ相応の立ち位置があって、見えない階級の中で上手に過ごしている。
そんなカーストの中で私は真ん中。
ピラミッドのような暗黙の了解の中で、私は気の合う友達と、階級を超越する大好きな人と、笑って過ごしている。そして、過ごしていく。
「名字ちゃん、卒業おめでとう」
「及川くんもおめでとう。なんか、制服ボロボロだね」
「色々もぎ取られちゃってね。そうだ、岩ちゃんが探してたよ」
「本当?どこにいた?」
「中庭の方かな。岩ちゃんもボタンとかネクタイとか、誰かに取られちゃうかもよ?」
「別にそれくらいならいいよーだ」
「嘘。今一瞬すごい慌てた顔した」
「う…」
「岩ちゃんのどこが好きになったの?」
「んー?…男前で、真っ直ぐなところかな?とりあえず、中庭にダッシュしてきます!」
「…名字ちゃんもだいぶ真っ直ぐだと思うけどね」
「はじめくん」
「おー。やっと来たか」
「私がこの場所嫌いなの知ってるくせに」
「しっかり草刈ってあるから、虫は出ねーよ」
「そんなの分かんないじゃん」
「あっ!前髪のところ!」
「ひぃ!?!?」
「…なんだ、名前の可愛い顔があるだけか」
「ちょ!急にそういうのやめて!!心臓もたない!いろんな意味で!」
「…他に人来ねーな」
「そうだね。ん?だから何?」
「…目、閉じろ」
「…絶対やだ!!誰か来るかもしれないじゃん!」
「来たっていいだろ、もう卒業だし」
「そういう問題じゃないよ!早くみんなのところ戻ろ!写真たくさん撮らないといけないんだから!」
「…チッ」
「ほら早く!あと、写真撮り終わったらネクタイ頂戴ね!」
「…分かったよ」
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ちょっと長すぎました。
200916
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